タカちゃんの絵日記

何気ない日々の感動を、スケッチと好きな音楽と、そして野鳥写真を。。。

 ♪ JAZZ[グッド・ラヴァー」:エスペランサ・スポルディング ♪

2018-06-30 | その他




先般のシルバー展に、『春宵一刻』:(シュンショウイッコク)と題して出品した50号の日本画です。 桜花散る桜の花の下に佇む白馬によせて、春の宵のひと時を表現すべく取り組みました。 入賞は逸したものの日本画絵の具特有の美しさと、その為にモチーフと構図は如何にすべきなのか等、今後の日本画ヘの取り組みにおいて、大変参考になった一作となりました。 日本画に限らず絵を描くと言う事の基本は、物を写し取るデッサンやクロッキーの正確性、そして構図がきっちり決まれば、絵の7部どころは出来上がったも同然、そのことを肝に銘じることとなった作品でもありました。 研鑽有るのみですね。 




現代のJAZZ VOCALの中から取り上げて見たいと思います。第一弾は「エスペランサ スポルディング」です。 
エスペランサ流ポップ・ワールドで、グラミーで最優秀新人賞に輝いた"現代ジャズ・シーン最高の才媛"、4年ぶりとなるアルバム。アルバムごとに綿密に構築したコンセプトによるプロジェクトで話題を集めているエスペランサですが、かつてなくロック、ポップ色の強いサウンドに仕上がっています。
彼女は過去に「どこに行っても天才たちに囲まれていたりするけど、それはたぶん彼らが私よりキャリアがあるとか、女性でないとか、メジャーレーベルに属していないだけのことだと思うし、そもそも天才的な人々はそんな細かいことは気にしないものよ。」と語っている様です。






グッド・ラヴァー:エスペランサ・スポルディング

 ♪「あなたはあなたのままでいい」~今井美樹

2018-06-28 | その他




ここのところ、体中が痛く体調も悪くてちょっと参っていましたが、こんな時こそ自分に鞭打って小さな目標・小さな目的を持って、動くようにしなければと。。。(逆も真なり:逆療法ですが気持ちの方で負けてしまっては、体に良くないと思うからです。) そんな感じで、昨日は掛かり付けの総合病院で精密検査を受けて来ました。 異状なく結果オーライでした。 それで気持ちも晴れるのですから。 人間やっぱり気の持ち様、正にその通りだと思った次第です。 さて、今日も忙しくなるぞ~。 それでは、また。。。






あなたはあなたのままでいい~今井美樹

 ~梅味噌作って見ました。~

2018-06-27 | その他



今日は一度作って見たかった「梅味噌」を作って見ました。 食材の梅は今が旬、昨日広島からの帰り道道の駅に立ち寄り求めて来ました。それに我が家の梅の木に経った10個ばかり生っていた梅を収穫したものです。 先日、ブログ「みみちゃんのひとり言」にUPされていた、梅味噌レシピを参考にして作りました。 梅に十字の切れ目を入れたり、ヘタを取り除く下ごしらえに少々時間が掛かりましたが、ここまで出来れば後は簡単調理、出来上がったのがこれ。↑ 

梅のエキスが味噌に溶け込み美味しく出来上がりました。 ただキュウリに塗って食べると美味しいと紹介されていたものの、他にどんな食べ方があるのか?? 試しに色々なものに塗って食べて見ましたが、結構、何にでも合う様な気がします。 朝食のパンにジャム替わりに塗っても良いのかも。 また焼きおにぎりに使うのもいいのかもしれません。 これで私の料理のレパートリーが一つ増えました。(笑) 昔は料理本にしかレシピは載っていませんでしたが、今はネット社会、レシピ一つで何でも出来ますから、半世紀前には考えもつかなかった、便利な世の中になったものです。







いとしのエリー(桑田佳祐)カバー曲聴き比べ




EXILE ATSUSHI :いとしのエリー






レイ・チャールズ:いとしのエリー

 ~闘病の記NO4~

2018-06-26 | 風景



27年3月1日
この日もただただ痛みに耐える一日。 術後「ガスが抜けたのか」とよく聞かれますが、まだ抜けていないためか、腹部の膨満感に伴う痛みは結構辛い。これは開腹手術の場合、早くから歩行、運動と休養のバランスが大切だと言う事である。 術後何らかの原因で、腸閉塞になることがあるからである。 
27年3月2日
痛みに耐えて歩行訓練(リハ)をした結果だろうか、今日はガスが抜けて腹部膨満が解消され痛みも半減してきたのだが、気を紛らす術もない夜に入ると、痛みが出て来る。 鎮痛剤を飲みながら耐える。 とにかく長い夜。。。が続く。
27年3月4日 
術後の各種検査を繰り返しながら自主的なリハビリに励む。 今朝は最後の管が体から抜かれ、これでやっと自由の身になった。 気力体力も徐々に回復に向かいつつある。 術後初めて経口食を摂る。 軽い食事ではあったが美味しく完食出来たのが嬉しい。
~ラッキー7~

思い起こせば、6年前に最初に肝細胞癌が発見されたのが2月27日、そして入院までの応急処置(冠動脈塞栓術・抗がん剤投与)の為に日赤病院に入院したのが、3月17日、そして今回の肝細胞癌の早期発見も2月17日、手術が27日、すべてが7重なりなのである。 肝細胞癌の場合、発見時には70%が手術不可能であると事からしても、私にとってはもうこれは~ラッキー7~と言うほかないのである。
27年3月5日
昨夜から息をするのがとても息苦しい状態が続いていたが、朝エコー検査をした結果、肺に水が溜まっているとのことで、午後に入り背中から肺の水を抜く。 ベッドに同じ姿勢で約1時間座ったままの処置は、結構辛いものがある。(抜かれた水の多さにはちょっとビックリ。) 次第に呼吸も楽になって来た様だ。
27年3月6日
この日の朝の体重測定で49キログラムにまで落ちていた。(入院時56㎏) これには正直大変ショックを受ける。 ただ1週間以上も絶食状態(点滴のみ)なのだから、致し方ないだろう。 入院後、初めてシャワー使用許可が出て、シャワーを浴びると痛さ、辛さも一緒に洗い流してくれた感じで、気分爽快。 今日は少しハードな自主リハビリを行った。 そのためか、夜もよく眠れた。
27年3月7日
入院後一番の気持ちの良い目覚めであった。 朝の回診時に主治DRから「明日、退院で良いですね。」と唐突に聞かれるも。。。「まだ痛みはひどくて退院してもこの状態では、日常生活や帰県もままならないので、もう少しの間居させて欲しい。」と、退院日について交渉(順番待ちの人がいるとしても、これだけは譲れない。) 結果、延期が決まった。 未だ抜糸もできていないのに。。。それに最後に管を抜いた部分から体液が滲み出るため、傷口を本日縫合してもらった。
27年3月11日
~~今日は、「3・11大震災」から4年目の日、未だ震災の大きな傷痕は、人の心、土地、生き物など全てのものに残っており、予測不能な自然災害で「想定外の不運」の一語で語られる問題ではない。 その苦しみは経験した者にしか分からないだろう。 福島の原発の完全廃炉までは、少なくとも40年以上もかかると言う。 事故当初、国内の原発全廃炉論争があれだけ高まっていたのに、今では再稼働への準進が進められている。 人間の英知を超えて制御不能の核、事故の経験のない人間が考える核に対するおごり以外の何物でもないだろう。 今すぐ廃炉に向かうべきだと思う。 その決断こそが国の指導者達の大きな仕事ではないのか。~~と、記帳
徐々に気力体力も回復しつつあり、遂に3月13日の退院が決まった。
27年3月13日 
10:00に退院、一旦マンションに帰り、少しでも身体を慣らしてから帰県することとした。
帰県までの5日間、日常生活に対応して行けるようにと、街に出て歩行訓練(リハビリ)に撮れ汲む。 傷口はまだ結構痛くて大変であるのだが。
27年3月17日
いよいよ島根に帰る日、マンションを引き払い、なるべく歩かない様にしながら、羽田空港でも車椅子で介助されながら搭乗、一路我が家へ。
20数日振りの我が家であり、「我が家はいい~~。」
その後の日常は、一回目の術後とは違って、予後のQOLは格段に落ちるため、自から体力、気力の回復に立ち向かうち気持ちが不可欠である。と思う。
当ブログの読者の方、がんの罹患が発見された人、あるいはれから切除手術に向かわれる方、そして今まさに闘病中の方達に、私の今回の経験上、参考になることがもしあるとすれば、
がんに罹患した場合に一番大切な事は、「病と闘うと言う確固たる気持ち持つこと。」「手術をするには、医者を選ぶこと。」「予後のQOLの低下や辛さには、常に目標を持つこと。」ではないかと思う訳です。
 
畑に種を撒けば、やがて芽も出て実も生る事でしょう。 それも大きな楽しみです。

その後も色々ありましたが、こうして元気になって元気な時と変わらない日常生活を送ることが出来ています。 ちなみにここ五日、自家用車を運転して広島へ元気に出掛けて来ました。 今日は日本画教室の日、次の作品に向かいます。





スティヴィーワンダー:マイセリー・アモール

 ~闘病の記 NO3~

2018-06-21 | 風景



〇〇年2月27日
「いよいよその日の朝が来た。」と言う心境、いつも通り看護師さんの巡回検診・測定があるためと言う事もあって、午前4時半と、いつもよりは少し目覚めは早かったが、精神的な不安は微塵も感じなかった。 それは今回が二回目の手術であり、この病院の門を潜った時に、手術への期待と覚悟は、既に固まっていたからなのだ。 ただ一つ前回の時に比べたら体力そのものが落ちている事は事実、そのことに対する危惧であった。 ただ家族をはじめ心配してくれている皆の応援や期待にだけは、立派に応えたいと言う思い一つである。 鎮静剤❓を注射した後、ストレッチャーに乗せられて(歩いて行けるのに。。。)8時45分、入り口で家内や長男に「頑張って」と見送られながら第8号手術室に入る。 麻酔をかける前に脊椎に注射をされたが無痛であった。 担当看護師と簡単なコミニュケーションを図ったのだが、マスクをされるとその内に麻酔が効いて来たのか、麻酔医と一言二言話す内に、宇宙に溶け込む様な心地よい感覚で、眠りにに落ちて行った様に思う。。。。。 DRに声を掛けられて目覚め、手術室の壁の時計を見上げると、午後5時丁度であった。(手術は正味8時間はかかった事になる。) 「手術は成功しました。 ただ前回手術の後の癒着がひどくて、これの処置に少々時間が掛かりました。」とのことであった。 当然の事ではあるが手術中痛みは一切感じることはなかった。 そのままナースセンターの隣の集中治療室に移され、喉がカラカラで水を飲みたかったが、唇を濡らす程度で徐々にと言うことであった。 当夜は麻酔が切れたばかりなので、とにかくひたすら激痛に耐える長い長い夜となった。 時々、痛み止めの薬を注入してもらい(脊椎にあらかじめ注入するための管が取り付けられているので)、更に朝方になってから睡眠導入剤によって、うとうとと2時間ばかり眠ることが出来た。 この夜の激痛はこれまでに経験したことのない痛さであったが、後から考えると今回の入院での痛さのピークであった様な気がする。 (仕事とは言え、担当の例の看護師さんの至れり尽くせりのサポートにはただただ感謝感謝あるのみだ。)
〇〇年2月28日
手術から一夜が明けても、体を少しでも動かしただけで傷口に激痛が走る。 なのにである昼前になって、術後初めての自力歩行による体重測定を指示された。(これは一回目の手術の時もそうであったが、手術の翌日から活動と休息のバランスをとり、早期歩行(リハビリ)は、筋力・歩行能力・呼吸機能・心肺機能などを高めるためにも、極めて重要な事であるのだそうだ。) しかしたった往復20メートルほどの、短い距離であるが正直言って、これは痛い。 それはそうでしょう、昨日40センチほども開腹して、ホッチキスで止めてあるだけなんですから。 午後一番に車椅子で階下に降りてレントゲン撮影をして、その足で元の大部屋に帰る。 部屋の皆が「お~、帰って来たね。 ご苦労様」と迎え入れられた時には、正直ホッとした。 当日は体中4~5本ほどの管で繋がれたたまま、トイレまでの往復40メートルを、痛みに耐えながら自力歩行(リハビリ)で1回行った。 夜に入ると周期的に激痛に襲われ、その度に脊椎の管から痛み止めを注入してもらう。 痛み止めも長時間にわたって効くわけではなく、この夜も痛みに耐えながら朝方になって導入剤によって、2~3時間うとうとしただけであった。 思うに確かにこの痛さは尋常なものではないが、痛みを感じると言う事は、やがてこの痛みもなくなると言う事の証、ならば耐えましょう。(と記している。)
~まだまだつづくよ~ 









ジュリー・ロンドン~この世の果てまで
 

 ~闘病の記 NO2~

2018-06-20 | 風景

天気晴朗なれど波高し


〇〇年2月25日
今日の日記の冒頭には、何故か・・・「てんとう虫」テントウムシ(天道虫)の名の由来は太陽に向かって飛んで行くことから、太陽神の天道から名付けられた。]と書いていた。 多分、これは昨夜消灯前に見ていたTVでやっていたのか、あるいは昼間売店で買って来た雑誌に載っていたことから、メモしたのだろう思う。(多分今回の入院に際しての、前向きな気持ちの表れだったのかもしれない。) さて、今日は手術に備えての肺活量を高めるために器具を使っての負荷を掛けた、呼吸法の訓練を自発的に繰り返し繰り返し行った。 また術前のCT検査と大腸の内視鏡検査を行ったのだが。。。。 内視鏡検査は何とかクリアー出来たものの、CT検査の造影剤注射を受けた検査を受けた直後に、今まで何回もCTは受けてきて一度も起こらなかった症状が出て来た。 目眩で倒れそうになり、呼吸がゼーゼーと息苦しくなる(呼吸困難)など、アナフィラキシーショックが起こったのだ。 このため点滴を受けるなど緊急処置を受ける事となってしまった。(そう言えば、事前承諾書に、こうした症状が出る確率、その際の緊急処置体制などについて、記されていた様に思う。) やっと症状が安定したところで部屋に戻り、少しベッドで横になる。 目覚めると隣のベッドの人が部屋を移ったのか、新たに30代の若い人と入れ替わっていた。 夕方になってから、また昨日と同じ肺活量を高める訓練を繰り返し行う。(手術中の呼吸を確保する為の訓練の様だ。) 隣のベッドの患者さんは、聞けばすぐ近くの板橋区内に実家があって、この病院には子供の頃よく遊びに来ていたと言う。 大病を患いまさか入院することになろうとは夢にも思わなかったと言う。 それはそうでしょうまだ若いから、「何故俺が。。。」と、がんと宣告された時には、大きな衝撃を受けたに違いないと思う。 消灯になって暫くすると、隣の若者のベットからすすり泣く声が漏れて来る。 癌は「早期発見」とは云うものの、この若さでの宣告はとても辛いのだろう。 そう思うと私はなんとラッキーな人間なのだろうと思う。 私の肝炎から肝がんに移行する確率は約10~15パーセント程度なので不運と言えば不運だが、反面、幸運なことには発見時手術可能率は15パーセント、その中の一人なのだから。(B型慢性肝炎から肝がんに移行) 思うに私のラッキーセブンは、文字通り「7」のつく日だと思った。 と言うのは、第1回目の手術は六年前の3月27日(がんの発見が2月17日)、そして今回の手術の予定日が2月27日で、すべて7の数字が付いている。 中でも肝臓は、「沈黙の臓器」と言われ、自覚症状が出ないため知らない間に、どんどん病状は進行し、手術可能率は15パーセント代だとの統計がある。 今回手術が出来ると言うことは、これもラッキーなことではないか。(がんは早期発見がその後に治療に大きな影響を与えるから、年に一度の健康診断は絶対にしなくてはならないと、私は周囲の人に常日頃から言っている。) 今夜はすっかり眼が冴えて、取り留めもない様な事に想いを巡らせながら。。。いつの間にか眠りにおちていた。
〇〇年2月26日
いよいよ手術の前日、朝から家内が病院に来る。(慣れない東京で、私の付き添いで一人マンション暮らしをしながらあまり、外歩きはしないと言う。そんな中での連日の病院通いは相当なストレスもあると思うが、毎日洗濯物を入れ替え、同室の方と明るく雑談をして帰って行く。) この日は検査もなく、ゆったりとした一日を過ごす。 私の看護にあたってくれた看護師さんは、高度な看護資格を持った人で、手術前日の各種処置をテキパキと行ってくれた。 (最初の手術の時に看護してくれたK看護師さんとは同期で親友、しかも同じ資格者だと言う。 Kさんは求められて今は他院に異動になった様である。) 今日は時間的な余裕もあって、同室の人達とのコミュニケーションが思う存分図れ名刺交換までした。 いずれも東京や首都圏域の方で、同室の好で、今後の交流を約束したりした。 手術を明朝に控えていると言うのに不安感は無く、昨夜、就寝が遅くなったせいか、夜は消灯と共にぐっすりと眠ることが出来た。
~続く~






山口百恵~さよならの向こう側









宇崎竜童~夜霧のブルース




            

  ~ 闘病の記 ~

2018-06-19 | 風景







最近「死生観」について考えることが多くなって来た。 反面、生きることへの執着心は強くなる一方で、これまで「生を通して死を見詰める」ことは、比較的少なかった様に思う。 先日も友人から「国民の二人に一人はがんに罹患する時代私もそんな歳になって来た。。。それを乗り越えて来たあなたに教えて欲しい。 がんの宣告をされた時に、あなたはどう対処して来たのか。」と、そう言えば先般、親しくして頂いているブログ友さんが、入院、手術、その後の経過などについてブログに書かれていて思ったのだが。 同じ病を得て、たった今も、闘病や手術を控えていらっしゃる方も多いと思うので、 そこで入院の度に付けている「闘病日記」なるノートを見ながらが、私自身が、現在はとても元気になって日常生活を楽しく送っているので、少しでもそのような境遇にある方の参考になればと思い、ノートを見ながら、当時の状況を綴って見ることにした。(これは二回目の手術の際の闘病日記である。)~~私はこれまで、病気の事については一度も書いたことがなく、どちらかと言えばこれは重たいテーマなので、興味のない方はスルーして下さい。 〇〇年〇月23日~26日  日大付属板橋病院で、肝・胆・膵(取り分け肝臓がんの手術)の手術にかけては、世界的な名医・高山忠利教授直々の執刀により手術を受けるために上京、(この先生に全てを託したのには、それなりの経緯があって、それは、〇年〇月17日、地元の掛かり付け医で、肝細胞がん二個ステージ3の早期発見をして頂いた、第1回目入院前に遡る。 どうしたものかと途方に暮れる中、たまたま立ち寄った書店で手にした本によって、高山教授の事を知ったからである。 迷うことなく直接教授に電話で診察を依頼して見た、その結果快諾を得たのだ。 セカンドオピニオンも当たり前の時代だが、地元のDRに事情を話し、高山教授の外来診察を受けることに決めたのである。) 今回の入院当日、病院から直ぐ近くのウイークリーマンションに妻の入居手続きをした後、入院日には、各種入院手続きや、各種同意書を書き、続いて四日間に渡り、心電図・呼気検査・レントゲン・採血・エコー検査等々を行う予定。 これらの各種検査をクリアー出来れば手術が可能かどうかが分かるとのこと、予定としては〇月27日の8:45から、肝細胞がん(約2センチのがん1個)の摘出手術の日程が決まる。 病室は6人部屋で、同室者は人それぞれに大きな手術を何回か経験し、またはこれから手術する人ばかりなのだが、ここを乗り越えればまた平穏な日が戻って来ると信じている人ばかりだから、以外と悲壮感はみじんも感じられず、部屋の雰囲気も明るい様だ。 そして、入院第1日目が終わった。 これから連日、検査々々の繰り返しなのだが、これも手術へ向けての準備であり、生きるためのウォーミングアップと思えば、何一つ無駄な検査は無く、正にこれこそこれが「一瞬一瞬を大切に生きると、云うこと何だろうな~」と実感した次第である。 気持ちをしっかりと持って目的に向かう決意が、一番大切な事だろうと思う。 人間、そうそう誰でも体験できることではない。 まだまだ検査は続くよ。。。 この四日間検査とは別に、精神鍛錬と体力維持や肺活量を高める訓練などもあるから、一日一日がとても忙しい四日間になりそうだ。 〇年〇月24日 同室者とのコミュニケーションも図りながら、聞けば三回目の手術の人、今回の手術後一旦退院して一か月後に再手術を控えている人、人様々であるが中でも特別重病の方もあって、時折話し掛けても無言で睨み返すだけ、崖っ淵に立っている様子である。 だが徐々に話し掛けるいる内に次第に心を開き、話しにも加わってくれる様になった。 そうした中にも、日に数回ナースコール(逆コール)で呼び出され、午前、午後と検査を繰り返す。 中には大変辛い検査もあるが、そんな時には口からゆっくりと息をはきだす様にしている。(私は、そうする事によって痛みに耐えられる。 あまり経験したくない生活の知恵なのだが。~リラックス効果あるのだろうか??) 今日は夜になって、手術に備えるための点滴用の針を腕に取り付けた。 入院二日目もこうして日が暮れたのだが心は穏やか田ある。 夜もよく眠れている。   ~続 く~




~貴方にとって、今日も良い一日であります様に~









マルティナ・マクブライト:Abroken Wing

 ♪ 小野リサ:イパネマの娘 ♪

2018-06-18 | その他


ジェームスデーン


「理由なき反抗][エデンの東][ジャイアンツ]等の幅広い年齢層を演じたジェームスデイーン、今、映画はこれらの作品をレンタルして観ています。 1955年に僅か24歳と云う若さで事故死した彼は、あれから60年以上も経っていると言うのに、我々世代の映画ファンの中では世界中に、「永遠の大スター」としてファン層も厚いと思います。 映画の中では、少し陰のある暗いイメージの役柄が多く、 その典型はやはり「理由なき反抗]でしょうか。 また「ジャイアンツ」では、青年期から初老に至る幅広い年齢層の役柄を、その圧倒的な演技力で見事に演じ切っています。 若い頃から洋画ファンの私ですが、ジェームス・デイーンや同じく若くして事故死した和製ジェームス・デイーンと呼ばれた赤木圭一郎のファンでもありました。 人生を懸命に、そして一瞬のうちに駆け抜けた人だから特別に輝いている姿を思い起こさせるのかもしれません。


 










小野リサ:イパネマの娘











エルビスプレスリー&マルティナ・マクブライト~Blue christmas

 ♪ 小野リサ:「あの日に帰りたい」 ♪

2018-06-17 | 風景


松江城馬留から見上げる太鼓櫓と中櫓


 



まだ眠りに就いている武家屋敷風な茶屋



二の丸下の段の東には、鬱蒼とした 森があり樹齢何百年か経っていると思われる椎の木が、縦横に根を張って大地を掴んでいる。



今朝は午前5時30分には家を出て、愛犬と共に城山コースを歩いて見た。 統計上健康のために良いと言われている :30分、3330歩: を目途に歩いては見たが、このコースも犬を連れての早朝散歩の人が結構多くて、すれ違う度に犬が取り持つ縁で立ち話、犬の自己紹介から始まって、結構会話が弾むからどんどん時間がオーバーしてしまう。 この自己紹介と言うのが奇妙なもので、向こうから来る人がいきなり「ミカちゃん元気だったの。」と呼びかけて来るから、面食らってしまう。 そう言えば随分前にこのコースで、一度であった様な気もする。。。若い人は記憶が確かなもので一度通りすがりに会っただけで、名前まで覚えているからビックリ(私は全く思いだ出せないのに・・・)してしまう。 結局、今朝は60分かけて3330歩を歩いたことになる。 


 





ボサノバの小野リサが「あの日に帰りたい」

 🎶フリオ・イグレシアス~黒い瞳のナタリー

2018-06-16 | その他






 
リンダ・ロシュタットは、「悪いあなた(You're No Good)~ソウルシンガー・ベティ・エヴェレット1963年ヒット曲のカバー」が全米1位を記録してから、一気に人気に火がつき、以降、トップ10アルバム10作品を世に送り出し、 日本でもこの頃から人気が出始め、「いつになったら愛されるのかしら」も全米2位を記録している。 彼女も今は71歳となり、長期にわたる難病と闘い、既に歌謡界からは引退ている。






私が若い頃から好きでよく聴いていた、アーロン・ネェヴィル(アーロン・ネェヴィルブラザーズ)は、ヨーディルの様な甘く転がすような歌声に魅了された歌手の一人である



リンダ・ロシュタット&アーロン・ネェヴィル











フリオ・イグレシアス~黒い瞳のナタリー

 ♪ ローズマリー・バトラー:汚れた英雄 ♪

2018-06-15 | その他
今朝は降りそで降らないどんよりとした山陰独特のお天気こんな日は気分も⤵気味。 ここしばらくの間、日本画の大作に挑戦していたが、先日作品を描き終えて丁度一息入ったところ。 折も折、昨年お宅にお邪魔して教えを受けた(チャイナペインティングの)、静岡のブログ友達の方から、「チャイナペインティングの本を送って上げましょうか。」との連絡を受けたところ。 このチャイナペインティングと言うのは、白磁器に絵付けして、これを数回焼成して作り出す、世界にたった一つだけの器。 独学だから書籍に頼らざるを得ない。 そんな訳で有難く頂くことにした。 ところで、ブロガーさんは全国で200万人以上いる様で、ブログを書く目的は人それぞれに全く違うけど、私は、コメントを通じて全国の方とコミュニケーションを図る事、そして縁あればこうしてお会いして、色々と学ばせて頂くことだと思っている。 人生思い通りに行かないことが多いけど、何事も終生学びだと思っているから。  





今日はリクエストに応えてYouTubeからチョイスしt洋楽をUPして見た。




ローズマリー・バトラー:汚れた英雄









イル・ディーヴォ:マイハート・ウィル・ゴー・オン

 ~親鴨の背中に子鴨を乗せて・・・~

2018-06-14 | その他





日課のウォーキングの途中、市街地を流れる小川(水路)で、鴨が背中にひな鳥を一羽だけ乗せて泳いでいました。 そう言えばこの川で以前何度か川辺に棲む、泳ぎの得意な大型のネズミによく似た「ヌートリア(外来種)」を見掛けたことがありました。 このヌートリアは毛皮を取るために、戦後仕入れられた動物で、今では全国的にかなりの県に分布して来ている様です。 白鳥や鴨等が外敵から我が子を守りながら渡川するのは知っていましたが、これも水鳥の母性なのでしょうね。 以前別の場所で見掛けた時には、たくさんの雛を乗せて泳いでいました。 昨日もとても心癒されるワンシーンではありましたが、他の雛鳥達は一体どうしたのでしょうか。。。。。。 気掛かりなところです。











ジャクソン・ブラウン:iove needs a heart 

 ♪ Lionel Richie - I Call It Love ♪

2018-06-13 | 風景






松江城の内堀の幅の狭くなった樹間を堀川遊覧船が巡って行きます。 その途中、遊覧舟一艘がやっと通れる様な場所がある事から、屋形船の屋根は、その都度低くすることが出来る様になっています。 そんな個所を通過する際には観光客も「わぁ~」と、一斉に声を上げたりしています。 かつてこの堀川沿いの家には、作家、志賀直哉が父親と深刻に対立して、創作活動にも悩みを抱えていた青年期、ひと夏を過ごした借家がありました。 それは城の裏手の亀田橋の近くであったようです。 同じく大正初期、芥川龍之介が相次いで松江を訪れ、この内中原町で暮らしたことあるそうです。 明治大正期の画家や作家等は、地方の旧家などに逗留しながらこうして全国を旅して、秀作を書き(描き)残したと言います。  ~また、志賀直哉と里見が一緒に山陰で遊んだのは、1914年であった。松江に来て大橋から宍道湖を眺望した里見は、『ある年の初夏』のなかで、「やっぱり出掛けてきてよかった」と印象を記している。 「騒々しい停車場を出て、陽炎のユラユラ揺れている駅前の広い砂利場に立った時には、いかにも新開地といった風なひどくザラついた印象を受けてうんざりしてしまったが、車があの名高い大橋にかかって、左に渺々たる宍道湖を、右に船舶や橋の河岸の家々が映った大川を眺めた時には、“ああやっぱり出掛けてきてよかった”と思った。」 松江で志賀と里見は別に家を借りて3か月を過している。 志賀直哉は、松江での暮らしは心の安まる毎日であったようで、『濠端の住い』のなかで、その暮らしぶりを次のように描いている。 「一ト夏山陰松江で暮らした事がある。町はづれの濠に臨んだささやかな家で独り住まいには申し分なかった。庭から石段で直ぐ濠になっている。 対岸は城の裏の森で大きな木が幹を傾け、水の上に低く枝を延ばしている。水は浅く真菰が生え寂びた工合、濠と云ふより古い池の趣であった。」 「私は此処で出来るだけ簡素な暮らしをした。人と人との交渉で疲れ切った都会の生活から来ると、大変心が安まった。虫と鳥と水と草と空と、それから最後に人間との交渉ある暮らしだった。」 山陰のおだやかな空と雲、水、そして虫と鳥と魚、志賀と里見にとっては、思いもかけない贈りものであったようだ。もともと松江を訪れることにしたのも、ヘルンが気に入った町という理由だけであるから、水郷松江のたたずまいは新しい発見であった。 こころで旅の楽しみ方は各人各様であるが、事前にそんなことまでリサーチした上で、旧跡などを訪ねる若者もいる様ですが、残念ながら「この旧跡」の表示は私の知る限りではありません。  









Lionel Richie - I Call It Love


♪ エルビス・プレスリー~ブルーハワイ ♪

2018-06-12 | 風景



昨日は小雨の止んだ間に、松江では通称「紫陽花寺」と呼ばれている、歴代松江藩主の墓所である「月照寺」に、紫陽花の花を撮りに出かけて見ました。テーマは ~雨と紫陽花~ のコラボではあったのですが、朝方からの雨に降られたためか、観光客も疎らでカメラアングルの中に人を入れて撮りたかったのですが、生憎でした。 一味違った写真を撮ったつもりでしたが、その内に雨も上がっていてしまい、目論見は見事に外れてしまいました。 帰宅後編集しながら気付いたのですが、前回撮った時とほぼ同じアングルで撮っていました。 それはそうですよね。 同じ人間が貧相な美的感性で、しかも舞台装置に然したる変化がないのですから、写真の出来上がりも同じなんですよね。 近い内にもう一度足を運び、マクロで紫陽花の花そのものを切り取ったりして見たいと思っています。 それにはどうしても「紫陽花の雨」が欲しい。










エルビス・プレスリー~ブルーハワイ