迷惑施設と言ったら筋が通らない。しかし迷惑施設である

2013-12-18 19:46:21 | 日記

   迷惑施設と言ったら筋が通らない。しかし迷惑施設である

 

いわゆる「迷惑施設」についてである。

わが町も、市営の墓地公園を造成し、「火葬場」を建設した。

その周辺の皆さんにとっては、「ならば、作ってほしくはない迷惑施設」となる。何も、我が地域でなければならないのか。どうしても作るというのであれば、「迷惑施設を受け入れる」代償として、なにがしかの交付をして欲しいとなる。

現に、その施設の周辺には、二つの球技場や公民館の建て替えなどが実現している。さらには原野は切り開かれ、道路や電気、ガス、水道とアクセスは整備され、そこには予想もしなかった開発が実現する。

放射能物質による汚染対策として徐せんの実施は急務である。しかしこの作業が進まない。つまり「仮置き場」が決まらないからである。しかし待ってはいられないとして、住宅敷地内に埋設、あるいは地上保管という形で一般住宅の徐せんは進められている。

しかし、それは「仮・仮置き場」である。いつまでも置いておくわけにはいかない。しかし「仮置き場」が決まらない。それは「中間貯蔵施設」が決まらないからとなる。

今般、国の放射能汚染管理の方針が出された。中間貯蔵施設の設置は国が責任を持つ。その管理期間は30年。そして最終処分法を決めるというものである。

最終処分については後日に触れるとしても、「仮置き場・中間施設」については、最終的には当該住民の同意を必要とする。

そして、今般国が提起した中間施設については、住民の意向を尊重するとしながらも、「それは迷惑施設である。よって、その代償として使い勝手自由の交付金を考えて欲しい」との首長の発言が、またもや出されていることをニュースは報道している。

迷惑施設であれ、墓地、火葬場は、誰にとっても、なくてはならにものである。しかし、何も「我が地域につくらなくとも」となる。この論理は、どこでも、何についても出てくる。

「徐せんを早めよ。もっと広く取り組め」となる。当然にして限りなく取り組めば、限りなく多くの廃棄物が出る。仮置き場も、中間貯蔵施設も限りなく拡大する。そのことは、「公的には必要なものだが、個々においては迷惑施設の拡大」となる。

そして、そこに代償はという論理が出てくる。

野山を駆け巡り、自然から、生きる糧を頂き、自然を相手に生きた時代にはこの論理はなかった。おのれの骨を埋めることは土に返すことであり、やがては肥沃の土地を生む。苗を植え、穂が実り、コメとなる。その稲わらは草履となり、やがて朽ちれば燃料となり、その灰は再び土にかえる。そして苗の肥料となる。

「代償不要」を主張するつもりはないが、どこかで断ち切ることができないか。

とは言え、まず「中間貯蔵施設」の建設は急務である。代償によって、そのことが実現できるのであれば、国は惜しむことなく地域の要求を受け入れて欲しい。そして同時に、仮置き場の、さらには住宅敷地内の保管の「迷惑料」を払うべきである。

それは、国策として進めた国の責任である。

しかし、しかし。

私の頭には一つの「腫瘍」が残る。その腫瘍とは「国策エネルギー」で、私たちは、どれだけ生活をエンジョイをしたかということと、その「エンジョイの慣れ」という腫瘍を、きっぱりと切る覚悟を持つべきであるということを付け加えたい。


私は、居直りたい。高齢者の「多症状・長期治療」は当然だと

2013-12-18 09:50:28 | 日記

   私は、居直りたい。高齢者の「多症状・長期治療」は当然だと

 

口の中は雑菌だらけだとか。

初めての経験であるが、顔面を指で押すとその部分が飛び上るほど痛む。歯や歯茎自体が痛むのでないことと、症状の初体験もあって悪いほうへと意識がなびいていく。

結果は、雑菌の感染症による化膿ということになった。

ところで、私は70歳になった時点で、いわゆる「家庭医」を決めた。自分より20歳くらいは若い医師というのが条件である。最後まで、私の主治医として世話になりたいとの願いからである。

そのことを最初に切り出した。その言葉に、医師はためらいつつも、意味が通じたのか「私でよかったら」と答えてくれた。

以来、肩がこる。体がだるい。めまいがする、目の前を虫が飛ぶなどなど、内科医ではあるが、何でも相談することにしている。

定期の診察日であり、前記した歯茎が痛いということを述べ、歯科以外の診察が必要ではありませんかと質問した。医師は、「歯医者さんに行って診断を受けたのでしょう。まずそれで模様を見るべきです。これからは『いろいろな病気体験をしますよ』」と。

年が明けると77歳になる。自分の親たちの時代を考えれば、想像もしなかつた年齢を頂いたことになる。

さて、医療費問題が討論されるときには、必ず「高齢者の医療費の増大」が俎上に上る。

何か、「生きていることが迷惑である」ことを突き詰められている感じさえする。「我々高齢者は、医療費を食い、介護費も食う迷惑存在か」と。

そして、今般、またぞろ介護料の本人負担を2割にするという見直し案が提案されようとしている。

本気になって考えてみたいと思う。

よく「油が切れる」という。フル稼働で働きずくめの結果、機械は廃棄処分となる。

機械は処分が可能であろうが、高齢者といえども「人間」である。

高齢化が進行する中で「多症状・長期治療」は避けられない。これが正常な姿である。

にも、拘わらず政治は、そして社会は、このことを異常ととらえる。そして「切り捨てよう」とする。

「これからは、多くの病気の経験をしますよ」。

いいじゃないか。「素直に受け入れたいと」。

戦後の社会にあって、しかも「15の春、金の卵」の役割を果たしてきた」。

長年納税の義務を果たしてきた。社会保険の負担も果たしてきた。

「私は居直りたい」。

福祉の切り捨ては反対だ。同時に何の遠慮はいらない。その福祉制度をしっかり活用していこうと。