今日も外は、時折、秋雨がシトシトと降っている。
初秋の雨はまだ肌に暖かく、顔に当たる雨の雫は、心地よく心まで潤していく。
こんな日は、家の中で静かに音楽を聴き、また読書に勤しむのも良しである。
雨はよく詩(歌)に詠われる。
『雨』『雨に歩けば』『雨のささやき』『雨に唄えば』『長崎は今日も雨だった』等々、洋の東西を問わず
雨の情景は、それほどに人の心に染みわたるのであろう。
昔の歌で、好きな歌人・北原白秋の作詞による『城が島の雨』と言う歌がある。・・・今日は、この名曲
誕生秘話について調べてみた・・・・
城ヶ島の雨 (北原白秋作詞:梁田貞作曲) 雨は降る降る城ヶ島の磯に 利休鼠の雨が降る
雨は真珠か夜明の霧か それとも私の忍び泣き
舟は行く行く通り矢のはなを 濡れて帆あげた主の舟
ええ 舟は櫓でやる櫓は唄でやる 唄は船頭さんの心意気
雨は降る降るひは薄曇る 舟は行く行く帆がかすむ
哀調を帯びたこの歌を聴いているうちに、その情景が浮かび上がってくるとても美しい歌である。
この歌が作詞されたのは、1913年(大正3年)白秋28歳の時である。
白秋が文壇に不動の地位を確立し絶頂の時期にあった頃、隣家に住む女性と親しくなるが、その女 性は既に夫から離婚を告げられ別居中であった、別れが決まっているとは言え人妻の身であり、その
夫から悪意(金目当て)をもって告訴(姦通罪~今は無い)され、二人とも投獄されてしまったのだ。 弟の奔走により間もなく釈放されたが、この一件で白秋は連日新聞紙上で糾弾される等、名声は地に堕
ち、青年白秋は”悔悟と自責の念”から、幾度も自殺を考えたと言われる。 様々な事情に苛まれる中で、白秋はくだんの女性と結婚し(罪滅ぼしか?)、一時、三浦三崎の城ケ島に
移り住む。・・・・・その時の体験が「城ケ島の雨」へと結実していくのだが・・・。 しかし 、このような不安定な精神状態の中で、1913年(大正3年)島村抱月から日本の歌曲の質を高
めるためにと、歌曲の作詞を白秋(作曲を梁田貞)に依頼して来たのである。 白秋は一件や実家の破産などの影響で、極貧生活を強いられていたため、作詞の依頼は渡りに舟
であった。 しかしこのような精神状態が中での詩作は、とても覚束ず期限だけが一日一日と過ぎて行き、一
向に想がまとまらない。 ある日、思いあぐねた白秋が、自宅のある見桃寺から向ヶ崎に出て、対岸の城ケ島の遊ヶ島の辺
りを何気なく見ていると、木々の緑に秋雨が煙って絶妙な色合いに見え、まさに”侘び寂”の極致 に見えた。
「利休鼠みたいな色だなあ~」、「そうだ!いろいろ考えても仕方がない。 利休鼠だ!今、一番身近な城ケ島を歌にすればいいのだ!」、かくして三崎の船唄「城ケ島の雨」
は「舟唄」として出来上がった。 白秋の『城ケ島の雨』イコール梁田貞と、言われるほどの名曲をたった1日そこらで作り上げたの
である。 作曲の梁田貞も、当然白秋とくだんの女の一件は(桐の花事件)知っていたし、同年代の者として
白秋の作詩当時の心情も理解しようとしていた。 それは詩の背景にある、詩人の心情が読み取れなければ、作曲などできないからだ。
梁田貞は、「城ケ島の雨」の中で白秋の心情を曲に重ね合わせたのであろう。 ♪雨は降る降る城ケ島の磯に 利休鼠の雨が降る 雨は真珠か夜明けの霧か それとも私の忍び
泣き♪白秋の自責と悔恨に苛まれた陰鬱な心情を表わしている。 ♪それとも私の忍び泣き♪、哀調のメロディーの中に明るい透明さもあって救いが見えてくる。
♪舟は行く行く通り矢の端を 濡れて帆揚げた主の船♪ の部分は、事件に濡れて心の旅人となって、巡礼の船出をする白秋の姿を表わすものであろう。
♪ええ 舟は櫓でやる櫓は唄でやる 唄は船頭さんの心意気♪、 のメロディーは、心の船旅にある白秋の心情の舵取りを鼓舞、応援、勇気付けるものの様に聞こえ
てくる。 ♪雨は降る降るひは薄曇る 舟は行く行く帆がかすむ♪、
前途になお困難が予想される、白秋の安否を気遣って見送る、梁田貞自身のメロディーである。
白秋の心情の変遷と行く末に焦点をあて、名曲を1日で作り上げた梁田貞も、また作曲の天才であ ったと考えられるのである。 (出典~北原白秋伝「城が島の雨」より)
これは名曲『城が島の雨』の制作過程における背景なのだが、およそ歌という歌には、何がしかの
物語が秘められているのであろう。
~今日も良い一日であります様に~
角鉢に昨年植え付けたイワヒバと野の草、コバギボウシの花が咲き始めました