改めて、天秤ばかりに掛けられない重さの違い
「天秤ばかりに掛けられない重さの違いを知る・・・だが」(2016・3・8)
このタイトルの私のブログに数人からのメールが届いた。そのどなたも交信を続けている知人である。いわゆる「メール友」と言うのだろうが、私にとっては、「友」というより「得難い知人」と受け止めている。
そこには「天秤ばかりの話、ずっしりと重い言葉でした。量れない、比較はできないけれど、量りたくなる。そのどちらも、本当と思うだけに」と。
また、「津波被害がひどかった地域の記事をよく読みますが、生活再建にいたらない被災者の方達の多さに悲しくなりますと述べ、津波、地震、原発の要因にかかわらず補償を含めた救済と再建の道をめぐる違いもまた痛感する」と。
さらに、「情報量と内容の違い、判断力の違い、置かれた立場の違い、世代の違い等などによって、同じ現象を見ても捉え方の違いが生じる。自分に近い考えを持っていると思われる人も、話してみると異なる考えを持っていることが多々あります」と。
東日本大震災3.11は6年目に入った。しかし、未だに避難生活、仮設住まい、そして生活の道筋も定められない多くの方々がいる。「元の生活」に戻すことは、所詮無理と承知していても「戻せ」と言いたくなることも理解ができる。同時にそこにとどまっては居てはならない「新しい生き方」をという主張も一方にはある。
21年前の 阪神・淡路大震災は、1923年の関東大震災以来の甚大な被害をもたらした。現地を経験してはいないが、その被害の大きさは5年前を経験した者として理解ができる。そして20年後の現在も「多くの傷を癒されないでいる方々」のいるとの報告を聞く。
とするなら、トリプル災害、とりわけ「原発の廃炉」への道すじなど、未だ経験をした事の無い未知の不安を残す福島の弊害はいつまで続くのだろうかと考える。
そして宮城、岩手両県などの太平洋の眺望を一変させる巨大な防波堤、そして海岸線や漁場の変貌。先が見えない高台移転などを抱える津波被害の地域の住民の将来はどうなるのか。
これらの全てを、今を生きる者の大多数が先を見ることなくこの世を去っていくだろう。
そして政治の貧困がある。国会審議の場で露呈する所轄大臣のお粗末な答弁、滔々と述べるがいつも同じことを繰り返す。それでいて外国の有名学者を招聘し「政局のあり方」に権威をつけようとする国の最高責任者。
6年目の桜の開花を前にして、なおも考え込む今日である。
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