goo blog サービス終了のお知らせ 

もののはじめblog

コメント歓迎 ! 
必ずコメントに参ります by iina

大谷本廟

2012年12月26日 | 歴史街道

大谷本廟おおたにほんびょう」は、西本願寺の宗祖親鸞の墓所。皎月池こうげついけに架かる石橋の円通橋(眼鏡橋)を渡って参る。
東本願寺にも親鸞の廟堂びょうどうがあって、そちらは八坂の円山公園の南にある「大谷祖廟(東大谷)」。






六道珍皇寺ろくどうちんのうじ
ここより東にある鳥辺野の大谷本廟を含む丘陵地帯は、風葬が行われていた。六道の辻は、松原通りが轆轤町ろくろちょうにかかるところの辻を指す。
六道とは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の迷界をいい、一切の衆生しゅうじょうが善悪の業因ごういんによって、必ず行くべきところといわれる。石標の立つこの場所は、六道の分岐点。いわばこの世とあの世を結ぶ交差点“あの世の入口”にあたる。
それ故、古来より六道の辻には、冥界がらみの伝説や寺が多く残る。中でも、地獄で閻魔大王に仕えていた平安の歌人・小野たかむらの伝説は、特に有名。小野篁おのの たかむらは、昼は朝廷に出仕し、夜は閻魔の庁に出仕していた。六道珍皇寺の庭には、篁があの世にいくために使った井戸が残る。篁が閻魔の庁に出仕していた話は、『今昔物語』にも出ている。三蹟の一人小野道風とうふうは孫。

蛇足ながら、その昔は松原通りが五条通りだった。つまり『義経記』が記すこの通りで義経と弁慶が会った。地図をよくみると碁盤の目のような四条通りと六条通りの中間に松原通りが走る。五条通りのことである。
安土桃山時代から江戸時代初期の頃、松並木が続く道だったことから「五条松原通り」と呼ばれだし、いつしか「五条」を略して「松原通り」の呼び名になった。そこで、消えてしまった「五条通り」の名を復活させようと、六条坊門小路を五条通りと改めたというのが真相。ちょっとした雑学でした。

空也上人立像         平清盛坐像→

この六道珍皇寺の近くに空也上人が開山した六波羅蜜寺が建つ。
経巻を手にした平清盛坐像(重文)の風姿は傲慢さの欠片もうかがえない。有名な像を間近に見れるが撮影禁止で寺も特徴が薄いので何も撮らずに帰った。

平六波羅第跡があるというので探したが、見つからず。何度か探して見つけたが、見つけにくい筈で寺近くの開晴中学校門内に石碑が残るのみ。

<注>
 写真は、像を除き15年ほど前に撮影。



コメント (6)    この記事についてブログを書く
« 三十三間堂 | トップ | ツタンカーメン展 »

6 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

コメント日が  古い順  |   新しい順
大谷本廟 (らいちゃん)
2012-12-26 07:29:03
我が家の宗派は浄土真宗本願寺派ですが、まだ大谷本廟には参ったことがありません。
両親も既に他界しているので参らなければいけませんね。
返信する
五条通り (656)
2012-12-26 12:58:29
童謡の牛若丸は、 五条通りが松原通りでは歌いにくくてしかたありませんね。やはり五条のほうが通りがいい。

1.京の五条の橋の上 大のおとこの弁慶は 長い薙刀ふりあげて 牛若めがけて切りかかる
2.牛若丸は飛び退いて 持った扇を投げつけて 来い来い来いと欄干の 上へあがって手を叩く
3.前やうしろや左右 ここと思えば またあちら 燕のような早業に 鬼の弁慶あやまった
返信する
この世とあの世の間には (「のべR山会」のK)
2012-12-26 19:23:56
大谷本廟
私は、初めて伺いましたが、またまた新しい知識を得ることが出来ました。
「六道の辻」についてお伺いしていたら
「一条戻橋」の事を思い出しました
ところで今日のジャンルは「笑撃画像」ですが、私には意味が理解できません。
これで良いのですか?

霜や霧氷も
夜に人知れず生れ、朝日の光で消えていく
~あまりにも悲しすぎることですがそれが運命ですね

三十三間堂の1,001体の観音像のこと
詳しく教えていただきありがとうございました
実際拝見するとすごい衝撃でしょうね
国東の真木王堂の本尊阿弥陀如来坐像 をはじめ他の仏像を拝見したときも
思わずひれ伏して手を合わせずにはいられない、不思議な力を感じました。
返信する
コメントに 感謝します (iina)
2012-12-27 09:07:13
(らいちゃん) へ
鉱山の鉱脈を見つけ出す人を「山師」といいますが、文字通り「山を張る」仕事をしています。
最近の山師は、詐欺師のような響きがありますが、ひとつの技師ですね。いまも山勘を働かせて試験の山を張って
のような言葉に残っていますね。

きのうのブログに、六波羅密寺を追記し像をアップしました。





(656) さん へ
童謡の「牛若丸」の歌詞のとおりに歌ってみました。
この歌は、ひさしぶりに歌いました。



(「のべR山会」のK) さん へ
草千里は、先日の阿蘇中岳から下山中に遭難した所に近いですが、怖くなかったですか。こうして拝見すると、
恐怖を押しても歩きたくなる場所ですね。

きのうの大谷本廟のジャンルは、「歴史街道」に分類するのが正しいです。ご指摘をありがとうございました。
訂正しました。m(__)m

真木大堂の 白い水牛にまたがり、六面・六臂・六足を持ち大憤怒といわれる激しい怒りの表情をたたえた大威
徳明王像には、圧倒させられました。おそらくは、びっくりさせて仏のパワーを発揮させることもあるでしょうね。
返信する
六道珍皇寺の庭 (更家)
2015-04-06 11:34:38
そうですか、小野道風は、小野篁の孫でしたか。

小野篁は、京で、夜はあの世とこの世を行き来していた、という話は、私も聞いたことがあります。

でも、京都の六道珍皇寺の庭に、あの世と行き来していた井戸が残ってるんですね、驚き!
返信する
(更家) さん へ (iina)
2015-04-06 12:27:32
六道珍皇寺の赤い門の先に見える家屋に井戸があったように思います。

更家さんはどうりで、小野”道風”ゆかりの神社に立ち寄ったので、”豆腐”を食べたのでしょうね。”当風”なはやりでしょうか・・・。

小野照崎神社の拝殿横の「富士塚」が、国重要有形民俗文化財とは富士講の中でも、とくに有名だったのでしょう。

   江戸は広くて八百八町
   江戸は多くて八百八講
と、歌われた八百八講は富士講の数だそうで、八万人もの信者を数えたといわれます。

次にご案内する富士塚は、浅草北の石浜神社境内にありますが、先週4日の花見のときに友を観光案内したときに寄りました。
http://blog.goo.ne.jp/iinna/e/c73a7074bbd56aaf6ad1ae493f7e4428

(更家)さんの此の記事に、今度で6コメントを残してしまいました。それほど内容が豊富です。^^
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie/e/b10be55f522e32e3776645589b685171

返信する

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。

歴史街道」カテゴリの最新記事