安倍政権の傲慢を見る。「選挙の争点は政権が決めるもの」発言

2014-11-24 12:00:23 | 日記

   安倍政権の傲慢を見る。「選挙の争点は政権が決めるもの」発言

 

  報道によると、菅官房長官は、集団的自衛権行使の容認は「選挙の争点ではない」と発言したとある。また、秘密保護法についても「いちいち信を問うべきでものではない」。「何で信を問うのかは時の政権が決める」と。総選挙を前にしてのこの発言、ましてや内閣の軸である官房長官と発言となれば無視できない。

  つまり「選挙の争点は政権が決める。それは安倍晋三首相が決めること」と言うことであろう。毎日新聞の社説(11月24日)はこれを受けて次のように論じている。「来春には集団的自衛権の行使容認に関する具体的な法整備に入る。しかも、この行使容認については、憲法上許されるとの従来の解釈を逆転させる解釈改憲を閣議で決めた。このことは、憲法は国民が国家権力を制限するものという立憲主義の精神にもとるものである」と述べ、「最高の責任者は私だ。選挙で国民の審判を受けると断じたのであるから、そのことの真を問うことは当然である」と主張している。そして菅幹事長が「何を問うかは政権が決めること」であり、集団的自衛権問題は国民に信を問うほどの重大な問題ではないとしたことは「身勝手な争点の設定」であると指摘している。

  前記の「私が責任者だ、私が決める」の発言には当時私も驚いた。聞き違いかと疑った次第である。国民を、そして国民から選ばれた立法府を何と受け止めているのだろうかと怒りさえ覚えた。戦時中の帝国議会であればいざ知らず、この21世紀に政治の代表である首相が、この社会体制をどう見ているのかとあらためて疑った。

  「争点『真を問う』は国民が決めるもの」これが政治の原則である。政権や首相が、ましてや政治家が決めるものではない。これは近代政治の「いろは」であろう。

  今国会の議会中に「団扇論議」があった。その矢面に立った当時の法務大臣の答弁である。お粗末を絵に描いたものであった。当然にして審議の中断は繰り返された。世界に向けて「日本の国会の品格」が問われたものであったろう。安倍首相の「輝く女性の時代」という施策の中で実現した5人の女性閣僚。しかし、その「輝ける」とはその程度のものであったのか。そして首相の任命責任はうやむやのうちに、緊急金融緩和が飛び出し、首相の外遊、帰国後の「何やらわからない解散」である。これとて「争点にすべき」と国民が判断すれば、当然にして「今次総選挙の争点」になるだろう。またすべきである。その選択権は国民の側にある。それに対し「何の問題はない、選挙で真が問われるものではない」という権限は政権(政治)にはない。これが民主主義の原則であろう。

  仮に、リンカーンを明言を受けて「安倍の、安倍による、安倍のための政治」を実現すもの、そのための解散というのであればリンカーンも浮かばれないというものである。

  各野党において、今次総選挙の争点の幾つかの中に、今般の「争点は政権にあり」という安倍政権の政治姿勢を挿入されることを期待する。

  「私は選ばれた。安倍内閣のすべてが国民の信任を得た」との『印籠』を与えてはならないためにも。