勝海舟が刺客に対処したときの話。幕府側の勝宅に江戸を取り締まる新徴組の某が、玄関に訪問した。
勝は、あえて帯刀せず某に、
『「おやじの小吉は、若い時分によく方々へ喧嘩を売りに行ったっけが、その時にね、相手の玄関に立って、その対手が出てきた時に、ぷうーと一つ、大きな屁をしたそうだよ。その屁がうまく出たら、その喧嘩はきっとこっちが勝つ。若し、そ奴が出ない時は、こっちの尻の穴が縮んでいるんだから、もう、最初っからこっちの負けと、尾を巻いて逃げたもんだといっていたよ。どうだい、お前さん、屁が出るかえ、え、屁がさ、ぷーとねえ」
「あたしゃあ、出るよ、ほうら ・・・ 」
勝は、屁を放った。そして、からからと大声で笑って、くるりと後ろを向くと、もう悠々と歩きながら、振り返りもせず奥へ引っ込んで行ってしまった。
某は、ずいぶん長い間、立ったまま身動きもせず、瞬きもしなかった。いつまでも、いつまでも、そこに作りつけた人間のように、じっとしていた。
そして、突然、「ご免」と口早やにいうと、くるりと踵をかえして、脱兎のように門の外に駈け出して行った。』「勝海舟」著:子母沢寛より
某は、京の新撰組の如く、江戸の市中見廻り新徴組の師範代を勤めるほどの腕をもった片山嘉門多という。片山は両刀を捨て、田舎に帰り百姓をしたという。
片山は、勝斬るべし、安房斬るべし、あれこそ薩長のために天下を図る獅子身中の虫といってでかけたのだった。
片山も勝の肚を見、業腹を理解し得たというのは凄い。
思うに、勝の姿を見、あるいは射すくめられ、念のため、屁を放てるか試したのではないか。
少なくとも剣の道を一定以上極めていなければ、相手を理解する術をもっていないのだから、普通の者なら斬りつけ、返り討ちにあったのかも知れない。
事実を元にしたか否か定かではないものの、いかにも勝海舟の逸話にありそうな話なので引用した。
意外にも勝は、剣の達人でもあったというし、阿蘭陀語を遣いその読解力で蒸気船を造船したという。単に指導者であつただけではなかった。
雑談ながら、
勝は初対面のときに相手が怒り出すまで皮肉をいう。
人間は怒ればかぶっている皮が、一皮も二皮も剥けてしまう。剥き出た裸の相手を見定めてから、まじめな話にはいる、という具合のやり方-あるいは癖で、勝らしい人物判定法であったらしい。
勝は、あえて帯刀せず某に、
『「おやじの小吉は、若い時分によく方々へ喧嘩を売りに行ったっけが、その時にね、相手の玄関に立って、その対手が出てきた時に、ぷうーと一つ、大きな屁をしたそうだよ。その屁がうまく出たら、その喧嘩はきっとこっちが勝つ。若し、そ奴が出ない時は、こっちの尻の穴が縮んでいるんだから、もう、最初っからこっちの負けと、尾を巻いて逃げたもんだといっていたよ。どうだい、お前さん、屁が出るかえ、え、屁がさ、ぷーとねえ」
「あたしゃあ、出るよ、ほうら ・・・ 」
勝は、屁を放った。そして、からからと大声で笑って、くるりと後ろを向くと、もう悠々と歩きながら、振り返りもせず奥へ引っ込んで行ってしまった。
某は、ずいぶん長い間、立ったまま身動きもせず、瞬きもしなかった。いつまでも、いつまでも、そこに作りつけた人間のように、じっとしていた。
そして、突然、「ご免」と口早やにいうと、くるりと踵をかえして、脱兎のように門の外に駈け出して行った。』「勝海舟」著:子母沢寛より
某は、京の新撰組の如く、江戸の市中見廻り新徴組の師範代を勤めるほどの腕をもった片山嘉門多という。片山は両刀を捨て、田舎に帰り百姓をしたという。
片山は、勝斬るべし、安房斬るべし、あれこそ薩長のために天下を図る獅子身中の虫といってでかけたのだった。
片山も勝の肚を見、業腹を理解し得たというのは凄い。
思うに、勝の姿を見、あるいは射すくめられ、念のため、屁を放てるか試したのではないか。
少なくとも剣の道を一定以上極めていなければ、相手を理解する術をもっていないのだから、普通の者なら斬りつけ、返り討ちにあったのかも知れない。
事実を元にしたか否か定かではないものの、いかにも勝海舟の逸話にありそうな話なので引用した。
意外にも勝は、剣の達人でもあったというし、阿蘭陀語を遣いその読解力で蒸気船を造船したという。単に指導者であつただけではなかった。
雑談ながら、
勝は初対面のときに相手が怒り出すまで皮肉をいう。
人間は怒ればかぶっている皮が、一皮も二皮も剥けてしまう。剥き出た裸の相手を見定めてから、まじめな話にはいる、という具合のやり方-あるいは癖で、勝らしい人物判定法であったらしい。
「『江戸』の語源は、東京湾の奥の「日比谷の入江」にある「門戸」だからだそうだ。」と、 司馬遼太郎が『街道をゆく』に
書いています。 狭い川に入るところを「戸」つまり「門戸」とでもいうようなニュアンスらしいです。
例えば、浅草の待乳山聖天辺りの隅田川から山谷堀に入って行く所を、「今戸」といいます。お大尽が舟で吉原に乗り
つけたように、勝海舟もそんな気分で吉原行したことでしょう。
jまた、この今戸界隈に「戸上」や「戸下」の苗字を見受けます。
「江戸」の『戸』を「門戸」と解釈したのですから、江戸の奥の奥津を奥戸としたのも理解できる気がします。
お蔭で、植民地にならずに今日の日本がある訳で、感謝、感謝です。
竜馬の思想の卸問屋は、海舟と思えます。
海舟は、物事の本質を見抜く眼力をもっていたのでしょうか。
何事も権威づくめの幕府制度をバカらしく思い、欲得ぬきに動いたから、
権威者に向かっても歯に衣を着せぬ物云いをしたのでしょう。
それで廻りの者に嫌われ、人気もないのかも知れません。
もちろん、好き嫌いだけで海舟をみれば、ひとまた様々でしょう。
脳神経外科とは、いまもっとも必要とされる分野ですね。
医学研究留学をご苦労様です。
史実を読み敷いて綴る司馬遼太郎のファンで、ブログにもよく引用させて
もらっています。 アメリカからも速攻で投稿できるのですね
クチナシさんところから参りました。
勝海舟凄いですね。
子供の頃大河ドラマで見て司馬遼太郎、結構読みましたが、
すっかり忘れていました。
確か勝海舟は咸臨丸を建造してアメリカへ渡りましたよね。
私は異国で慣れない研究生活をして孤独二奮闘していますが、とても励まされた記事でした。
ありがとうございます。
坂本竜馬があと10年生きていてくれたら、勝海舟がこの世に生きとったら、もうちっと増しな世の中になっていたかも...たら~はあまり言いたくないが、ついでに言わしてもらえば、勝海舟こと勝麟太郎が親父小吉みたいなべらんめぇ親父が居ったらなぁ...なんて、今頃の教育現場や政治の世界を見ていると、ついついそんなことを考えてしまうんだよね。
ブログを始めて、初めてのコメントです。また寄らしてもらいます...ついでと言っちゃ何ですがトラックバックとやらも練習させてもらいます。
幕末の人物については、桂や大久保のこともいろいろと書きたいのですが、なかなか難しくて…。
また、遊びに寄らせていただきます。
幕末に、勝海舟といい、坂本竜馬や西郷隆盛の偉人たちが彗星の如く日本に現れたのは、やはり奇跡です。
自身が、その人物に対峙したとき、果たしてその人物を見極められるだろうかと未熟を思います。
海舟の底を見据えた肚には感服するばかりで、薩長も幕府もない日本の国の存亡を見よと、近隣が西洋に侵されるのを危機的に捉えた視野は、幕末の時代の人とは思えませぬ。
少なくとも、竜馬の卸問屋は海舟であったろうとは想像できます。しかし、自身のものとした竜馬も偉かった。
西郷は革命は血を見ないと成功しないといっていたのを、海舟と話合いによって江戸城を無血開城させた影響力の大きさも豪い。
(梔子)さん へ
TBとコメントを同時にすべきでしたね。いずれかにあって交流がはじまると、気安く考えているのですが、そうでないという方も、当然あるでしょうね。
司馬遼太郎の「竜馬がゆく」を読むと、あの時代のキャストに剣道の達人が多かったこともあり、「呼吸」や「間」でやりあう話が良く出てきますね。勝も達人、面白い話ですね。
勝海舟は結構好きです。ほとんど忘れてますけど。