生存に関わる権利と、電気代の高い低いの問題を並べて論じるべきではない

2015-12-25 20:13:45 | 日記

 生存に関わる権利と、電気代の高い低いの問題を並べて論じるべきではない

   福井県「高浜原発3・4号機」の再稼動を認めた司法の裁断が下された。同じ地裁で前任者の裁判官の決定を後任者が覆した事例である。そのようなことは過去にもあったが、今般の判決は司法権に対する「政治権力」の介入という危惧を拭い去ることはできないものであった。

 この間、安倍政権はことあるごとに「原発再稼動」の政治的発言を強めてきた。しかも福井地裁の司法判断がくだされることを前にして、知事の再稼動承認をはじめ地元高浜町の再稼働決議は、司法の決定を予期したものとして前日まで「再稼働の準備」をおし進められたところをみても明らかである。まさに「政治の介入」を色濃く示された一連の動きであったと受け止めたい。

 今回担当をした裁判官はそのことを意識してか、もっぱら「原子力規制委員会」の新規制基準を前面に掲げた判断に終始した。そのことを当日の福井新聞の記事からも察し取ることができる。以下その内容を取り上げたい。
 裁判官は「司法審査の在り方」を冒頭に取り上げた。その中で原子炉施設の安全性を判断する際には、原子力規制委員会の新規制基準や規制委による新規制基準への適合性から判断すべきであることを明確にしている。それが基準地震動・耐震安全性・使用済み核燃料・津波対策などのすべて課題に対し、規制委の判断に不合理な点はなく高浜原発の安全性に欠点はない。そして住民らの人格権を侵害する具体的危険があるとは認められないと断じている。さらに原発事業者に対しては、常に最新の知見に基づく安全性の確保を求めた上で、関電や規制委は福島原発事故に対する深い反省と絶対的な安全は存在しないという姿勢を貫き、高いレベルの安全を目指す努力を常に続けるべきあるとの言葉で結んでいる。そこには僅か8ケ月前に出された判決を180度変えてしまった裁判官のためらいの姿勢が感じとれると言え「福島の悲惨な事故」への司法の責任の立場を葬りさったものであり、その罪は許すことはできない。

 そこで、あらためて記憶を8ケ月前に戻してみたい。当時の福井地裁の裁判官樋口英明氏は、昨年5月福島第一原発事故後、初めて原発の運転を認めない判決を下し注目を浴びた。その際樋口裁判官は「人の生存そのものに関わる権利と、電気代の高い低いの問題を並べて論じるべきではない」「豊かな国土とそこに国民が生活していることが国富であり、これを取り戻せなくなることが国富の喪失だ」と、人格権を尊重し住民の思いに寄り添った判決文を読み上げた。私たちはこの判決を重く受け止め「あってはならない原発災害、そして核廃棄物の最終処分も決められない原発を動かすことは人類にたいする究極の犯罪行為」であることを強く認識し合ったところであった。

 そして今そのことが覆された。さらに許されないことに、関電はこの期を逃してはならないとばかり、3号機で過去に一度燃やした8体のモックス燃料と新燃料16体の計24体を燃やそうとしている。使用済みMOX燃料の「処理方法が定まっていないにもかかわらず」にである。

 最後に批判を受けることを覚悟で述べたい。福島における原発の歴史を振り返る。そして言えることは住民もまたその誘致を望んだことの事実である。町の経済効果と原発三法に基づく交付金への魅力を持ったこともそうである。そして地震、津波とはいえ原発の破壊と悲惨な被害を受けた。薩摩川内原発の再稼動以降、高浜においても「地元住民の要求」は生きている。とするなら住民の責任はゼロではない。その責めも負わなければならないと思うがどうだろうか。これは福島を経験した一人としての発言である。


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