一公の将棋雑記

将棋に関する雑記です。

2月25日のLPSA芝浦サロン(前編)・植山悦行七段礼賛

2011-02-26 02:03:56 | LPSA芝浦サロン
2月から仕事の終業時間が午後5時までになったが、来月はさらに時間が取れ、また金曜日の午後が休みになりそうである。そんな状態では仕事自体が危ぶまれるのに、私は「これでまた、LPSA芝浦サロンに明るいうちから通える」とほくそ笑んだりしている。人間のクズだと思う。
そんなわけで、25日(金)も、早びけしようと思えばできた。しかしさすがにそれは…と控えた。ところがこれが逸機になるとは、夢にも思わなかった。

25日の芝浦サロンは、島井咲緒里女流初段の担当だった。上記のとおり、私は5時に仕事を終え、6時少し前にサロンに入った。
と、室内がいつもよりにぎやかだ。見ると、植山悦行七段と中井広恵女流六段が指導対局をしていたので、驚いた。
言うまでもないが、植山七段はかつて、駒込金曜サロンの手合い係を務めていた。植山七段は気さくな人柄で、有段者にも初心者にも、レギュラー会員にも初顔の人にも、分け隔てなく接してくれた。私たちが指している将棋を横目で見て、その将棋が終わると、いつも寸評をくれた。いい将棋はほめてくれ、ひどい将棋のときは、愛情のこもった、辛辣な言葉をくれた。
そんな植山七段を私たちは慕った。ヨーコでも島井ちゃんでもひろみんでも天神でもない。植山七段の笑顔に接したくて、私たちは金曜サロンを訪れた。
その結果、金曜サロンには多くの会員がつどった。これすべて、植山七段の人徳によるものである。
そんな植山七段が手合い係の仕事を辞したのが、昨年の5月だった。いつかはその日が来ると心のどこかで覚悟しつつ、いざそのときが来ると、私たちは大いに嘆き、植山七段との別れを惜しんだ。
たぶん金曜サロンはこの時点で、実質的に終焉を迎えたのだと思う。もちろんその後も金曜サロンは継続したが、私たちの心にはポッカリ穴が開いていた。大きな虚無感があった。これから私たちは、何を楽しみにサロンに行けばいいのだろう。いったい、何の楽しみがあるのだろう。
その後私たちは、惰性で金曜サロンに通った。やがて訪れる会員も、ひとり、またひとりと、減っていった。
そしてLPSAは芝浦に移転し、植山七段復帰の目は完全に消えることとなる。埼玉在住の植山七段に、芝浦は遠すぎる。それより何より、芝浦での体制が、植山七段を必要としなくなっていた。
しかし数字は正直である。芝浦に移転してから、サロンは苦戦を強いられた。「芝浦サロン」の認知度が低いとはいえ、移転してから5ヶ月。1日あたりのサロン来客数は、駒込にはるかに及ばない。
これすべて、植山七段の辞任が根底にある、と考えるのは穿ちすぎだろうか。植山七段を礼賛しすぎだろうか。

今回植山、中井両棋士が芝浦に見えたのは、友人でありアマ高段の腕前であるドイツ人のF氏が来日したため、ここにお連れしたということらしかった。
植山七段、中井女流六段が指導していた会員は、Y氏とFu氏である。どちらも金曜サロンの準レギュラーだったが、芝浦に移ってから、訪れる回数は減った。しかしそのふたりが来たときに植山七段がいたとは、天の配剤と思わざるを得ない。
植山七段とY氏との指導対局が終わり、続いてSu夫氏との指導対局となった。金曜サロンでは、植山七段とSu夫氏の二枚落ち対局は、お馴染みの風景だった。年配のSu夫氏は、お世辞にも将棋の上達は早くなく、いつも植山七段から
「これは先週教えましたよねえ」
とお決まりの言葉を浴びていたものだった。そのたびにSu夫氏は苦笑し、私たちもつられて笑った。それはなごやかな光景だった。
その光景が数ヶ月の時を経て、再び私たちの前に現れた。Su夫氏は緊張からか、指し手が覚束ない。植山七段は、指導を交えながら、駒を進めている。その手つき、その口調。ああ、金曜サロンが戻ってきた。
私は胸が熱くなり、その光景をしばらく眺めていた。
(つづく)
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする