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横浜から北海道の山村に移り住んだ、我が家のつぶやき

北海道追分に移り住み5年。今度は追分から恵庭へ。毎日が新鮮で愉しい事だらけ。そんな生活を気まぐれにおしゃべりしています。

ば~ちゃん

2009年11月25日 22時19分43秒 | 生活
近くに住むば~ちゃん。

3年前、“アルツハイマー型認知症”と診断された。

じ~ちゃんと2人でメロン栽培をしていた。

ある時期から、注文メロンを再配送したり、同じものを何回も買ったりと、
物忘れがひどくなってきた。

メロン作業も肝心な所を切ってしまったりと、
じ~ちゃんは  “もう無理だ、メロン作りは辞める”

その言葉が私たち夫婦をこの追分に呼び寄せた。

メロン作りはじ~ちゃんの生きがい。
それをなくしたら・・・
“やばい、じじも認知症になっちゃうよ!”

じ~ちゃんと認知症のば~ちゃん2人では無理だ。
会社を早期退職し、同居を始めた。

こりゃまた大変だった。

その内、じ~ちゃんが“副鼻腔黒色肉腫”と診断されるが、
病院嫌いときたもんだ。
食事を摂れなくなり、自宅で点滴を始めるけど、
動くもんだからすぐ洩れる。
“真知子さん、なんか膨れているけど・・”ば~ちゃんが呼びに来る。

慣れないメロン作業をしながら、じ~ちゃんの点滴を刺し直したり、
ば~ちゃんの認知症に付き合ったり、“何なのこれは!”って感じだったな~。

 (看護師だったのがいいのか悪いのか・・)

一度は手術を納得し入院するが、翌日 
“帰宅したいと、我々の言うことを全く聞きません。すぐお越し下さい”
医師から電話が入る。
 “駄目か・・・”

退院する・・・

“地元の病院ならといい”と再入院するけど、
ここでも医者から
“もううちでは・・・”

我が家に来てもらうことにした。

あれだけ食事をとらなかったじ~ちゃんが、自分から食卓まで歩いて、わずかながら口にした時は、嬉しかった。

でもそれもつかの間、
   “帰りたい、帰りたい”
   “どこに帰るの?”
   “埼玉、飛行機代貸してくれ”

32歳の時、埼玉から4歳2歳の子供を連れ、ば~ちゃんと家族4人、翌年台風で座礁転覆した洞爺丸に乗船し、開拓民としてこの追分に入植した。

辛苦をなめ尽くした生活がそこにはあった。

以来、一度も生まれ故郷に帰ることはなかった。

追分の家に帰ってもらった。
ば~ちゃんとの2人の生活が戻った。

じ~ちゃんはここに帰りたかったんだ。

じ~ちゃんが亡くなって3年。
ば~ちゃはやっとじ~ちゃんがいない事がわかってきた。

そのば~ちゃんに夕方食事を届けるんだけど、
“起きてても何もする事ないし、電気代もったいないから”と、
17時頃にはもうお休みタイム。

“真知子さんの料理はいつも美味しいね~ 店を出したらいいのに”
毎回同じだけど嬉しい言葉を掛けてくれる。

身体的には丈夫だし、
これっといった症状もないし、

ば~ちゃん、一緒に付き合うからね。

開拓時代の事はよく記憶している。
今度、じっくり聞いてみよう。