太平洋戦争終戦直前の昭和20年7月24日早朝、大津市の東洋レーヨン滋賀工場(現・東レ滋賀事業場)を襲ったたった1発の爆弾は、学徒動員の生徒や工場の従業員など16人の命を奪い、104人に重軽傷を負わせる県下最大の被害をもたらした。落とされた爆弾はパンプキン爆弾。長崎への原爆投下のための訓練として使用された模擬原爆であり、全国に約50発落とされたうちの1発だ。
死傷者120人を出した空襲。大惨事には違いないが、直後の広島、長崎の原爆被害があまりにも甚大だったことや、終戦直前の混乱にまぎれ、詳しい記録が残っていない。今も同じ場所で操業を続ける東レですら、昭和31年に創立30周年記念でつくられた冊子で被害の状況がやや詳しく述べられている程度。敷地内に慰霊碑などは建っておらず、投下された地点も判明していないという。
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記録には残らずとも、記憶には残る。爆撃当時、瀬田工業高校の2年生で、学徒動員され滋賀工場で働いていた池田廣さん(79)。当日の朝、警戒警報を聞いた池田さんは、友人の「爆弾だ」という声で工場外の防空壕に飛び込んだ。
「気味の悪いザーッという音がして、ドッカン」。投下後、敷地内に入った池田さんの目前には大変な光景が広がっていた。「修羅場やね」と語る池田さんだが、献身的に救助活動を行う1人の警察官の姿が印象に残っている。
現場を目撃した池田さんや友人たちは戦後数年がたつまでノイローゼに悩まされた。逃げ込んだ防空壕の中で、土壁にもたれているのに後ろから撃たれるような気がしたという。「1回も撃たれたことないのにね」と少し笑う。
広島に原爆が投下された8月6日には、工場の職員から「マッチ箱くらいの爆弾で広島が全滅した」と教えられた。パンプキン爆弾のことを初めて聞いたとき、こんなところでつながっているんだなと感じた。
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大津市馬場に住む松浦儀明さん(71)は、当時16歳だった姉、治子さんがこの爆撃で亡くなったことを、戦後、母から教えられた。
母から持たされた赤いがま口を持って、爆撃当日もいつものように出勤しようとした治子さんを、なぜか胸騒ぎがした母は、一度はとめようとした。かまわず出かけた治子さんの姿を見たのはこれが最後になる。直径約10メートルにも及ぶ爆心地にいたのか、爆撃後も治子さんの行方は分からず、結局、がま口しか発見できなかった。
松浦さん自身はそのがま口を見たことがないが、母がこっそり墓にでも入れたのだと今でも信じている。治子さんが生きていれば今、79歳。「何を話したでしょうかね」と松浦さんは、自宅にたった1枚しかない治子さんの写真を見つめる。
この戦争で治子さんを含め兄弟3人を亡くした松浦さんだが、今は孫6人に囲まれる生活を送っている。年が離れていたこともあり、姉のことを覚えていないのは残念だと思うが、「亡くした兄弟に生かされて今がある。ようやくそう思えるようになりました」と話す。
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空襲自体が比較的少なかった滋賀県では、この被害が最大のものだったが、資料によって死亡者数にばらつきがあり、死者の名簿も整っていない。体験者も少なくなり、「記憶」も風化しつつあるのが実情だ。
NPO法人「戦争体験を語り合う会」の宮川進理事長は「今の人には想像がつかないほど混乱していた終戦前後を考えると、記録が残っていないことも理解はできる。大事なのは、その時々に応じて、必要と判断した人が語り継ぐことではないか」としている。
(8月9日付け産経新聞)
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