♪13.800円・居直る生き方があって良いのではないか

2014-06-17 13:20:59 | 日記

  ♪13.800円・居直る生き方があって良いのではないか

6月16日早朝に2回の地震があった。一つは関東沖を震源とするもの私のところは震度3。そして、しばらくしてまたもや揺れが、これは一寸大きい。福島県沖を震源とする震度4であった。何時も思う。揺れが治まった後に「原発」はどうかとなる。このことは、あの3.11以降私の頭から離れない。

そんなこともあって目が覚めてしまった。私は例のごとくラジオのスイッチを入れる。そこに流れてきたのが、「13.800円」という昭和32年代に流行したフランク永井の歌である。

月収13.800円、どうにかなるさ。その時代の国民の「居直りにも似た」ものを歌い上げたものであった。私はそのように受け止めた。そしてよく口ずさんだものである。

70代以上の方の記憶にあるだろうが、その歌詞の2番を書いてみた。

    からのトラック 思いきりとばしゃ
    ビルの谷間に 灯がともる
    今日もとにかく 無事だった
    嫁を貰おか 13,800円
    ぜいたく云わなきゃ
    ぜいたく云わなきゃ
    食えるじゃないか

昭和32年。この年は石橋湛山の辞職を受けて岸内閣が誕生した。東海村原発に火がともる。日本の第一号原発の誕生である。核をめぐる冷戦時代の最中「核の平和利用」と革新政党も含めてこの稼働を歓迎した。しかし、原発の恐ろしさを語ることを耳にすることはなかったし、考えてもみなかった。

歌詞のように、13.800円で食えたのであろうか。嫁をもらえたであろうか。当時、映画館の入場料と散髪代は150円という記録がある。また、労働省の統計によれば製造業の平均月収が13.302円(下位で9.141円・上位で16.250円)となっている。13.800円という数字は当時の実情と一致する。嫁さんも家にいることはなかった。パートなどの「ハイカラ」な呼び名はなかった。臨時工、下請け工、アルバイトで働いた。自転車の後ろに嫁さんを乗せ、その嫁さんの背中には子どもがいた。こんな風景はざらであった。

かく言う私も、有力な総合電機に勤めて5年目であった。「15歳入社の金の卵」である。当時、臨時工という制度があった。「本工登用(現在では本採用と表現するだろう)の道あり」としての制度であったが将来が約束されたものではない。その数は本採用者に近いものであった。その臨時工の皆さんの賃金実態は記憶していない。下位の9.141円以下であっただろう。聞いても彼らは教えてくれなかったことを覚えている。その少ない賃金にも個人差がつくられていたのである。教えるはずはない。彼らは積極的に残業、休日出勤をこなしていた。またそのことが残業を断れない職場の雰囲気を作っていたことを記憶している。暮れの賞与(年末一時金)はあったが、私は3000円、職場先輩10年勤続で4000円余、臨時工のそれは寸志と書いて300円。

1億総白痴化という流行語飛び出すほどテレビの影響を受ける国民が増加した。もちろん自宅にはテレビはない。町の電気屋さんの前である。また「電気やぐらこたつ」の普及がある。スイッチを入れるとすぐに暖かくなる。これは各家庭に行き渡った。家族がそろって足を入れることができる。足が触ったの、蹴っ飛ばしたのといってケンカの種になる暖房器であった。

今は「死語」になったが「3日・3月・3年。そこでようやく先が見えてくる」。いろいろあるだろうが、「我慢の3年間」という先人の言葉である。今、3人に一人が非正規、不安定雇用の実態にある。年収200万円以下という労働者も多い。改善をしなければならないが、あの時代同様、居直りもあって良いと思う。その居直りが改善への足掛かりになるかもしれない。またしなければならない。他人はいざ知らず「自分の生活」をしたらよい。子や孫の年代には空ごとかもしれないが「生きてきて、生きていく。100人いれば100通りの生き方があってよい」。そこで居直り、政治にぶっつけたいと思うがどうだろう。

 


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