
聖徳太子が自らの廟と決めていたこの地に、推古天皇が推古28年(620年)に墓所を造営。
太子が病死した翌年に、太子の母 の穴穂部間人皇后が死去したのでこの墓に葬り、更に推古30年(622年)には太子の妃の膳部大郎女とが同時期に亡くなり、この同じ墓に葬られ、三骨一廟とよばれている。
磯長山 叡福寺は、推古天皇が建立、その後神亀元年(724)聖武天皇の勅願により、 伽藍を造営したと伝わる。
叡福寺近辺には敏達天皇、用明天皇、推古天皇、孝徳天皇の陵がある

推古天皇は、西暦593年にはじめての女帝として即位。死後、先に亡くした御子の竹田皇子と一緒に葬られた。
<注> 写真は、15年ほど前に撮影。



数年前にこの地の旅館に泊まった時、この地名の由来を教わりました。
それによれば、聖徳太子の生母・間人(はしうど)皇后が蘇我氏と物部氏との争乱を避けて丹後の当地に身を寄せ、のちに当地を去るに当たって自らの名をこの地に贈ったものの、住民は「はしうど」と呼び捨てにすることを畏れ多く思い、皇后が退座(たいざ)したのに因み、間人を「たいざ」と読み替えたと伝わっているそうです。
それにしても、人間の逆の字、「間人」と書いて、「はしうど」や「たいざ」にはとても読めませんね。
英語も必要な時代になってきましたね。でも日本語もろくに分からないのに・・・
スピードをつけたまま「地車(だんじり)」を直角に曳き回すのは、角の家の軒先を削り取ったりしますから、
さすがに荒っぽいだんじりです。
やはり、ラストを務める「だんじり」を「どんじり」というのでしょうね。
>「間人」と書いて、「はしうど」や「たいざ」にはとても読めませんね。
いきさつを知ると面白いです。
当麻寺も「たいま」とは読めません。どうみても「とうま」ですから”とぅまどい”ます。
(mone)さん へ
「神谷バー」には、浅草に勤めていたのでよく寄りましたが、ワインケーキは知らなかったです。
こんど手土産にしてみようかと思いました。
>「電気…」が流行していて それにブランデーの「ブラン」を合わせたのが名前の由来であると言われています。
飲んでしびれるから、単に電気ブランとしか知らなかったです。( ..)φメモメモ
電気ブランは、とても個性の強いお酒で、冷えた電気ブランをストレートで口に入れ、口直しに氷水を飲みます。
ハイカラな老舗の大衆酒場ですから、日中も営業していて、いつも混んでいます。いまでも浅草で飲むと、二次会
に神谷バーを使います。
中国も韓国も儒教の国ですが、疑わしくなってきました。
黒田官兵衛は、軍師として面白い人ですね。
関ヶ原の戦いが長引き、家康が三成を破って兵が疲労しているところを一気に攻めて家康を倒し、天下を取った
かも知れませんね。
もっとも、主君を裏切ったことは一度もないそうです。
晩年は、酒を呑み黒田節でも舞いながら、すごしたことでしょう。
聖徳太子は、大河ドラマではありませんが、NHKで数回の連続ものでやったと思います。
また、コメントにお越しください。