アイリッシュセッター、10歳のちゃちゃ。
外に出ると、
ハウスに真っ先に駆け出す。
きゅうり、トマト、
ちゃちゃの大好物が待っている。
食べたい、食べたい~~
入ろうとする寸前、
“ちゃちゃダメ!” 見つかっちゃった・・・
おっとと、
ユータンするちゃちゃ。
“待って、いまあげるから。”
お座りしてじっと真知子を見つめる。
早く、早く~
大好きなんだなあ~
アイリッシュセッター、10歳のちゃちゃ。
外に出ると、
ハウスに真っ先に駆け出す。
きゅうり、トマト、
ちゃちゃの大好物が待っている。
食べたい、食べたい~~
入ろうとする寸前、
“ちゃちゃダメ!” 見つかっちゃった・・・
おっとと、
ユータンするちゃちゃ。
“待って、いまあげるから。”
お座りしてじっと真知子を見つめる。
早く、早く~
大好きなんだなあ~
モコがいなくなって1か月が経った。
動ける間はどこでもオシッコが出来るように、あちらこちらにビニールと新聞紙を敷いていた。
乾いたウンチが思わぬところから発見される。
ウンチは見られないようにしていたんだね。
こんなところまで歩いてきたんだ。
モコ立派だよ。
これを書いているだけで涙がこぼれそうになる。
モコと寝ていた隣には「風太」が寝るようになった。
風太はいつも黙っていた。
黙って遠くで寝ていた。
寝るまで側にいる。
布団に入るとやってきて、ひとときぐるぐる回りながら自分のポジションを決め横になる。
夜勤の時はソファーから動かないと言う。
帰るとぴょんぴょん飛び跳ね迎えてくれる。
2010年10月28日340g、15㎝で生まれた風太は20Kになりました。
風太が
涙を消してくれた。
風太に守られているような・・・
モコが食べなくなり動けなくなってからは、家事を早々に済ませずっと抱っこをしていた。
夜はいつものように横で寝て、
ひとりにさせたくなかった。
夜勤明け、迎えの夫に“モコ逝ったでしょ?”
“うん”
車中、涙がとまらない。
なんでこんなこぼれるんだろう。
最後のお別れは出来なかった。
抱っこをしていると、
温かい?
私の手だった。
ふ~ふ~息をしている?
私の息づかいだった。
やっぱり逝ったんだ。
火葬が8日まで空いてないと言う。
帯地で骨入れを作った。
モコの母親さくらが逝ってから3年。
今度はさくらとゆっくりしてね。
立春の雨降る朝、モコ逝く。
3月31日、20歳の誕生日を待たず享年19歳、天寿を全う。
食べなくなり、水も容易に飲めなくなった。
全く動かない状態の中で、夜中、ウォ~ン、ウォ~ンと声を出すモコ。
よしよしお母さんはここにいるよ。
モコの頭を撫でながら朝を迎え、翌日はその声さえも聞かれず、意識がなく、静かに呼吸をしているだけのモコ。
3日目の朝7時、静かに逝った。
奇しくも立春。
良き日なり。
昨夜もふ~ふ~と寝息をたて、私の首に頭を置き寝ている。
痙攣はない。
が、
とっても口臭が強い。
腐ったような匂い。
見ると、両上顎に変形した腫瘍が出来、一部は壊死し、穿孔している部分が見える。
これだったんだ。
気がつかなかった。
壊死している部分はハサミで切開。
ピストンで全体を洗浄し軟膏塗布。
今は洗浄し清潔に保つしか策はなし。
様子を観ていくしかない。
今日は比較的暖かかったので(+1℃)外に出すと、よたよたしながらもすぐにオシッコをし、その部分の雪が溶けるのを見ると、
自分の脚で立ち、必死に支え、オシッコやウンチをするモコに感動すら覚える。
昼間側に居るときはゲージには入れない。
オシッコ、ウンチがしたくなると場所を探しにあっちにこっちに、見えなくなっている目で歩き回る。
前進のみで後退することが出来ず、時に挟まったりするとほとんど鳴く事がないモコが、ウオ~ンウオ~ンと鳴き声を出す。
本人は必死だが、その後姿に思わず笑ってしまう。
毎日の世話に、疲れている自分が時に見えるけど、
必死にはしない。
あんまり必死に世話してたら、モコが気を遣って、“頑張らなくちゃ”と思ったら可哀そうだもの。
19歳、もう充分。
自宅横の散歩道。(農道)
ちょっと前までこの道を、ぴょんぴょんと走っていたんだ。
4時、横で静かに寝ていたモコが動き出し、私の首に頭を置き、ハア、ハアと荒い呼吸を始めた。
ピクピク不随運動な動き。
しばらくそのままで様子を見ていたが、そっと横になってもらうと今度は浅い呼吸に変わっている。
とっても不安な気持ちになり、身体に手を置きモコの暖かさ呼吸を感じながら
もしかしたらこのまま目を開けないのではと、
涙が溢れてきた。
モコたん、モコたん。
呼んでも目を開けない。
5時を過ぎても全く動かないモコ。
ウトウトし、時計を見ると7時、モコが目を開け動こうとしている。
モコ?
前日と同じように、軽い痙攣をおこしその後静かに寝ていたモコ。
お別れの時がやってきたと思い込んでしまった。
病院勤務時代、沢山見てきたのに、
すっかり騙された。
名優モコ。
しっかりご飯を食べ、
オシッコもウンチもして、とことこ、よったよった。
オムツ(紙パンツ)を使用してみたが、モコはお気に召さない様子。
外すと、とことこ。
やだよね。
今日もしっかり生きたモコでした。
昨夜もとことこやってきた。
布団をめくり中に入れると、しばらくしてコテンと横になる。
今日は早めの就寝。
“モコたんお休み”
夜中、肩をとんとんとんとん叩く気配で目が醒める。
私の肩に前脚が掛かりモコが痙攣しているところだった。
そのまま黙って叩かれる。
ほどなくして痙攣が治まり、枕を半分占領し何事もなかったように寝息をたて寝始めた。
濡れたオムツを取り替えても起きることはない。
疲れたんだね。
朝10時、ごそごそ始めたのでそのまま下半身浴。
ドライヤーで乾かし、身体を支えながら水を飲み、ご飯を食べる。
今度はウンチがしたくうろうろ。
すべてが終わるとコテンと横になりしばしお休みタイム。
こんな感じで一日が終わる。
今日もモコはしっかり生きた。
3月31日で19歳になるモコ。
3年前、16歳で死んださくらの子供で横浜生まれ。
5歳で飛行機に乗って北海道にやってきた。
去年の7月、前日までなんともなかったのに歩けなくなっている。
ごろんと横になったまま動かない。
悪い予感。
モコの後ろ乳房が野球ボールのように大きく腫れあがっていた。
食べることも飲むことも出来ない。
病院に行けば抗生剤入りの点滴をするだろう。
もしかしたら入院するかもしれない。
前に体調が悪く病院に行くと点滴をし、様子をみるため一晩入院。
翌日行ってみると、
「この子は鳴かないし無表情でいつもこうなんですか?」と医者から聞かれた。
「点滴針がまだ入っていますので明日また来てください。」
針は自分で抜き、病院には行かなかった。
北海道に来てからは山村地域でもあったのでリードもつけず自由に外を飛び回っていた。
もちろんゲージに入ったこともない。
またあの狭いゲージに入いることを思うと、受診を考えてしまった。
私が治す。
決めた。
ピストンで水を飲ませ、
翌日膿が出始めた。
噴火の手前だった。
失禁状態なので、お尻と創部をシャワーで洗い、
人間用の抗生剤軟膏を塗布。
嚥下は可能だったので食事をミキサーにしピストンで注入。
褥瘡(床ずれ)発生の可能性あるため数回の体交。
徐々に腫れが小さくなり、それに伴い立ち上がるようになった。
ご飯も水も自分で出来るようになった。
身体をよく見ると、小さな床ずれがいくつか出来ていたが幸いに表皮だけで、軟膏をつけ治癒。
身体はゴツゴツ。体交を豆にやってあげればと後悔。
一度は覚悟をしたが復活。
後ろ足の突っ張りが弱くなっておりコテッと転ぶこともあるが、とことこ外を歩くようになった。
それから5か月、
今度は前足が全く力が入らず、またも動けなくなった。
幸い食欲はあったので、身体を持ち上げて自分で食べるようにさせたが、自力では立てない状態。
日に何度か身体を持ち上げ立たせると、必死に歩こうとする。
1週間が過ぎた頃、あら?モコが立ち上がっている。
歩いた!
またも復活。
夜中、とことことことこモコの足音が聞こえてくる。
最初は枕元で、うろうろしながらコテッと寝ていたのだが、
その内、鼻で掛布団を持ち上げるようになり、一緒に寝るようになった。
そのモコが2~3日前から、日に2度ほど1~2分と短いが失禁し痙攣をおこすようになった。
痙攣は体力を消耗する。
夜中も布団の中で痙攣することもあるが、おさまればまたピッタリくっついて寝ている。
散歩中、何度か他の犬に吠えられたり飛びかかってこられたり、横浜ではいじめられっ子だったモコ。
北海道に来てからはうさぎのようにぴょんぴょん飛び跳ね走り回っていたのに、
いつのまにかおばあちゃんになっていた。
パソコンをする横で寝ているモコ。
私が布団に入ると目ざとく目覚め、よく見えない目でとことこやってくる。
とことこ来ないと気になって寝られない。
19歳、覚悟はしている。
人間も動物も看護の基本はなんら変わることはない。
モコから改めて教えてもらった。
さくらママとモコ 9歳のモコ
風太が8歳になった。
10月28日、母犬に育児放棄され、小雪舞う日に息も絶え絶えに放り出されていた風太。
夫婦交代で2時間気おきにミルクを飲ませ、12日目、目があいた。
優しい子に育った。
最近は夜遅くまで起きていると、先にベットに上がり寝ている。
起きるのも一緒。
出会えてよかった。
旦那の息子が遊びに来た。
40になったのかな?
いまだ独身。
スタイルよし、顔よし、頭よし。少々のお酒(缶ビール)を家でたまに飲むくらいで、外食はほとんどせず、一軒家でひとり静かに暮らしている。
家事は苦にならないようで料理も楽しむ。
それでも、来るとわかると、真知子はせっせと料理つくり。
お重に詰めて持たせている。
といっても大層なものではない。
いつも来る少し前の連絡だから、冷蔵庫にある材料でつくるだけ。
今日も、何作ろう・・・
あるのはあれとこれと・・・
や~しやろう!
ネギ入り卵焼き、かぼちゃの煮つけ、ポテトサラダ、きんぴらごぼう、鶏の照り焼き、おいなりさん、さつま芋てんぷら、ほうれん草の胡麻和え、
なんだか芋づくしになっちゃった。
我が家はカセットコンロ一台が調理器具だから、能率よく段取りよくやらないと時間が掛かってしまう。
一瞬でメニューを決め、一気に作る。
費やした時間は1時間。
終わるとふ~~~って感じ。
我ながら見事な動き。
それをきれいに詰めて、風呂敷で包み、はいどうぞ。
それを見て、ありがとうと旦那様はにっこにこ。
12月はおせちを作って届ける、10年続く暮れの行事。
旦那様はにっこにこ。
いくつになっても子供は子供。
息子とおしゃべりする顔はにっこにこ。
8月24日、母の命日だ。
4年になるかな~。
母との確執。
男と別れ舞い戻ってきた母。
一人暮らしをしていたが、なんだかんだと言ってくるのが煩わしく同居した。
でもある日、母の言葉に、
玄関にあった息子のバットを手にした自分がいた。
怖くなった。
すぐに役所に行き事情を説明。
ほどなく母はホームに入居。
子供の時は神童と言われ、美人で聡明な母。
遠のいていった。
認知症になり、私を自分の母親と思うようになり、やっと母と向き合うようになった。
亡くなったあとの部屋の片づけ。
両親の位牌、もろもろ整理がされていた。
あっぱれだわ。
自分の居場所を探して生きていた母。
「居場所」
大事だよね。
死んでから教わった、
生き方だった。
18歳5か月のモコ。
横浜から北海道に移り住んだモコ。
ある日、呼べば尻尾を振って出てきたモコが来ない。
?
「モコ!」
すみっこで動けないモコがいた。
どうした?
野球ボールほどに真っ赤に腫れあがった腫瘍。
気づかなった。
身体が熱い。
どうしよう。
まずは水分を取らせなくては。
注射器で強引に飲水させる。
「別れがやってきたかな・・・・」
でも、
できることはやろう。
昨日までとことこ散歩をしていたもモコ。
ごめん気づかなくて。
立ち上がれないモコ。
少しでも飲んで、食べて!
腫れものから膿が出てきた。
創部を洗って軟膏をつけ、少しづつ少しづつ腫瘍が小さくなってきた。
小さくなるにつれて、モコが動くようになった。
ピストンで飲んで食べていたモコが一人で飲んで食べるようになった。
動けなかったモコがとことこ歩いている。
すごいよモコ!
動き出したらすぐ外に出す。
オシッコをしてウンチもする。
まだモコは生きようとしている。
ありがとうモコ。
私でいいかい?
一緒に生きてゆこう。
我がまま言っていいんだよ。
病院に行けば、
抗生剤の点滴、入院。
狭いゲージに入れられる。
知らない人ばかり。
それって、
モコは?
元看護婦の真知子。
モコ、任せて!
とことこ歩くモコを見て、
やったぜ!
モコ、これでよかったのかな?
真知子と一緒でよかったのかな?
ババが入居しているグループホームから、嘔吐あり腸閉塞で近医に入院しましたと連絡あり。それから数時間後、苫小牧の病院に急きょ転院。行くとあっちこっちにチューブをつけ苦しむババの姿があった。
大腸癌からの腸閉塞。夜が明け、ババは旅立った。
数年前にこんなことを書いていた。
埼玉では教師の娘として厳しい躾をうけ、卒業後は銀座で働いていたこともあったば~ちゃん。
近所に住むじ~ちゃんと知り合い結婚。三男のじ~ちゃんは、ある日、役場で北海道開拓民募集の記事を見て移住を決心。
ば~ちゃんの親は大反対だった。〝嫌だったら連いて来なくてもいい、ひとりで行くから〟とじ~ちゃんの意思は固く、一家での北海道移住が決まった。
1953年4月1日、汽車で埼玉から青森まで、青森から青函連絡船(洞爺丸)に乗船し津軽海峡を渡り、函館で降船。函館から汽車で追分まで。
長い長い道のりを経て、4月2日、じ~ちゃん(32歳)ば~ちゃんは(27歳)4歳(義兄)と2歳(夫)の4人は、埼玉から他の4家族と共に追分に開拓民として入植した。
54才のババが書いた文章があった。
4月だというのに、肌をさす、痛いような風が身を突き抜けていった。
道らしき道はなく、木々の中をぬってたどり着いた、自分達がこれから開墾する土地を見たときの驚き。
〝ここです。〟と言われた場所は木にロープで囲いがしてあるだけの、見渡す限り未開の原生林。
話には聞いていたがここまでとは・・・・・
不安と恐怖に見舞われました。
4家族は町の労働会館で、自分達の住まいが出来るまで共に暮らしていました。
子供を連れ、毎日毎日、日が暮れるまで真っ黒になって、せめて自分達の家をと、必死で鋸で大木を切り倒し、一鍬一鍬、大きな根っこを掘り出し、開墾していきました。
やがてそれぞれの家族は自分の土地に落ち着きました。
出来上がった我が家。
それは左右から柱を斜めに立て屋根を作り、その上に、葦や笹などの草木で屋根を覆い周囲も草木で囲った拝み小屋(おがみごや)で、出入り口はムシロを2枚ぶら下げただけの粗末なものでした。もちろん電気なんかないランプ生活。
床は土のままで、野草や笹を敷き、さらにその上にムシロを敷き、台所は流し台と水桶と、食器などを置く粗末な戸棚があるだけでした。暖房は炉で大木の根を燃やし、煙突がないので、煙がいつも部屋に充満していました。
それが待ちに待った家族4人の住む家でした。
ついこの間までは親の元で身の不自由なく暮らしていたのに、なぜこのような思いをしているのか、思えば思うほど涙がこみ上げ、仕事も手につかず大きな木の下で泣いていました。
親の反対を押し切ってここに来た。でもほんとうに厳しい。もうだめだ!内地に帰りたい!
母の顔が何度も浮かび、〝お母さん~!〟大きな声で叫びました。
戻れない・・・・・
今更泣き言を言っても、もう遅い。頑張れ!と自分の心を叱りつけ、一日も早く安定した生活ができる様に、畑を作って家族が食べていけるようにと、来る日も来る日も開墾に明け暮れました。
割り当てられた土地は5町(この数字は記憶が定かではない。15000坪)、一畝(いっせ)(30坪)を開墾すると役場から測量に来て、お金がもらえるのだが、利子がつくのでお金がある人は一年後にまとめてもらっていた。
町までの買い物。
狭い道路(これも開拓の人達で作ったもの)、険しい坂道を登り降りし、側には川が流れ、大きな丸太が横たわりその上をやっと渡り、町に出るが、帰りが遅くなると何時熊が出るかそればかりが心配だった。
開墾には夫婦ふたりだけの労働では到底叶うものではなく、
親子馬を買った。よく働いてくれた。
せめて子供達には暖かいセーターをと綿羊も買い、
豚も買い、大きくして売ったもんだ。
鶏も買い、町に卵を売りに行った。
お金が掛かることばかりだったが、少しでも安定した生活をと必死で働いた。
開墾で疲れた足を休むことなく、あちらの草こちらの草とつなぎ替えて食べさせていたのに・・・・
ある日熊が出て綿羊2頭が食われてしまい、
ある年は大冷害に見舞われ一夜にして豆が全滅。
大事な働き手の馬も伝貧にかかって、親子共々連れて行かれてしまった。
どうして! なんでなの!
根気を失ってしまいそうでした。
今ここで弱音を吐いてはいられない。内地の親に逢わす顔がない。立派な農家にならなければと心に言い聞かせながら、つらいこと、悲しいこと、寂しいことをじっと我慢してこらえました
すべてを開墾するのにどれだけの年月を費やしただろうか。
開墾が終わると今度は土地代を払わなくてはいけない。
払うお金が無いと、土地を売って払う。
血の滲むような思いで必死で開墾した土地を・・・・
今、長男は開墾した土地で園芸農家を、次男はサラリーマンを辞め、メロン作りを継ぎ、北海道で生まれ育った娘も農家に嫁ぎ、子供達全員が農業にたずさわっている。
言葉では言い尽くせない辛苦の毎日。
今ではすっかり昔話になっている。
ボタンひとつで自由になる文化生活、なにかいたましく感じるのは私だけでしょうか。
※ば~ちゃんたちが乗ってきた「洞爺丸」は翌年9月26日、函館湾七重浜近くで横転転覆座礁し、1,331名の内、死者1,172名の大惨事となった。
北海道への移住が推奨されたのは本土での余剰人口の受け入れ先としてとも聞く。北海道は寒冷地、山地、火山灰地、低湿地、泥炭地などで農耕には不向きの土地。冬の寒さも厳しく、獣害もあり、農業経営に失敗し、冬の寒さに耐え切れずに夜逃げをする移住者も後を絶たず、北海道の開拓の歴史は極めて過酷なものだったようだ。今日、食の北海道と呼ばれるまでになったのは先人の苦労があったからこそ。労働力さえつぎ込めば開拓できるほど甘い状況では無かった。
辛苦をなめ尽くし、開拓に人生を賭けたじ~ちゃんとば~ちゃん。
ババが認知症になっていなかったら、本州の転勤に赴き定年を迎え、淡々とした生活が待っていただろう。
ババのおかげでメロン栽培をし、リサイクルショップを開き、摩訶不思議な思いもしない北海道での生活があった。
ババが北海道に導いてくれたんだね。
今、ジジとババはふたり寄り添い穏やかな時間を過ごしている事だろう。
ババ、ありがとう!
朝5時、心が浮き立つほどの真っ青な空。
空気が美味しい。
刈り取られた小麦、そろそろ収穫を待つじゃが芋、きゃべつ、豆、ビートなどなどが朝陽を浴びて気持ちよさそう。
大型犬の6歳アイリッシュセッターのチャチャは毛がなびくほどの疾走。速い! 家に戻るとハウスの前に座り、大好きなきゅうりを待つ。
15歳のモコは白内障とちょっと耳が遠いけど、うさぎのようにピョンピョン元気いっぱい。
中型犬の6歳風太は、4時半頃になると“早く外へ行こうよ~”と起こしにかかり、着替え始めると、ぴょんぴょん飛び跳ね嬉しさ爆発。
運動量がそれぞれ違うので、別々に散歩。
この子たちのおかげで、早朝の爽やかさを身体いっぱい感じ、早朝の運動をたくさんさせてもらい、
感謝、感謝。ありがとう。
どの子も散歩が大好き。
明日も今日のような空が見えるといいなあ~
17歳の誕生日目前、犬の「さくら」が死んで、もうじき4か月になろうとしている。
べそべそ泣くことはなくなったけど、
あの時、この時、日常のふとした場面でさくらとの思い出がよみがえり、涙がこぼれる。
べたべたする子ではなく、気がつくといつも側にいたさくら。
横浜から北海道に移り住み、知る人が誰もいない中、さくらがいつも一緒だった。
さくらに見守られていたんだね。
そう・・いつも・・
いつもいるものだと思っていた。
小さなさくら。
いつも凛とし、騒がず、媚びず、
さっちゃん、ありがとう。
逢いたいよ~~~
とっても逢いたいよ~