今日は何の日パート2・・・10月21日

2014-10-21 13:54:24 | 日記

   今日は何の日パート2・・・10月21日

  この時期になると、どうしても触れたくなるものに「1943年(昭和18年)10月21日・神宮外苑における雨の行進」がある。正しくは「文部省学校報国団本部主催 ・学徒出陣壮行会」である。

  太平洋戦争へと突入した1942年以降、戦局悪化の中で兵力不足が顕著になっていった。当時は兵役法で一部学生の徴兵が猶予されていたが、東条内閣はこの措置を撤廃し1943年(昭和18年)12月に入隊させることを決定した。いわゆる「国民根こそぎの動員」であった。その総動員体制を国民全体のものにするための「一大政治パフォーマンス」が学徒壮行会であり、東京神宮外苑のみならず、日本が統治していた台湾をはじめ満州。そして大阪・仙台など各地において実施された。

  昨年同日のブログにも書いているが、今年も書かなければならないと思う気持ちが「パート2」という表現になったと理解頂きたい。

  折も折この日は、安倍内閣の土台を揺さぶる女性2閣僚の同時辞任が報道され、もっぱら国民の関心事になっている。報道機関も69年前どころではないということであろう。

  あらためて、パソコンを開き「雨の神宮外苑」をクリックし、あるいは新聞の切り抜きを取り出してみた。神宮外苑に集結した学徒は25.000名、そしてスタンドを埋め尽くしたのは50.000名。その多くが女子学生であった。やがて式も終り、出口に向かう学徒たちの前に駆けよったのが女子学生。涙し、手をふりあげ、声を上げたと記録は報じている。当時の風潮からすれば考えられない光景であったろう。

   雨の神宮外苑「学徒出陣」56年目の証言~語りつごう戦争を知らない人たちへ~

  上記のタイトルを開くと写真、そして帰還した学徒や女子学生の言葉が載っている。そこからは、否応なしに戦場に駆り立てられた当時の模様や、半世紀以上たった今、そこには軍隊に入りたくなかった。戦争などで死にたくはなかったという言葉が述べられている。また、見送った女子学生たちにも「この人たちは死ぬかもしれないという思い。そして生きて帰ってくださいと心に念じながら見送った」とも述べている。

  だが、あの戦局悪化の中で、それらを口にすることができなかったことはもちろん、この戦争は負けないと信じ、また「赤子」として「天皇陛下のために死をもいとわないと決意」し、これを「否」とすることは非国民として断罪もされたこともまた事実であった。

  随筆家の岡部伊都子さんは戦後述べている。「私は戦争に加担した女」ですと。婚約者の「戦争は反対だ、死にたくはない」いう言葉に対し、「私なら喜んで死ねるけど」といって送り出したことを悔やむ。その婚約者は沖縄で砲弾を受け、最後にはピストルで自爆したという。それから岡部さんの「沖縄詣で」が始まる。「私は被害者ではない。加害者でもあり、加担もした」という自分への問いかけが、岡部さんの戦後60年、一貫して差別に反対し、反戦を貫く原点になっている。

  「私は被害者だ。責任はない」という。しかし、深く考えてみたい。それでは「加害者であり、加担している」という自分への問いかけは不要であろうか。この「私は加担した」という問いは、いつの時代にでも、何に対してでも通じるように思うが、どうだろう。


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