横浜から北海道の山村に移り住んだ、我が家のつぶやき

北海道追分に移り住み5年。今度は追分から恵庭へ。毎日が新鮮で愉しい事だらけ。そんな生活を気まぐれにおしゃべりしています。

新夕張駅から夕張駅

2019年03月24日 16時53分35秒 | 歴史

明治25年、炭鉱の町夕張で、石炭運搬のために敷線された夕張線。

閉山後も地域の足となっていたが、

平成31年3月末をもって127年の歴史に幕を下ろす。

近いのでいつでも行けると思っていたがその日が近づいてきていた。

ちょうど「小さな旅」という番組を観た後と、今朝の思わぬ大雪が重なり、

「行ってこよう!」

3月最後の日曜日、

いつも閑散としてしている新夕張駅は、駅員さんが増員されカメラを持つ多くの方が乗車。

小雪舞う寒いホームから静かに走り出す。

  

雪深い沿線を走ること6,1キロ。

夕張駅に到着。

   

乗り継ぎが悪く、行きたくとも躊躇していた夕張線(石勝線)

127年間、お疲れさまでした。

 

 


成人

2019年01月15日 20時02分28秒 | 歴史

美しく着飾った成人のお嬢様が、にこにこ顔でテレビに映し出されている。

毎年変わらぬ映像。

46年前、20歳を目前にした12月31日、

バイト先のスナックの客と過ごしていた。

当時、男を追って家を出た母の借金返済で、

看護師をしながら日勤時は夜スナックで、夜勤明けはラーメン屋でバイトをする生活を送っていた。

友達は古本とお酒。

部屋にはトランジスターラジオとコタツだけ。

大晦日だからとなんの感慨もなく、

家に帰っても待人なし、来年20歳になるのなら女の子を捨てようと、

ちょっとはイケテル男に連いていくことにした。

30前半、しゃれたマンション、部屋に入ると目についたのはびっしりの本だった。

すごい・・

読みたい・・

 

1月1日、朝陽が眩しかった。

陽射しに映し出されたシーツの赤い点。

20歳、女になった。

 

“読みたい本があれば持っていっていいよ。”

3冊の本を手にし自宅に戻ると、

あんなに眩しかった陽射しとは無縁の、寒々とした無彩色の部屋が待っていた。

 

成人式、

日勤帰りにお酒と古本を買い、何を祝うでなし、ただただ無心に本を読んでいた。

 

 

 

 

 

 

 


前進!

2018年10月04日 09時11分38秒 | 歴史

茅ケ崎に住む57歳の妹が、2日間の仕事休みを利用し震災ボランティアで北海道にやってきた。

仕事を終え、新千歳空港20時半着。

申し込んだ団体は札幌のため、そのまま札幌のホテル泊まり。

翌日、派遣されたのは、鵡川町畜産農家の倒壊した家屋の片づけ。

ここで感じたご夫婦の温度差。

ご主人は “みんな捨てていいから。”

奥様は “ちょっと待って。”

ゴミのような片づけ物でも、そこには何十年の生活史がある。

奥様と少しづつ話をしながら、ゆっくりゆっくり片づけをしていったそうだ。

男性ボランテアの中で唯一の女性だった妹に奥様はほっとした様子。

次から次と運び出すのはたやすいが、被災された方の心に寄り添いながらの作業。

“おね~ちゃん、正直、それでどっと疲れたみたい。”

“でも、私はこの一日だけ。被災された方はまだ続くんだものね。”

西日本のボランテアに行こうと思っていた矢先の北海道地震で、思わぬ妹とのおしゃべり。

夕方19時、鵡川から戻り、疲れ切った表情の妹と中島公園キリンビール園でお疲れ様乾杯。

妹も私同様、初めてこのキリンビール園を訪れた時の感動で、北海道に来ると必ずここで、おなか一杯のジンギスカンとビールを賞味。

とうとう閉館になってしまった。

近い将来更地になり、いつ日か忘れ去られてしまうのだろう。

新しい建物が立ち、その歴史が始まる。

時間は掛かるが、

亡くしたものは戻らない。

今ある時間を、今ある自分を、

大事に大切にして前に進もう。


それにしても、一日ボランテアをして翌日は仕事。

膠原病で病院がお友達の妹。

外国にもどこにでも行って楽しんでいる。

元気だわ~・・・・・

 



 

 

 

 

 


足踏みオルガン

2014年03月10日 21時39分05秒 | 歴史

             

ヤマハの足踏みオルガン。

昭和初期の香りいっぱいなレトロなオルガン。

最近おじゃまする骨董屋さんで見つけてしまった。

ちゃんと曲が弾ける。

なんとも懐かしい郷愁あふれる音色だ。

弾けるのは「猫踏んじゃった」。

ちょっとやってみようかな。

部屋に置いておいても邪魔になるって感じがないの。

不思議な存在。

 

 


倒木の今と昔

2012年11月07日 06時41分35秒 | 歴史

我が家の周囲は大きな樹に囲まれていたのだが、その樹が次から次へと倒されていく。

空き地だったこの場所を畑にするため皿地にしているのだ。

樹の下部をチェンソーで切り、それを大きな重機が上部を挟み持ち上げ運んで行く。

 

  

切り倒された樹の根っこも軽々と堀りあげ、枝を払い、丸太に仕上げて行く。

 

細い木は頂いた。我が家の大事な燃料だ。

切り倒された木の年輪。ずっとこの土地で生き、歴史を見てきたんだね。

今度は薪となり、第二の人生を歩む。

我が家の前に高く積まれた丸太もあっという間に運ばれて行った。

作業をされていた方とちょっとおしゃべり。

埼玉から開拓で北海道追分の荒林野に入いり、のこぎり、鍬、スコップだけの手作業、来る日も来る日も大木と向き合い、長い年月を掛け切り開いていった義父母。

その方のお父さんも同様だったと。

“親父たちはすごい事をしてきたんだよなあ~”

先人が創り上げていった北海道の大地。

わずか3日で跡形もなく消えた大木。

時代はすごい勢いで進んできたんだね。

いただいた木は大事に使わさせていただきます。

大木に隠れていた遠くがよく見える。

とってもとっても違った景色になっちゃた。

見晴らしがよすぎる感じ

雪の季節になったら一面雪景色だ。

うん、

それもいいね。

だけど、

あの木々って、けっこう防雪林になってくれていたんじゃないのかな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


母と会う。

2011年04月21日 09時00分11秒 | 歴史

帰途、ホームに入所している89歳の母に会いに行く。

すっかり老人になっているが、口は変わらず達者だ。

色々あって、

死ぬまで会いに行くまいと、思っていた時期もあったけど、

老人の母を見ていると、また会いに行こうと思っている。

母との葛藤は消えたわけじゃないが、

過去を消せず母を拒否するより、

残り少ない母のこれからを見ていこう。

と思うけど・・・・・

あの人だったら100まで生きそう・・・・・

御殿場から母のホーム、自宅までと長い道のりを運転してくれた娘よ。

ありがとう!!


ば~ちゃんの開拓史(口述より)

2011年01月31日 01時54分42秒 | 歴史

埼玉では教師の娘として厳しい躾をうけ、卒業後は銀座で働いていたこともあったば~ちゃん。

近所に住むじ~ちゃんと知り合い結婚。三男のじ~ちゃんは、ある日、役場で北海道開拓民募集の記事を見て移住を決心。

ば~ちゃんの親は大反対だった。〝嫌だったら連いて来なくてもいい、ひとりで行くから〟とじ~ちゃんの意思は固く、一家での北海道移住が決まった。

とは言うものの渡航費や一年間は食べていける位のお金が必要だった。

1953年4月1日、汽車で埼玉から青森まで、青森から青函連絡船(洞爺丸)に乗船し津軽海峡を渡り、函館で降船。函館から汽車で追分まで。

長い長い道のりを経て、4月2日、じ~ちゃん(32歳)ば~ちゃんは(27歳)4歳(義兄)と2歳(夫)の4人は、埼玉から他の4家族と共にここ追分に開拓民として入植した。

4月だというのに、肌をさす、痛いような風が身を突き抜けていった。

道らしき道はなく、木々の中をぬってたどり着いた、自分達がこれから開墾する土地を見たときの驚き。

〝ここです。〟と言われた場所は木にロープで囲いがしてあるだけの、見渡す限り未開の原生林。

話には聞いていたがここまでとは・・・・・

不安と恐怖に見舞われました。

4家族は町の労働会館で、自分達の住まいが出来るまで共に暮らしていました。

子供を連れ、毎日毎日、日が暮れるまで真っ黒になって、せめて自分達の家をと、必死で鋸で大木を切り倒し、一鍬一鍬、大きな根っこを掘り出し、開墾していきました。

やがてそれぞれの家族は自分の土地に落ち着きました。

出来上がった我が家。

それは左右から柱を斜めに立て屋根を作り、その上に、葦や笹などの草木で屋根を覆い周囲も草木で囲った拝み小屋(おがみごや)で、出入り口はムシロを2枚ぶら下げただけの粗末なものでした。もちろん電気なんかないランプ生活。

床は土のままで、野草や笹を敷き、さらにその上にムシロを敷き、台所は流し台と水桶と、食器などを置く粗末な戸棚があるだけでした。暖房は炉で大木の根を燃やし、煙突がないので、煙がいつも部屋に充満していました。

それが待ちに待った家族4人の住む家でした。

ついこの間までは親の元で身の不自由なく暮らしていたのに、なぜこのような思いをしているのか、思えば思うほど涙がこみ上げ、仕事も手につかず大きな木の下で泣いていました。

親の反対を押し切ってここに来た。でもほんとうに厳しい。もうだめだ!内地に帰りたい!

母の顔が何度も浮かび、〝お母さん~!〟大きな声で叫びました。

戻れない・・・・・

今更泣き言を言っても、もう遅い。頑張れ!と自分の心を叱りつけ、一日も早く安定した生活ができる様に、畑を作って家族が食べていけるようにと、来る日も来る日も開墾に明け暮れました。

割り当てられた土地は5町(この数字は記憶が定かではない。15000坪)、一畝(いっせ)(30坪)を開墾すると役場から測量に来て、お金がもらえるのだが、利子がつくのでお金がある人は一年後にまとめてもらっていた。

町までの買い物。

狭い道路(これも開拓の人達で作ったもの)、険しい坂道を登り降りし、側には川が流れ、大きな丸太が横たわりその上をやっと渡り、町に出るが、帰りが遅くなると何時熊が出るかそればかりが心配だった。

開墾には夫婦ふたりだけの労働では到底叶うものではなく、

親子馬を買った。よく働いてくれた。

せめて子供達には暖かいセーターをと綿羊も買い、

豚も買い、大きくして売ったもんだ。

鶏も買い、町に卵を売りに行った。

お金が掛かることばかりだったが、少しでも安定した生活をと必死で働いた。

開墾で疲れた足を休むことなく、あちらの草こちらの草とつなぎ替えて食べさせていたのに・・・・

ある日熊が出て綿羊2頭が食われてしまい、

ある年は大冷害に見舞われ一夜にして豆が全滅。

大事な働き手の馬も伝貧にかかって、親子共々連れて行かれてしまった。

どうして! なんでなの! 

根気を失ってしまいそうでした。

今ここで弱音を吐いてはいられない。内地の親に逢わす顔がない。立派な農家にならなければと心に言い聞かせながら、つらいこと、悲しいこと、寂しいことをじっと我慢してこらえました

すべてを開墾するのにどれだけの年月を費やしただろうか。

開墾が終わると今度は土地代を払わなくてはいけない。

払うお金が無いと、土地を売って払う。

血の滲むような思いで必死で開墾した土地を・・・・

今、長男は開墾した土地で園芸農家を、次男はサラリーマンを辞め、メロン作りを継ぎ、北海道で生まれ育った娘も農家に嫁ぎ、子供達全員が農業にたずさわっている。

言葉では言い尽くせない辛苦の毎日。

今ではすっかり昔話になっている。

ボタンひとつで自由になる文化生活、なにかいたましく感じるのは私だけでしょうか。

 

※ば~ちゃんたちが乗ってきた「洞爺丸」は翌年9月26日、函館湾七重浜近くで横転転覆座礁し、1,331名の内、死者1,172名の大惨事となった。

北海道への移住が推奨されたのは本土での余剰人口の受け入れ先としてとも聞く。北海道は寒冷地、山地、火山灰地、低湿地、泥炭地などで農耕には不向きの土地。冬の寒さも厳しく、獣害もあり、農業経営に失敗し、冬の寒さに耐え切れずに夜逃げをする移住者も後を絶たず、北海道の開拓の歴史は極めて過酷なものだったようだ。今日、食の北海道と呼ばれるまでになったのは先人の苦労があったからこそ。労働力さえつぎ込めば開拓できるほど甘い状況では無かった。

辛苦をなめ尽くし、開拓に人生を賭けたじ~ちゃんとば~ちゃん。私もこの追分で人生を全うしたいと思うよ。

 

 

 


日本最低記録、1902年、氷点下41,0℃。

2011年01月25日 10時58分30秒 | 歴史

1902年(明治35年)、1月25日、旭川で氷点下41,0℃が気象署で公式記録とされている。

気象署以外の参考記録では1931年1月27日、日本屈指の酷寒地帯である美深町(びふか)で氷点下41,5、1978年2月17日、幌加内町で氷点下41,2度の記録がある。

公式記録である1902年、この1月25日を前後し青森では大変な事件が起きていた。

新田次郎の小説「八甲田山死の彷徨」から映画化にもなった、世界山岳史上最大と言われた、「八甲田山雪中行軍遭難事件」。

日本陸軍第8師団の歩兵第5連隊が青森~田代~三本木~八戸までの八甲田山踏破を目的にした冬季訓練中に遭難し、210名の内199名が死亡するという大惨事だった。

惨事のおきた八甲田山中でも氷点下20度以下であったろうと推測されている。

11人の生存者の多くは凍傷で足や指を失ない、

「もしあの時、予備の軍手、靴下の一組でも余計にあれば自分は足や指を失わなかっただろうし、半分の兵士が助かっただろう」と後年、供述している。

候、気温の移り変わりが激しい冬山登山。

毎年、遭難事故のニュースが流れる。

 

綿密な計画、装備、

天候の急変による決断と決断。

撤退する勇気。

山だけではないよね。

「甘く見ていた」事って日常生活の中で経験することってあるよね。

自分の甘さに気がつかないで、人の意見に耳を傾けず、自分の意見を推し進めた結果、とんでもない事になったり。

2月はもっと寒くなるんだろうな~

甘くみないでこころして臨むことにしよう。

 


青春

2010年10月09日 07時07分56秒 | 歴史
「札幌キリンビール園」の前身、グランドキャバレー「ミカド」。
当時を知る人物に話しを聞く事が出来た。

その方は現在59歳、若い頃は札幌在住。

当時職場の寮にいて、最初は先輩に連れて行かれ、おごってもらっていたんだけど、その内、仲間内で行くようになったんだ。
生バンドの音と、きらびやかな何百人ものお姉さんと客の声で、本当に賑やかだった。
きれいな?お姉さんが何人か座るんだけど、いいな~て思うお姉さんは、売れっ子だからあちらこちらからお呼びが掛かって、すぐ席を立っちゃうし、お金がないな~って思われると一人、二人居なくなっちゃう。
それでも行っちゃんだね。
馬鹿な奴がいて、“終わったら外で待ってて”なんて甘い言葉で最後まで店でお金を遣い、その後は外でずっと待ってるんだ。一回二回、懲りないだな~ 結局待つだけの男だった。
“それって貴方?”
俺はしなかった。バカらしい。

“随分遣った?” 
新らしもの好きで「ミカド」にはよく行ったかも。
朝まで遊び歩き、そのまま仕事に直行っていうものよくあったな~
寮住まいだから、給料なんて2週間位でなくなって、中にどこにも遊びに行かない奴がいて、お金を貯めこんでいるもんだから、みんなそいつの所に借りに行くんだ。
でも、その男は肺癌で43歳だったかな~ 女房をもらって家を建て子供も出来、家族で遊びに行くようになった矢先、死んじゃったんだ。たばこも吸わない、パチンコもしない本当に遊ばないで、寮では休みというと、部屋の掃除や洗濯ばかししていつも部屋はきれいだった。
人生わかんないな~

“タクシーで”  
当時は規制がうるさくなかったから、車で来てたね。店のすぐ横が豊平川でその橋沿いにずらっと車が留めてあるんだ。

“結婚しても?”
どこにも行かなくなった。お金が使えなくなったからね・・・・

面白いお話を聞かせて頂きありがとう御座います。
我が家の旦那様、なかなか青春をエンジョイしていたんだね。

当時、札幌にはキャバレーが6店舗あったという。
その中でも客席800とういう最大規模を誇った「エンペラー」。
一流の歌手が連日ステージに立った、伝説の「エンペラー」。
栄華は景気の衰退とともに2002年、歴史の幕を閉じた・・・・

廃校

2010年09月25日 00時42分10秒 | 歴史


近くを走っていたら、木造建ての古い建物に出会った。
「本安平小学校」
児童の減少で、1991年、88年の歴史に幕を降ろした小学校だった。
児童数11名。
ここで子供達が学び、遊び、巣立っていったんだね。
トーテンポールが学校を見守っているかのよう。

閉校後11年、まだ子供達の笑い声が聞こえてきそうな校舎の趣。

今、追分の小学生は駅近くの「追分小学校」に通う。
児童数200名余、クラスは7つ。
旦那様が通った小学校。
町から離れた実家から1時間余り、
舗装はされておらず、雪の季節は大変だったと言う。

時代の変化。

子供達にも変化はあるのだろうか。