9 コミュニケーション可能性を持つことが人間の条件である
アリスは鏡の国で不思議な大人の双子、トイードルダムとトイードルディーに出会う。二人が木の下に立っている。そして二人はお互いに相手の首に手を回している。大の男二人がそうしているのは少し奇妙である。二人は同じ服装である。違う点はエリにある刺繍だけで一人はダム、もう一人はディーとある。これを見てアリスがつぶやく。「二人ともエリの後ろにはきっとトイードルって刺繍してあるんだわ」と。
アリスは二人があまりにじっと立っているので彼らが生きているのをすっかり忘れてしまう。エリの後ろ側に本当にトイードルって刺繍してあるか、ぐるっと後ろにまわって確かめようとした。彼女は好奇心に駆られて二人が生きている人間であることを一瞬忘れてしまったのである。もちろんこんなにじっと立っている二人も変ではあるが。 じっと立っていた風変わりな二人のうちの一人、トイードルダムが突然アリスに言う。「僕たちのことを蝋人形だと思うなら君は料金を払うべきだ。蝋人形はただで見せるために作られたんじゃない!絶対にない! 」と。さらにトイードルディーがアリスに言う。「僕たちのことを生きていると思うなら君は僕らに何かを話しかけるべきだ」と。アリスは「本当にごめんなさい」と言うのが精一杯だった。
さて前半の発言の謎:トイードルダムはなぜ“アリスが彼らを生きていない蝋人形だと考えている”と思ったのか?後半のトイードルディーの発言がこれに対する答えを示す。アリスが彼らに話しかけようとしなかったからである。ここから一般的に人間が話しかけるとき、その話しかけられる相手は生きた人間となると言えるだろう。コミュニケーション可能性を持つことが人間の条件である。人間が話しかけるとき蝋人形はもう一人の他の人間(他我)となる。逆に人間が話しかけることをやめれば相手は人間でなくただの蝋人形となる。そもそも人間とは何かといえば、相互のコミュニケーションの成立がそれぞれを相互に人間にするのである。こうして人間が出現すれば新たなコミュニケーションの成立によって次々といわば蝋人形が人間に代わっていく。
10 鏡の国の経験則の滑稽さ:出来事の組み合わせが日常的現実の経験則に反し一貫性の欠如を示す
トイードルダムが新しいガラガラを壊される。彼は犯人のトイードルディーに決闘を申し込む。彼らは古着やあらゆるガラクタ、長枕・毛布・じゅうたん・テーブルかけ・皿蓋・石炭バケツなどを持ってきてそれらを身につけ戦いの準備をする。「首が切り落とされないように長枕を首に巻かなくては!」とトイードルディーが言う。そして重々しく付け加える。「首が切り落とされることは戦いで人間に起こる最も深刻な出来事のひとつだ」と。 アリスは笑ってしまった。①新しいガラガラを壊されたからと決闘することは普通ありえない。また②決闘と言いながら身につけるのはガラクタで危険な武器などない。③危険な武器がないのに「首が切り落とされること」を真面目に心配している。これでは笑ってしまう。彼らはふざけているのか。そうではない。彼らは真面目であり真剣である。彼らは決闘を行うのであり、だから戦いの準備をし、首が切り落とされる心配をする。では何が滑稽なのか。出来事の組み合わせが①②③に見られるように日常的現実の経験則に反し、この意味で一貫性の欠如を示しているからである。彼らは日常的現実の経験則とは矛盾する鏡の世界の経験則の中に生きているのである。 要するに出来事の組み合わせが日常的現実の経験則に矛盾し一貫性を欠くのに、鏡の国に生きる二人は鏡の国の経験則にしたがうため、この矛盾を問題とせず平然とやり取りする。これが、日常的な現実のうちに生きていたアリスには、滑稽さを生み出す。
11 出来事の順序としての時間と存在を持続させることとしての時間
白の女王が言う。「鏡の国では『これから起こることを思い出すことができる』つまり『記憶が過去と未来の両方向に働く』」と。不思議な記憶である。この白の女王の発言に対しアリスが批評する。「私の記憶は一方向、過去の方向にだけ働きます」、また「まだ起こらないものを思い出すことはできません」と。さらに白の女王が言う。「『時間が過去に向かって進む』、だから『後戻りしながら生きる』」と。まるで時間が鏡にうつったようなものである。 しかし時間が鏡に写るだろうか。「後戻りしながら(=過去に向かって)生きる living backwards 」ことができるだろうか。つまり「時間が過去に向かって進む」ことがありうるのだろうか。 さて著者キャロルは時間の向きを出来事の順序と同一視する。確かに出来事の順序は鏡に逆に写る。キャロルは現実世界の出来事の順序が“時間が未来に向かって進む”順序と考える。これと逆の順序であれば“時間が過去に向かって進む”と彼は言う。キャロルが次のような例を示す。白の女王が突然叫びだす。「指から血が出てる。痛い、痛い、痛いー」と。アリスが「針を指にさしたのですか?」とたずねる。「まだ刺していない。しかし直に刺すだろう」と白の女王。これから針を指に刺すから今、血が出てるなんてありえないとアリスは笑ってしまう。「いつ針を刺すと思うんですか?」と彼女がたずねる。「ショールがほどけてもう一度留めようとするときだ!」と女王が言う。するとショールを留めていたブローチがはずれショールがほどける。ブローチをつかんで留めようとしたとき女王は針を指にさす。だが女王は痛いと叫ばない。「なぜ今、痛いと叫ばないんですか?」とアリスが質問する。「叫ぶことはもうすっかり済んでしまったから」と女王が答える。 現実の世界では、針を指に刺す→血が出て痛い→叫ぶの順、つまり過去・現在・未来の順に出来事が起こる。しかし鏡像の世界である「鏡の国」では未来・現在・過去の順に、つまり叫ぶ→血が出て痛い→針を指に刺すの順に出来事が起こるのである。
だがよく考えてみよう。出来事の順序が逆になったとしても時間の向きは変わらないのではないだろうか。これはちょうど映画のフィルムの逆回しと同じで、このとき出来事の順序が逆でも時間はいつもと同じように未来に進んでいる。出来事の順序が逆になることを「これから起こることを思い出す」、「時間が過去に向かって進む」、「後戻りしながら生きる」と呼ぶとしても、そしてそれが鏡の国で起こるとしても、それはあくまでも出来事の順序が逆になると言っているにすぎない。だから、次のように考えるべきである。現実世界でも架空世界「鏡の国」でも世界は存在し続けねばならないから、時間とは、存在を到来させるまたは存在を持続させる、つまり存在を可能にする事態のことである。今まだ実現していないものが実現していくという方向性が、つまり到来していないものが到来してくるという方向性が未来と呼ばれる。この意味で時間は未来にのみ進む。 かくて時間を出来事の順序と定義すれば鏡の国では「時間が過去に向かって進む」と言うことができる。キャロルはこの立場にたつ。しかし時間について、存在を到来させることあるいは存在を持続させることと定義すれば、時間は実現しつつあるもの・到来しつつあるものの方向につまり未来に向かって進むしかない。現実世界でも架空世界でも存在が到来し持続し続ける限り時間は未来に向かって進むのである。
12 鏡の国は現実世界の反映である :夢の灯心草論
アリスはボートに乗って漕いでいた。そして彼女は水際に生える灯心草を発見する。漕ぐのをやめるとボートが流れていき灯心草の間へと進む。アリスは袖をまくり上げ腕を水に入れ灯心草を水中で折り取る。彼女はキラキラと熱中した眼で香りのよい灯心草の束を次々掴み取る。ボートの中にアリスは嬉々として新たな宝物の灯心草を並べる。ところが実は灯心草はアリスが摘んだその瞬間から色褪せ香りと美しさを失い始めていた。しかし彼女は気づかない。摘んだその瞬間から灯心草はいわば滅んでいく。 キャロルが言う。現実の灯心草 real rushes だってほんのつかの間の命に過ぎない。ましてここにあるのは夢の灯心草 dream-rushes 。それらは雪のようにアリスの足元で溶けてしまうと。現実世界でさえ永遠でない。まして鏡の国はその現実の影つまり夢に過ぎない。だから夢の灯心草は摘んだその瞬間から滅んでいく。永遠の世界がいわば神のものなら現実世界は神の似姿、さらに鏡の国はその反映・影・夢に過ぎない。はかない世界。著者キャロルはあくまでもこの現実世界が至高の世界 paramount reality であると疑わない。日常的現実に住む者は誰でもそうである。至高の世界は夢世界と異なり他我が存在し他我と共有される世界である。夢世界が私的世界でありはかない世界であるのに対し、他我と共有される世界としての現実世界は強固な至高の世界である。
終わりに
私たちが生きる現実世界が持つ謎を、これまで架空世界「鏡の国」の構造を手がかりに明らかにしようとしてきた。そこでわかったことは次のことである。
◎ 夢世界がどんなに荒唐無稽・魅力的であっても、それが現実世界からまったく遮断されることはなく、両世界は同一の意識の二つの異なる世界としてのみ存在する。
◎夢と現実が同一の意識に属するとしても、それだけでは現実が夢に優越するか、現実と夢が対等であるかは未定のままである。
◎日常世界では現実が同時に夢であることはない。ところが鏡の国では現実が同時に夢である。(つまり鏡の国は赤の王が寝て夢見ている限り存在するという構造を持つ。このとき赤の王の身体が現実と夢との結節点、現実と夢とを連続させる装置である。)これはひとつの思考実験である。この場合、夢見る者は寝ている者としてしか存在し得ない。ここから次のことがわかる。日常世界では私がずっと寝て夢見ていることはなく、私は起きて活動している。したがって日常世界の現実が同時に夢であるという構造をもつことはない。
◎二人の人間が共通の環境の中にいない限りつまり彼らが直接出会っていない限り、コミュニケーションできない。コミュニケーションの基礎は直接の出会いにある。そして共通の環境にいないときコミュニケーションを可能にするために事物に名前がつけられたのである。
◎無規定な主観一般としての主体とは、相互に対等で、同じように心つまり主観を持ち、コミュニケーション可能な主体だということだけである。この主語についてそれ以上の規定つまり述語がない時、これが“名前がない”という事態である。つまり名前は無規定な主語に規定=述語を与えるものである。
◎人間であるための基礎的条件とは何か。相互のコミュニケーションの成立がそれぞれを相互に人間にすると言える。
◎出来事の組み合わせが日常的現実の経験則に反し、一貫性の欠如を示すと滑稽さが生まれる。
◎現実世界でも架空世界でも存在が到来し持続し続ける限り時間は未来に向かって進む。出来事の順序が逆になったとしても時間の向きは変わらない。時間は存在を到来させ可能にさせ持続させる事態として未来に向かってのみ進む。
◎夢世界が私的世界でありはかない世界であるのに対し、他我と共有される世界としての現実世界は強固な至高の世界である。
最後に、この小論の背景にある発想の指針について述べておきたい。私の発想は二人の思索者に触発された。(彼らの解釈として正しいかどうかは定かでないが。)その1人はドイツの偉大な現象学者E. フッサールである。彼は現実世界が謎に満ちドクサ(憶見)たる意味形象に覆われていることを明らかにした。もう1人は同じくドイツの現象学的社会学者A. シュッツである。彼は多元的現実論を展開し現実世界の意味構成を他我との関係つまり社会的関係に焦点をあて解明した。 私は今後もこのような発想のもとに現実世界の謎に驚きつつその謎を解明していきたいと思っている。そしておそらくこの謎の根源には私たちが「意識」を通してしか「世界」に住めないという謎があると思われる。この謎こそが私の導きの星(もしかしたら迷いの星)である。(2008/12/23)