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細沼園のお茶飲み話

お茶の時間のひとときに、思いつくまま書きました。

旧室伏学校校舎 (牧丘郷土文化館)

2014-06-14 15:54:21 | 散歩・旅  山梨県

  

室伏学校  市指定文化財 昭和五十一年三月三十日

 この学校は、明治八年(1875)に県令藤村紫郎により建築され、木造方形二階構造で正面は、ルネッサンス様式を取り入れ、二階にはバルコニーを設け、屋根の中央に太鼓楼を設けた、明治初期としてはモダンな建築様式として建てられました。明治九年に諏訪尋常小学校として開校し、その後、諏訪高等小学校・日川牧丘第一保育所を経て、室伏公民館として利用されてきました。
 地域住民には「インキ壺」の愛称で呼ばれ、親しまれた建物です。
 現在の建物は、南西約四百六十メートルの位置にあったものを、平成十四年度中山間地整備事業により平成十五年三月に移築したものです。        (案内板より)

 

隣に道の駅 花かげの郷まきおか です。

 


国宝 大善寺

2014-06-12 18:44:35 | 散歩・旅  山梨県

真言宗智山派       国宝  大善寺

葡萄薬師 

当寺の開創は養老二年(718)。行基菩薩が日川渓谷岩上で霊夢により感得された像―右手に葡萄を持ち左手で結印した薬師如来と日光・月光菩薩の薬師三尊―を刻み安置して開かれたと伝えられます。

 奈良時代・聖武天皇の御代には鎮護国家の勅額と寺山号を賜り、五十二堂三千坊を教える隆盛をみました。

 往時の堂宇は平安初期に焼失しましたが、天禄二年(971)に三枝守国が再建して以来、平清盛、源頼朝の寺領寄進や堂塔修復、北条貞時による薬師堂再建立、仏師・蓮慶作の日光・月光菩薩や十二神将の制作、武田信春の厨子寄進等々…。時の為政者と大衆の深い信望のもとに歴史を重ねております。

 現・薬師堂は昭和二十九年(1954)の根本的な大解体修理で旧観に復され、その翌年に厨子と共に国宝となりました。そして、度重なる災禍を逃れて今日に至る薬師三尊像等の諸仏を、安置しています。         (パンフレットより)

 山門

関東で最古の木造建造物    本堂 (薬師堂)

 本堂に薬師三尊像を安置しているので「薬師堂」とも呼ばれます。

 弘安9年3月16日(1286)の刻銘があり、元寇(弘安の役)の数年後に建立、築720年以上が経過し関東周辺で最も古い建物になります。

 流麗な線を持つ檜皮葺きの屋根は落ち着きを見せ、鎌倉時代の建築の力強さがよく現れています。

庭園を見ていたら気持ちがゆったりしちゃって写真を撮るのを忘れてしまいました

 

 

 


マルスワイン  工場見学

2014-06-07 13:45:07 | 散歩・旅  山梨県

石和にある本坊酒造(本社は鹿児島)の山梨マルスワイナリー

 

洋酒製造の拠点として1960年に設立した山梨マルスワイナリー。西に南アルプス、南に富士山を望む甲府盆地、石和。このいったい、冬は寒く夏は暑い、雨が少なく日照時間が長いという、葡萄の栽培に非常に適した環境です。収穫される葡萄は糖分の高い良質のもので、まさにワインのために選ばれた地であるといえます。  (パンフレットより)

  

工場見学・試飲無料

時間 午前8時半より午後5時

駐車場 バス25台・乗用車30台収容

  

試飲して

穂坂(赤)と牧丘(白)と干しブドウを買いました。

最近はワインを飲んでます。


旧田中銀行社屋

2014-04-14 21:26:17 | 散歩・旅  山梨県

 

 旧田中銀行社屋(国登録有形文化財)

 藤村式建築の流れをくむ建物。明治三十年代前半に勝沼郵便電信局舎として建てられた伝承を持つ入母屋造り、瓦葺、二階屋の建物で、大正九年より昭和七年頃まで山梨田中銀行の社屋として利用された。
 外壁の砂漆喰を用いた石積み意匠、玄関の柱や菱組天井、二階のベランダ、引き上げ窓、彩色木目扉、階段などに擬洋風建築の名残があります。また、建物の背後には銀行時代に建てられた、扉に「山梨田中銀行」の名が鮮やかに残るレンガ外装の土蔵があります。

  近代化産業遺産

 

旧田中銀行から近いところにあった建物

 

 

 


甘草屋敷(旧高野家住宅)

2013-12-14 14:26:59 | 散歩・旅  山梨県

―重要文化財 旧高野家住宅―

 甲州を代表する民家として、高野家住宅(主屋)は全国的な民家調査が始まる以前の昭和28年3月31日に重要文化財に指定されました。

 19世紀初頭の建築と考えられ、桁行十三間半(24.8m)、梁間六間(10.9m)という規模で、屋根は大棟を東西に通した切妻造(きりづまづくり)、茅葺屋根(現在は茅葺型銅板葺)、また、南面中央に二段の突き上げ屋根を設けています。屋根を支える柱は高く棟まで通る棟持柱(むなもちばしら)で、これに梁を重ねて渡した間に見せ貫を通し漆喰塗りとした妻壁の構造は、優れた美観を呈しています。この棟持柱は、同じく茅葺切妻造民家である「合掌造」や「高塀造(大和棟)」には見られない、甲州の特色を遺憾なく発揮したものです。

 また、平成8年7月9日付で、附属屋として巽蔵・馬屋・東門・文庫蔵・小屋の五棟、附(※つけたり 年代、状態などからそれだけでは指定にあたらない場合でも、指定文化財と一体であることによって、価値が生じるもの)として地実棚・裏門・座敷門の三棟、さらに井戸・池・石橋・石垣を含む宅地4,932.07㎡が重要文化財の追加指定を受け、名称も「旧高野家住宅」に変更されました。

 この追加指定により、単なる民家一棟を保護保存するだけでなく、江戸時代末期から明治時代初頭にかけての屋敷構えとして活用しながら後世に伝えていくこととなりました。(パンフレットより)

 

  

  

   

  

     

   

【甘草屋敷の由来】

高野家は、江戸時代に薬用植物である甘草の栽培をして幕府に納めていた家で、古くから「甘草屋敷」と呼ばれてきました。高野家の沿革がわかる貴重な資料「甲州甘草文書」(県指定文化財)によると、八代将軍徳川吉宗治世の享保5年(1720)、幕府の採薬使・丹羽正伯が当屋敷内にあった甘草を見分した結果、幕府御用としてその栽培と管理が申し渡されるとともに、一反十九歩の甘草は年貢・諸役を免除され、以後ここで栽培する甘草は幕府直営の薬草園で栽培するための補給源として、また薬種として上納を負うこととなりました。(パンフレットより)

旧高野家住宅も春はお雛様を飾るそうです。

 

利用料金   大人 300円  小人・学生 200円 

開館時間  午前9時から午後4時30分 

休館日    火曜日(祝祭日にあたる場合はその翌日)・12月28日~1月4日 


八田家書院と御朱印屋敷

2013-11-16 15:09:16 | 散歩・旅  山梨県

 

◆ 八田家書院と御朱印屋敷 ◆

 八田家書院は昭和三十六年十二月七日に有形文化財(建築物)、御朱印屋敷は昭和四十四年十一月二十日に史跡としてそれぞれ山梨県指定文化財となった。

 現存する書院は1601年(慶長六年)に造られた。桁行12.74メートルで七間、梁間6.39メートルで三間半の茅葺き、東は入母屋造り、西が寄棟造りとなっている。

 間取りは南から見て、西から奥の間、中の間、三の間となる。主室となる奥の間は十畳分の広さだが、北側西一畳は床の間として張り出しており、その西脇に付け書院が設けられる。中の間は十五畳の広さを持ち、北奥に二間の床の間が付く。三の間は八畳で、南側に大玄関が東に開く形で配されている。

 奥の間、中の間の南側には一間通りの入側が配され、奥の間西側には濡縁(ぬれえん)が付く。奥の間にはネズミサシの面皮柱(めんかわばしら)、その他はツガなどの面取り柱が使われている。

 全体に簡素な造りではあるが、一方で高雅な趣味をさりげなく取り入れ、独特の統一された空間を醸し出している。江戸期の嗜好の一例を留めた貴重な書院として、八田家に伝わる古文書類とともに、非常に学術的価値の高いものである。

◆ 八田氏について ◆

 八田氏は戦国期に蔵前衆として武田氏に仕えた。家屋敷は天正十年、織田軍の兵火を受けて焼失したため、これ以前の古文書は数少ない。

 武田氏滅亡後家康から庇護を受け、三千四百坪の屋敷地を御朱印地として安堵された。現在の屋敷地はその内の西側一画に当たる。残された古文書には朱印状、日記、人別帳(にんべつちょう)、祝葬儀文書、絵図面など多彩で貴重なものが多い。

 

◆ 朱印とは ◆

 戦国期から江戸初期にかけて、武将が政務や軍事などの命令・許可を称するために文書に用いた朱肉印。古くは禅僧の発給文書に用いられたが、特に戦国期に東国大名が花押(かおう)の代わりに用いた。 【朱印地】 朱印状によって所有の保証された土地で、社寺に下付けされた例が多い。        

八田家には江戸時代から昭和時代にかけての「ひなかざり」が残されていて、毎年春に公開しているそうです。

平成10年1月より12年2月まで半解体修理を実施したそうです。秋に訪れると紅葉が見られるのでしょうね。

観覧料  200円

時間    午前9時より午後4時まで

閉館日  火曜日(休日の場合は翌日)

                      


藤村記念館 (旧睦沢学校校舎)

2013-11-10 21:45:12 | 散歩・旅  山梨県

藤村記念館

 

 甲府市藤村記念館は、明治8年(1875)に現在の甲斐市亀沢(旧陸沢村)に陸沢学校として建てられた学校の校舎です。

 昭和32年(1957)まで学校の校舎、昭和36年まで陸沢公民館として利用され、老朽化により取り壊し寸前のところ、藤村様式旧陸沢学校校舎保存委員会の手で昭和41年武田氏館跡の武田神社境内に移築復元し、同委員会から「藤村記念館」と命名され甲府市に寄贈されました。

 移築の翌年には国の重要文化財の指定を受け、昭和44年から郷土の民族・歴史・教育・考古資料を展示する資料館として開館し、平成2年(1990)からは教育資料を中心に展示替えを行って、市民・県民に親しまれてきました。

 平成20年、甲府駅周辺区画整理の拠点形成事業に伴って、建物の解体に着手し、平成22年7月末に甲府駅北口広場で進められていた移築復元修理工事が完了し、市民や観光客の交流ガイダンス施設として新たに開館しました。      (パンフレットより)

    

【藤村 紫朗】  弘化2年(1845)~明治41(1908)

 肥後熊本藩士黒瀬家の二男で、同藩士・萱野(かやの)家の養子となる。尊皇攘夷(そんのうじょうい)運動に加わり勤皇志士とともに国事に奔走、脱藩して徴収に走り、王政復古の運動に参画した。

 明治維新に際して藤村姓を称し、大阪府参事を経て、明治6年(1873)山梨県権令から翌7年山梨県令となった。明治19年地方官制により山梨県知事、翌20年の愛媛県知事に転ずるまで14年間の長期にわたり山梨県政を担当した。

 藤村県令は、文明開化の諸施策に積極的に取り組み、殖産興業として養蚕技術の普及や県営勧業製糸場建設、甲州街道や青梅街道など主要な幹線道路に車馬の通行可能な改修工事を実地したほか、甲府市街の整備に着手し「藤村式建築」と呼ばれる擬洋風建築を特に推奨した功績は大きい。 (パンフレットより)

 

 県産木材アート(間伐材)を使用した巨大アート《緑の龍神》