梵鐘本体に白く囲まれた部分を拡大すると「国家安康・君臣豊楽」が読み取れた。
徳川家康が、家と康を分断し豊臣を君主とし、家康及び徳川家を冒瀆するものと看做して、大坂の役に追い込み豊臣家を滅亡させた。取り払われることもなく今に残るのは、明らかに言い掛かりをつける口実だったことが分かる。(重文)
方広寺は、豊臣秀吉が天正14年(1586)、聚楽第の造営と同時に東大寺の大仏に代わる大仏を京都に造ることを企図したのがはじまり。
ところが、伏見大地震のため倒壊した。そのとき、秀吉は「うぬは、京の町を守るを忘れ、まっ先に倒れるとは、慌て者が!」 と弓矢を放ったという逸話が残っている。
豊国神社は、旧大仏殿遺跡地にある。慶長3年(1598)8月18日に死去した豊臣秀吉を祀る神社で、通称「ほうこくさん」。
豊臣家滅亡後、家康によって豊国社は破却されたが、明治になって再建された。
←豊国神社の唐門(国宝)は伏見城の遺構
豊国神社門前には、耳塚がある。朝鮮出兵した戦功の証として討ち取った朝鮮・明国人の耳や鼻をはなそぎし持ち帰ったものを葬った塚。
妙法院は、天台宗の寺院。山号を南叡山と称し、開基は最澄と伝える。
皇族・貴族の子弟が歴代住持となる別格の寺院を指して「門跡」と称するが、妙法院は青蓮院、三千院とともに「天台三門跡」と並び称されてきた名門寺院である。公開してないので、外観のみ撮った。
付近は後白河法皇の居所であった法住寺殿の旧地であり、近隣には智積院、京都国立博物館、三十三間堂。
<注> 写真は、15年ほど前に撮影。
徳川家康が、家と康を分断し豊臣を君主とし、家康及び徳川家を冒瀆するものと看做して、大坂の役に追い込み豊臣家を滅亡させた。取り払われることもなく今に残るのは、明らかに言い掛かりをつける口実だったことが分かる。(重文)
方広寺は、豊臣秀吉が天正14年(1586)、聚楽第の造営と同時に東大寺の大仏に代わる大仏を京都に造ることを企図したのがはじまり。
ところが、伏見大地震のため倒壊した。そのとき、秀吉は「うぬは、京の町を守るを忘れ、まっ先に倒れるとは、慌て者が!」 と弓矢を放ったという逸話が残っている。
豊国神社は、旧大仏殿遺跡地にある。慶長3年(1598)8月18日に死去した豊臣秀吉を祀る神社で、通称「ほうこくさん」。
豊臣家滅亡後、家康によって豊国社は破却されたが、明治になって再建された。
←豊国神社の唐門(国宝)は伏見城の遺構
豊国神社門前には、耳塚がある。朝鮮出兵した戦功の証として討ち取った朝鮮・明国人の耳や鼻をはなそぎし持ち帰ったものを葬った塚。
妙法院は、天台宗の寺院。山号を南叡山と称し、開基は最澄と伝える。
皇族・貴族の子弟が歴代住持となる別格の寺院を指して「門跡」と称するが、妙法院は青蓮院、三千院とともに「天台三門跡」と並び称されてきた名門寺院である。公開してないので、外観のみ撮った。
付近は後白河法皇の居所であった法住寺殿の旧地であり、近隣には智積院、京都国立博物館、三十三間堂。
<注> 写真は、15年ほど前に撮影。
アメリカ人は傘を差さないのは、イギリスの習慣のまま暮らしているからなのでしょうか。
武士も、雨具をもたずに降られても、武士のたしなみとして走らぬそうです。
イギリス紳士のたしなみ”ステッキ”姿は、”素敵”ですものね。(^^ゞ
え゛~、ハンカチも持たぬのですか。半分ケチかと思いましたが、むしろ不潔と考えるのですね・・・。
ところが違うと、考え方も違うのですね。異文化コミュニケーションでした。 φ(..)メモメモ
きょうは、国際派の更家さんから刺激を受けました。^^
しめ縄を手作りして、新年をむかえる準備を自らととのえるなんて心がこまっていて年神さまに喜んでもらえる
と思います。
日本では神事につかうものを燃やしてしまいますが、こうして伝承されてきています。
我が家では、市中で買い求めましたが、ワラ以外は擬似品です。(^^ゞ
方向寺の鐘がなくても、家康が息の根を止めようと決意していれば、他の理由はいくらでも見つかりますから、
あがいて無駄だったでしょう。
ただ淀君がもう少し権力者たる家康に譲歩していたとすると豊臣家は生き永らえたでしょうか。それとも前の
権力者は邪魔者という既成路線として滅ぼされたでしょうか?
織田家は、現代にまで血をつないでいます。
時の運は、微妙に揺れ動きます。
(モカ)さん へ
さいきんはスキー人口は減っているようですが、スノーボードが若者にうけている風です。
iinaは、富山時代にスキーして以降、滑っていませんから、18年ほど遠ざかっています。
スキーも自転車とおなじで、一度滑れれば時を経ても滑れると思いますが、果たしてどんなものでしょう。
神社仏閣も、歴史的背景がはっきりしているところの方が、より愉しめます。
(「のべR山会」のK)さん へ
いいですねぇ~。 実景を見てみたいです。
真っ青な晴天下で360度パノラマの眺望に、霧氷の絶景。
本州のスキー場では木々が黒っぽく残るものですが、北海道のニセコでは、山全体を雪が真っ白に覆いつくす
絶景で、しばし見惚れたほどでしたが、それに勝る奇観です。
家康は、戦上手で戦国時代に義理堅く真面目で篤実な人と評され信頼されていたようです。自身も若いころは
天下をうかがうなんて夢想だにしなかったはずですが、時が将に自分の懐に天下が転がり堕ちそうとしており、
その機会を見逃さなかったように思えます。
方広寺事件は、狙った獲物が墓穴を掘ったというより、豊臣滅亡の命を家康側近が忠実に探し出した結果だと
思えます。鐘でなければ、他の名目をみつけたに決まっています。
秀吉は、農民から成り上がって、奇想天外な戦法で勝ち抜き、人たらしで天下を取り一番愉快な人物だと思います。
そんな秀吉は、いまも人気者ですね。
この重文の梵鐘にもその様な歴史が・・・・
「国家安康」「君臣豊楽」
確かに良く見れば意味深長ですが
作者の本当の意図はどうだったんでしょうか
この詩をみて、家康も良くそこまで思いつくものですね
私なら自分の名前が織り込まれていることに素直に喜びますが(やはり凡人)
言いがかりは、やはり豊臣を滅亡させるための大義名分であったのでしょうね~?
まさか、利休の怨念が仕向けた?
・秀吉の晩年~
なるほど「醍醐の花見」にも象徴されるように華々しく、言い方は悪いですが「やりたい放題」~でしたか
独裁者の行く末は、多くの歴史が物語っているとおりですね
北の酒場通りでは・・・(てぽ豚ではありませんよ)
あの国の、あの2つ並んだ銅像もやがて民衆の手で倒され壊されてしまう日が
そろそろやって来そうな予感が・・・
何事にも「~たら、れば」を言えばきりないですが
もし、その時利休が謝っていれば・・・現在の私たちも違う人生になっていたかも
やはり、運命と言うものは恐ろしい。
・ムサシ成長の記録
2011/06/09の記録は~もう一度携帯で撮った写真確認したら
確かに上の塔部分まで完成してました。
定点での成長の記録~素晴らしい映像記録でした。凄いの一言
ありがとうございました。
耳塚という地名などありますが、そういう歴史があったのですね、知りませんでした。
歴史に「もし」はありませんが、もし、この鐘が無かったならば、家康はどのような方法で豊臣を追い詰めたのでしょうね。
タヌキのいろいろな手立てを見てみたかったですね。