体験的データ解析小史
海保博之
懐古談をする年ではまだない。しかし、データ解析、コンピュータに関しては、すでに懐古談をしてもよい状況にはある。こ領域での新しい進歩に追いついて行けないという主観的感じを持つからである。
このことを痛切に実感したのは、61年3月に発売される「心理・教育データの解析法10講(応用偏)」(福村出版)の編集作業を通じてであった。そのなかの何講かは自分が一度は使ってみたいと常に思っていた手法であったので、原稿をいただくのを心待ちにしていた。しかし原稿を読んでみると、どうしてもわからない。著者との何度かのやりとりのうちに、結局は自分の方が″頭が悪い″ことに気づいた次第である。
「データ解析の手法についての知識は大学院時代のままでストップする」と言われている。専門家は別として、おもしろい手法があったら使ってみよう程度の研究者の場合には、確かに、この通りだと思う。
閑話休題。データ解析に触れたのは、今も昔も心理学専攻の学生の誰でもがそうであるように、心理統計の授業であった。昭和38年、東教大で故岩原先生のしごきにきたえられた。その時に使った教科書「心理と教育のための推計学」(日本文化科学社)がボロボロになってまだ本棚にある。いまの多くの学生諸君と同じように、統計が科学的推論の唯一の道具であるかの如く錯覚し、ともかくよく勉強した。
大学院修士課程に入ってすぐ、因子分析の勉強をしたのを覚えている。手回し計算機を脇に置いてサーストンの重因子法を解いた。同時に応用数学科が管理していたHIPAC(HITACか?忘れた)というコンピュータのところにかよい、なんとか因子分析のプログラムを作ろうと大変な苦労をした。
なぜ苦労したか。いい教科書がない、相談できる人がいない、数学的知識がない、の「ない、ない」づくしだったからである。こうした状況を救ってくれたのが、42年度に開講された故水野先生(統数研)の「多変量解析」の講義であった。まさに、頭にしみ込む講義であった。そのまま本として出版されても通用する内容であった。先生にもそのお気持ちがおありであったようだが、確かその年の秋頃かと思うが、芝先生の「相関分析法」(東大出版)が出版されてしまい、「遅かりし」ということになった。
43年4月から徳島大学に赴任した。紙テープ入力のTOSBACを使いまくった。その残骸をつい最近思い切ってすてた。もっぱら、水野先生のノートと芝先生の本に頼って、多変量解析の手法をパターン認識の実験データの解析に使った。
49年頃かと思うが、水野先生を通して、SPSSの移植のための科研のグループに入れていただいた。時々京大での講習会、研究会などに参加したが、まだそのすごさは実感できなかった。
50年に筑波に移った。TSSに驚かされ、パッケージプログラムに衝撃を受けた。SPSSにのめり込むまで時間はかからなかった。知ったかぶりで、全学の先生方対象の講習会の講師までするほどの熱の入れようだった。それに比例して、フォートランを使ってプログラムを書くことをほとんどしなくなってしまった。ここから力の衰えが始まった気がする。結果の解釈、そしてそれのみをわかり易く説明することがまわりから期待されるようになてきた。それに合わせているうちに確実に力が落ちてきた。
いまやSPSS、SASのいずれにも、ほとんどふれることのない日々を送っている。こんな人間が、データ解析の本を編み、そして61年度はなんと、8年ぶりのデータ解析の授業をする。さていかなることになるか。不安ながらも楽しみにしている。
昭和61年1月29日
海保博之
懐古談をする年ではまだない。しかし、データ解析、コンピュータに関しては、すでに懐古談をしてもよい状況にはある。こ領域での新しい進歩に追いついて行けないという主観的感じを持つからである。
このことを痛切に実感したのは、61年3月に発売される「心理・教育データの解析法10講(応用偏)」(福村出版)の編集作業を通じてであった。そのなかの何講かは自分が一度は使ってみたいと常に思っていた手法であったので、原稿をいただくのを心待ちにしていた。しかし原稿を読んでみると、どうしてもわからない。著者との何度かのやりとりのうちに、結局は自分の方が″頭が悪い″ことに気づいた次第である。
「データ解析の手法についての知識は大学院時代のままでストップする」と言われている。専門家は別として、おもしろい手法があったら使ってみよう程度の研究者の場合には、確かに、この通りだと思う。
閑話休題。データ解析に触れたのは、今も昔も心理学専攻の学生の誰でもがそうであるように、心理統計の授業であった。昭和38年、東教大で故岩原先生のしごきにきたえられた。その時に使った教科書「心理と教育のための推計学」(日本文化科学社)がボロボロになってまだ本棚にある。いまの多くの学生諸君と同じように、統計が科学的推論の唯一の道具であるかの如く錯覚し、ともかくよく勉強した。
大学院修士課程に入ってすぐ、因子分析の勉強をしたのを覚えている。手回し計算機を脇に置いてサーストンの重因子法を解いた。同時に応用数学科が管理していたHIPAC(HITACか?忘れた)というコンピュータのところにかよい、なんとか因子分析のプログラムを作ろうと大変な苦労をした。
なぜ苦労したか。いい教科書がない、相談できる人がいない、数学的知識がない、の「ない、ない」づくしだったからである。こうした状況を救ってくれたのが、42年度に開講された故水野先生(統数研)の「多変量解析」の講義であった。まさに、頭にしみ込む講義であった。そのまま本として出版されても通用する内容であった。先生にもそのお気持ちがおありであったようだが、確かその年の秋頃かと思うが、芝先生の「相関分析法」(東大出版)が出版されてしまい、「遅かりし」ということになった。
43年4月から徳島大学に赴任した。紙テープ入力のTOSBACを使いまくった。その残骸をつい最近思い切ってすてた。もっぱら、水野先生のノートと芝先生の本に頼って、多変量解析の手法をパターン認識の実験データの解析に使った。
49年頃かと思うが、水野先生を通して、SPSSの移植のための科研のグループに入れていただいた。時々京大での講習会、研究会などに参加したが、まだそのすごさは実感できなかった。
50年に筑波に移った。TSSに驚かされ、パッケージプログラムに衝撃を受けた。SPSSにのめり込むまで時間はかからなかった。知ったかぶりで、全学の先生方対象の講習会の講師までするほどの熱の入れようだった。それに比例して、フォートランを使ってプログラムを書くことをほとんどしなくなってしまった。ここから力の衰えが始まった気がする。結果の解釈、そしてそれのみをわかり易く説明することがまわりから期待されるようになてきた。それに合わせているうちに確実に力が落ちてきた。
いまやSPSS、SASのいずれにも、ほとんどふれることのない日々を送っている。こんな人間が、データ解析の本を編み、そして61年度はなんと、8年ぶりのデータ解析の授業をする。さていかなることになるか。不安ながらも楽しみにしている。
昭和61年1月29日