猛暑の中、介護が圧し掛かる重さを痛感する

2015-07-25 11:33:03 | 日記

 猛暑の中、介護が圧し掛かる重さを痛感する

 

  東北は未だ梅雨明けとはならないが異常な暑さが続いている。その中で半年遅れの市議選も兼ねた、安保法制に反対するオルグを続けている。「ねっとりとした暑さ」には堪える。また、堪えるのは暑さだけではない。それは、お会いする皆さんの多くが、何らかの介護に苦しみ、悩んでいる現実に直面することであった。

  玄関先のチャイムを押す。しかし返事が無い、留守と思い帰ろうとすると扉があく。そこには、おぼつかない足取りで立つ先輩の姿がある。そしてあとからお顔も見せた奥さんもまた同様である。まさに「老々介護」という事実を見ることになる。それでも懐かしいと言って部屋に案内される。その場合、私は遠慮をしないことにしている。またお茶の接待を受けるがこれも断らない。それは不自由な手つきであっても茶を入れるという行為は、ご本人にとっても良いことだと思っているからである。後片付けもあるだろうが手足を動かすことも必要であろう。また、現役時代の思い出話しの聞き役に徹するのも大事だと思っている。老々二人暮らしの中では、声を出し合うことも少なかろう。ましてや一人暮らしとなれば尚の事である。

  さて、そこで体験をした幾つかの介護の実態を報告する。奥さんに先立たれ一人暮らしの先輩である。年令は93歳。一昔前では考えられない男性の年齢である。一時は「魔の10年」という言葉があった。それは夫を看送り、その遺族年金で過ごす妻の10年間の生活の厳しさを指しての言葉であった。では妻を看送り、残された男性の生活はなんと譬えれば良いのだろうか。「孤独の○○年」とでも言うのだろうか。「これからも顔を見せてくれ」といって玄関まで見送る姿に重いものを感じるのであった。

  それに比べ女性の力強さにも頭が下がる。夫に先立たれた女性のど根性である。それでも半年は気が抜け何もしないで過ごしたように思うと述べている。でも立ち直りは早かった。そこに「女」の底力を見る。

  また、1年前に訪れたときは、チャイムと同時に大きな声で返事をして出てきた先輩であるが、1年後の今回チャイムへの応答はない。施錠されていなかった扉を開け再び声を掛けると重たい声の返事。そして壁を伝わって出てきた姿の変わり様には驚いた。よく聞く言葉に「80を超えると1年とは言えない」と言うものがある。このことか。つまり80歳を超えた体は急激に衰えるということである。

  2025年戦後のベビーブームの団塊の世代が一斉に75歳、後期高齢者に突入する。「超高齢化の時代」である。このことをもって社会保障の戦後最大のピンチと受け止め、年金・介護・医療の制度改革がますます政治化していく。その陰で「持てる者と持たざる者との高齢貧困」が拡大する。「高齢者が生きていく危機」を痛感した行脚のような想いの日々であった。

  遅きではあるが「景気拡大、金目の政治」(アベノミクス)の見直しを、国民的課題としてとらえることが急務であることを再認識をした2015年猛暑の7月であった。

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿