鏡の国のアリス:短評

鏡の国のアリスの本を読みながら短評をする

なぜ「1人でいる」のか?:質問は“行為の動機”か“状況の規定の根拠”か?(GLASS6-7)

2008-12-27 23:18:54 | Weblog
さてアリスがハンプティ・ダンプティにたずねる。「なぜあなたは1人で戸外の塀の上に座っているんですか?」と。「なぜなら誰も俺と一緒にいないからだ」と彼が答える。そして「お前は俺が答えられないと思ったのか?ほかの質問はないのか?」と言う。
 
 PS:アリスはここで驚いたはずである。では彼女はどういう答をここで期待していたのだろうか。なぜ「戸外に」いて家の中にいないかの答、あるいはなぜ「塀の上に」いて普通に地面の上にいないのかの答えなどを彼女は考えていたろう。つまり彼の行為の動機を尋ねている。“戸外が気持ちがいいから”とか、“塀の上は眺めがいいから”とかの答えをアリスは予想していたはずである。あるいは、アリスはなぜ「1人で」いてほかの皆と一緒にいないことについてハンプティ・ダンプティにその行為の動機を尋ねたのかもしれない。そして“誰も友達がいないから”とか“1人でいるのが好きだから”というような彼の答えを期待していたのかもしれない。
 ところがハンプティ・ダンプティは「1人でいる」という行為の動機でなく、「1人でいる」という状況の規定の根拠について尋ねられたと思ったのである。“誰も一緒にいない”なら状況は「1人でいる」と規定される。もし“ほかに誰かと一緒にいる”ならこの状況は「みんなでいる」と規定される。かくて彼は状況の規定(「1人でいる」)に関して、その根拠(“誰も一緒にいない”)を答えたのである。

架空世界「鏡の国」と現実世界:『鏡の国のアリス』小論(2)

2008-12-25 22:15:51 | Weblog

9 コミュニケーション可能性を持つことが人間の条件である 

 アリスは鏡の国で不思議な大人の双子、トイードルダムとトイードルディーに出会う。二人が木の下に立っている。そして二人はお互いに相手の首に手を回している。大の男二人がそうしているのは少し奇妙である。二人は同じ服装である。違う点はエリにある刺繍だけで一人はダム、もう一人はディーとある。これを見てアリスがつぶやく。「二人ともエリの後ろにはきっとトイードルって刺繍してあるんだわ」と。

 アリスは二人があまりにじっと立っているので彼らが生きているのをすっかり忘れてしまう。エリの後ろ側に本当にトイードルって刺繍してあるか、ぐるっと後ろにまわって確かめようとした。彼女は好奇心に駆られて二人が生きている人間であることを一瞬忘れてしまったのである。もちろんこんなにじっと立っている二人も変ではあるが。 じっと立っていた風変わりな二人のうちの一人、トイードルダムが突然アリスに言う。「僕たちのことを蝋人形だと思うなら君は料金を払うべきだ。蝋人形はただで見せるために作られたんじゃない!絶対にない! 」と。さらにトイードルディーがアリスに言う。「僕たちのことを生きていると思うなら君は僕らに何かを話しかけるべきだ」と。アリスは「本当にごめんなさい」と言うのが精一杯だった。 

 さて前半の発言の謎:トイードルダムはなぜ“アリスが彼らを生きていない蝋人形だと考えている”と思ったのか?後半のトイードルディーの発言がこれに対する答えを示す。アリスが彼らに話しかけようとしなかったからである。ここから一般的に人間が話しかけるとき、その話しかけられる相手は生きた人間となると言えるだろう。コミュニケーション可能性を持つことが人間の条件である。人間が話しかけるとき蝋人形はもう一人の他の人間(他我)となる。逆に人間が話しかけることをやめれば相手は人間でなくただの蝋人形となる。そもそも人間とは何かといえば、相互のコミュニケーションの成立がそれぞれを相互に人間にするのである。こうして人間が出現すれば新たなコミュニケーションの成立によって次々といわば蝋人形が人間に代わっていく。

イラスト: トゥィードルダムとトゥィードルディー

10 鏡の国の経験則の滑稽さ:出来事の組み合わせが日常的現実の経験則に反し一貫性の欠如を示す

 トイードルダムが新しいガラガラを壊される。彼は犯人のトイードルディーに決闘を申し込む。彼らは古着やあらゆるガラクタ、長枕・毛布・じゅうたん・テーブルかけ・皿蓋・石炭バケツなどを持ってきてそれらを身につけ戦いの準備をする。「首が切り落とされないように長枕を首に巻かなくては!」とトイードルディーが言う。そして重々しく付け加える。「首が切り落とされることは戦いで人間に起こる最も深刻な出来事のひとつだ」と。 アリスは笑ってしまった。①新しいガラガラを壊されたからと決闘することは普通ありえない。また②決闘と言いながら身につけるのはガラクタで危険な武器などない。③危険な武器がないのに「首が切り落とされること」を真面目に心配している。これでは笑ってしまう。彼らはふざけているのか。そうではない。彼らは真面目であり真剣である。彼らは決闘を行うのであり、だから戦いの準備をし、首が切り落とされる心配をする。では何が滑稽なのか。出来事の組み合わせが①②③に見られるように日常的現実の経験則に反し、この意味で一貫性の欠如を示しているからである。彼らは日常的現実の経験則とは矛盾する鏡の世界の経験則の中に生きているのである。 要するに出来事の組み合わせが日常的現実の経験則に矛盾し一貫性を欠くのに、鏡の国に生きる二人は鏡の国の経験則にしたがうため、この矛盾を問題とせず平然とやり取りする。これが、日常的な現実のうちに生きていたアリスには、滑稽さを生み出す。

イラスト: 決闘のために完全装備

 11 出来事の順序としての時間と存在を持続させることとしての時間 

 白の女王が言う。「鏡の国では『これから起こることを思い出すことができる』つまり『記憶が過去と未来の両方向に働く』」と。不思議な記憶である。この白の女王の発言に対しアリスが批評する。「私の記憶は一方向、過去の方向にだけ働きます」、また「まだ起こらないものを思い出すことはできません」と。さらに白の女王が言う。「『時間が過去に向かって進む』、だから『後戻りしながら生きる』」と。まるで時間が鏡にうつったようなものである。 しかし時間が鏡に写るだろうか。「後戻りしながら(=過去に向かって)生きる living backwards 」ことができるだろうか。つまり「時間が過去に向かって進む」ことがありうるのだろうか。 さて著者キャロルは時間の向きを出来事の順序と同一視する。確かに出来事の順序は鏡に逆に写る。キャロルは現実世界の出来事の順序が“時間が未来に向かって進む”順序と考える。これと逆の順序であれば“時間が過去に向かって進む”と彼は言う。キャロルが次のような例を示す。白の女王が突然叫びだす。「指から血が出てる。痛い、痛い、痛いー」と。アリスが「針を指にさしたのですか?」とたずねる。「まだ刺していない。しかし直に刺すだろう」と白の女王。これから針を指に刺すから今、血が出てるなんてありえないとアリスは笑ってしまう。「いつ針を刺すと思うんですか?」と彼女がたずねる。「ショールがほどけてもう一度留めようとするときだ!」と女王が言う。するとショールを留めていたブローチがはずれショールがほどける。ブローチをつかんで留めようとしたとき女王は針を指にさす。だが女王は痛いと叫ばない。「なぜ今、痛いと叫ばないんですか?」とアリスが質問する。「叫ぶことはもうすっかり済んでしまったから」と女王が答える。 現実の世界では、針を指に刺す→血が出て痛い→叫ぶの順、つまり過去・現在・未来の順に出来事が起こる。しかし鏡像の世界である「鏡の国」では未来・現在・過去の順に、つまり叫ぶ→血が出て痛い→針を指に刺すの順に出来事が起こるのである。

 だがよく考えてみよう。出来事の順序が逆になったとしても時間の向きは変わらないのではないだろうか。これはちょうど映画のフィルムの逆回しと同じで、このとき出来事の順序が逆でも時間はいつもと同じように未来に進んでいる。出来事の順序が逆になることを「これから起こることを思い出す」、「時間が過去に向かって進む」、「後戻りしながら生きる」と呼ぶとしても、そしてそれが鏡の国で起こるとしても、それはあくまでも出来事の順序が逆になると言っているにすぎない。だから、次のように考えるべきである。現実世界でも架空世界「鏡の国」でも世界は存在し続けねばならないから、時間とは、存在を到来させるまたは存在を持続させる、つまり存在を可能にする事態のことである。今まだ実現していないものが実現していくという方向性が、つまり到来していないものが到来してくるという方向性が未来と呼ばれる。この意味で時間は未来にのみ進む。 かくて時間を出来事の順序と定義すれば鏡の国では「時間が過去に向かって進む」と言うことができる。キャロルはこの立場にたつ。しかし時間について、存在を到来させることあるいは存在を持続させることと定義すれば、時間は実現しつつあるもの・到来しつつあるものの方向につまり未来に向かって進むしかない。現実世界でも架空世界でも存在が到来し持続し続ける限り時間は未来に向かって進むのである。

イラスト: 再来週の伝令は牢屋の中

12 鏡の国は現実世界の反映である :夢の灯心草論 

 アリスはボートに乗って漕いでいた。そして彼女は水際に生える灯心草を発見する。漕ぐのをやめるとボートが流れていき灯心草の間へと進む。アリスは袖をまくり上げ腕を水に入れ灯心草を水中で折り取る。彼女はキラキラと熱中した眼で香りのよい灯心草の束を次々掴み取る。ボートの中にアリスは嬉々として新たな宝物の灯心草を並べる。ところが実は灯心草はアリスが摘んだその瞬間から色褪せ香りと美しさを失い始めていた。しかし彼女は気づかない。摘んだその瞬間から灯心草はいわば滅んでいく。 キャロルが言う。現実の灯心草 real rushes だってほんのつかの間の命に過ぎない。ましてここにあるのは夢の灯心草 dream-rushes 。それらは雪のようにアリスの足元で溶けてしまうと。現実世界でさえ永遠でない。まして鏡の国はその現実の影つまり夢に過ぎない。だから夢の灯心草は摘んだその瞬間から滅んでいく。永遠の世界がいわば神のものなら現実世界は神の似姿、さらに鏡の国はその反映・影・夢に過ぎない。はかない世界。著者キャロルはあくまでもこの現実世界が至高の世界 paramount reality であると疑わない。日常的現実に住む者は誰でもそうである。至高の世界は夢世界と異なり他我が存在し他我と共有される世界である。夢世界が私的世界でありはかない世界であるのに対し、他我と共有される世界としての現実世界は強固な至高の世界である。

イラスト: ヒツジとボート

終わりに 

 私たちが生きる現実世界が持つ謎を、これまで架空世界「鏡の国」の構造を手がかりに明らかにしようとしてきた。そこでわかったことは次のことである。 

 ◎ 夢世界がどんなに荒唐無稽・魅力的であっても、それが現実世界からまったく遮断されることはなく、両世界は同一の意識の二つの異なる世界としてのみ存在する。

 ◎夢と現実が同一の意識に属するとしても、それだけでは現実が夢に優越するか、現実と夢が対等であるかは未定のままである。 

 ◎日常世界では現実が同時に夢であることはない。ところが鏡の国では現実が同時に夢である。(つまり鏡の国は赤の王が寝て夢見ている限り存在するという構造を持つ。このとき赤の王の身体が現実と夢との結節点、現実と夢とを連続させる装置である。)これはひとつの思考実験である。この場合、夢見る者は寝ている者としてしか存在し得ない。ここから次のことがわかる。日常世界では私がずっと寝て夢見ていることはなく、私は起きて活動している。したがって日常世界の現実が同時に夢であるという構造をもつことはない。 

 ◎二人の人間が共通の環境の中にいない限りつまり彼らが直接出会っていない限り、コミュニケーションできない。コミュニケーションの基礎は直接の出会いにある。そして共通の環境にいないときコミュニケーションを可能にするために事物に名前がつけられたのである。 

 ◎無規定な主観一般としての主体とは、相互に対等で、同じように心つまり主観を持ち、コミュニケーション可能な主体だということだけである。この主語についてそれ以上の規定つまり述語がない時、これが“名前がない”という事態である。つまり名前は無規定な主語に規定=述語を与えるものである。 

 ◎人間であるための基礎的条件とは何か。相互のコミュニケーションの成立がそれぞれを相互に人間にすると言える。 

 ◎出来事の組み合わせが日常的現実の経験則に反し、一貫性の欠如を示すと滑稽さが生まれる。 

 ◎現実世界でも架空世界でも存在が到来し持続し続ける限り時間は未来に向かって進む。出来事の順序が逆になったとしても時間の向きは変わらない。時間は存在を到来させ可能にさせ持続させる事態として未来に向かってのみ進む。 

 ◎夢世界が私的世界でありはかない世界であるのに対し、他我と共有される世界としての現実世界は強固な至高の世界である。 

 最後に、この小論の背景にある発想の指針について述べておきたい。私の発想は二人の思索者に触発された。(彼らの解釈として正しいかどうかは定かでないが。)その1人はドイツの偉大な現象学者E. フッサールである。彼は現実世界が謎に満ちドクサ(憶見)たる意味形象に覆われていることを明らかにした。もう1人は同じくドイツの現象学的社会学者A. シュッツである。彼は多元的現実論を展開し現実世界の意味構成を他我との関係つまり社会的関係に焦点をあて解明した。 私は今後もこのような発想のもとに現実世界の謎に驚きつつその謎を解明していきたいと思っている。そしておそらくこの謎の根源には私たちが「意識」を通してしか「世界」に住めないという謎があると思われる。この謎こそが私の導きの星(もしかしたら迷いの星)である。(2008/12/23)


架空世界「鏡の国」と現実世界:『鏡の国のアリス』小論(1)

2008-12-25 22:12:38 | Weblog

1 はじめに 

 私たちが生きる現実世界がどのようなものかを私たちは知っていると当然思う。しかし実際にはそれは謎に満ちている。その謎を解く方法のひとつはおそらく現実世界を架空世界とを対照させることである。ルイス・キャロルは『不思議の国のアリス』と『鏡の国のアリス』の中で架空世界「不思議の国」と「鏡の国」を描く。それらは現実世界の反映であるが同時にそれと異なる特性を持つ非現実世界である。この小論では一方で二つの架空世界のうち「鏡の国」の構造を明らかにしつつ、他方でそれと対照される現実世界のふだん意識されない諸特性を明らかするつもりである。

 2 夢と現実は別のものであるが同一の意識に属する:アリスは夢の中でも現実でもアリスだが夢の世界の赤の女王は現実世界では子猫となるという問題 

  鏡の国は霧のようになった鏡を通り抜けてアリスが入った非現実世界であり彼女がみた夢の世界である。それはチェスの赤の女王の国である。そこには白の女王もいるがあまり力がない。鏡の国からアリスが現実世界に戻るときの状況は次のようである。アリスは赤の女王のひどいいたずらに激怒している。その時アリスは夢から覚めつつあったが、その事態に対応して赤の女王が小さくなってしまう。小さくなった赤の女王をアリスがつまんで思いきり前後に振る。赤の女王は無抵抗。アリスは振り続ける。やがて赤の女王は黒い子猫に変わってしまう。赤の女王の国は失われ、子猫が住む現実世界にアリスは戻る。夢の世界から現実に戻る。この場合アリスは夢の中でも現実でもアリスである。ところが夢の世界の赤の女王は現実世界では子猫となる。この違いは何を意味するのか。「あんなに素敵な夢の世界から私を引き離し目覚めさせたのはお前よ」とアリスが子猫を非難するが、この非難の意味は何か。アリスは勝手に夢から覚めたので子猫が目覚めさせたわけではない。しかし赤の女王が子猫に変化したのを見てアリスは夢の世界が現実の世界と別にあることを知る。現実の世界の子猫がアリスが赤の女王とともにいた夢の世界の存在を告げるのである。子猫の場合と違ってアリスは夢の中でも現実でもアリスである。これは何を意味するのか?両世界でアリスがアリスであり続けるのは、意識が同一で両世界にわたって連続するためだと考えることができよう。その同一の意識が異なる世界に区分されていることが、夢の世界の赤の女王が現実世界で子猫となることによって、告げ知らされる。私たちにとってあまりに当然のことだが現実世界と夢世界は別のものであるが、同時にそれらが同一の意識に属することが、ここであらためて確認される。

イラスト: 赤の女王をゆすって……

 3 現実は夢に優越するのか、現実と夢は対等であるのか? 

 アリスが黒い子猫のキティに話しかける。「夢の中で聞いた詩は全部お魚の詩だった。お前が私と一緒に鏡の国にいたらお前が喜んだはず。明日の朝は現実のお魚を上げるわ!」と。鏡の国にいたのは赤の女王であって子猫ではない。赤の女王は魚を好きなわけではない。だから彼女がお魚の詩を喜ぶこともない。夢と現実は断絶している。ところが夢から覚めるとき赤の女王が黒い子猫に変形するのをアリスが目撃した。夢と現実は連続しているとアリスは思う。(つまり両者は同一の意識に属する。)要するに夢と現実は連続していて断絶している。つまり夢と現実とは一つの家の異なる二つの部屋のようなものである。 しかも①アリスは現実を重視し、現実の部屋の子猫が夢の部屋で女王の着ぐるみを着て女王を演じる(=魚を好きなわけではない)と考える。ただ着ぐるみを着ているのは子猫だから、女王はお魚の詩を喜ぶはずとアリスは現実の世界の子猫に話しかける。 これに対し②現実を重視しない見方もある。夢と現実は連続しているが、現実の部屋で子猫の着ぐるみを着る或る者が夢の部屋では女王の着ぐるみを着るのである。この見方では子猫と女王は対等であり、女王の着ぐるみを着る或る者は女王を演じ、子猫の着ぐるみを着る或る者は子猫を演じる。つまり現実と夢が対等であり、子猫の属性(=魚が好き)が女王の属性(=魚を好きなわけではない)と重なることはあり得ない。女王がお魚の詩を喜ぶはずだとアリスが推定することはありえない。 夢と現実が同一の意識に属するとしても現実が夢に優越する(①)か、現実と夢が対等である(②)かは未定である。

イラスト: 結局ホントに子ネコでした

4 鏡の国の構造:赤の王様が鏡の国の全体を自身の夢として所有する 

 鏡の国にいる双子トイードルディーが「赤の王様は夢を今、見ている」と言う。そしてアリスに聞く。「彼は何の夢を見ていると思う?」と。「誰もそんなこと、わからないわよ」とアリスが答える。ところがトイードルディーは「君についての夢だよ!」と叫び、勝ち誇ったように手をたたく。現実の世界でならアリスの答えが正しい。しかし鏡の国ではトイードルディーの答えが正しい。どうしてか?鏡の国は現実世界と異なる固有の構造を持つからである。これについて以下、見ていこう。 トイードルディーが不思議な質問をアリスにする。「赤の王様が君ついての夢を見ることをやめたら、君はどこにいることになると思う?」と。これは実は鏡の国の構造にかかわる質問である。しかしそんなことをアリスは考えたりしないから当然にも「私が今いるところに決まってるでしょ!」と答える。日常的現実の世界ではアリスの答以外にありえない。 ところが「君は今いるところからいなくなるんだよ!」とトイードルディーが軽蔑して言う。「君はどこにもいなくなる。君は、赤の王様の夢の中の一事物にすぎないんだから 」と続ける。さらにトイードルダムが付け加える。「そこにいる赤の王様が目覚めて夢が終わったら君は消えてしまうんだ、パッと、蝋燭みたいに!」と。 なんと不思議な言明だろう。実は鏡の国は赤の王様の夢としてしか存在しないのである。これが鏡の国の構造である。赤の王様は鏡の国の全体を自身の夢として所有する。赤の王が眠りから覚めると、赤の王の夢の世界が同時に現実世界だから、鏡の国の一切が消える。赤の王が寝ている限りで鏡の国は存在可能である。 鏡の国は赤の王様の夢としてしか存在しないという構造にアリスが反抗する。「私が消えるはずないわ!」と怒って彼女が叫ぶ。「それに私が赤の王様の夢の中の一事物にすぎないとしたら、あなたたちは何なの、知りたいわ」と彼女が続ける。「右に同じさ Ditto 」とトイードルダム。「右に同じ、右に同じ! Ditto, ditto! 」とトイードルディー。ところがトイードルディーがあまり大きな声で叫ぶので、アリスはつい言ってしまう。「静かに!そんなに大声をあげたら、赤の王様を起してしまう」と。アリスは自分が赤の王様の夢の一部かもしれないと心配し始めたのである。 日常の現実では夢が同時に現実であることはない。ところが鏡の国では夢が同時に現実であるという。これはひとつの思考実験である。

イラスト: 夢見る赤の王さま

5 鏡の国はアリスの夢か?赤の王の夢か? 

 アリスが黒い子猫に尋ねる。「夢を見ていたのはいったい誰だったのかしら?」と。「私の夢かしら?」それとも「私の夢の中の赤の王が見た夢かしら?」とアリスは迷う。なぜなら「私が赤の王の夢の中にいたのも本当なのだから」とアリス。 ①アリスの現実世界からすれば“夢を見ていたのはアリスである”。アリスの現実世界には赤の王がいないから夢見ていたのが赤の王であることはない。 ②しかし鏡の国の現実からすると“夢見ていたのは赤の王であって”アリスではない。寝ていて夢見ているのは赤の王でアリスは起きている。赤の王様が鏡の国の全体を自身の夢として所有する、これが鏡の国の構造である。要するにアリスの現実世界からすると鏡の国はアリスの夢であるが、その鏡の国は赤の王が寝て夢見ている限り存在するという構造を持つのである。

 6 鏡の国では現実と夢が同一の世界として完結する 

 ここで鏡の国の構造についてもう少し分析しよう。鏡の国では、赤の王様が鏡の国の全体を自身の夢として所有する。さてここで現実の中にいる者が、同時に彼が見ている夢の中に存在するとはどういうことか? すでに述べたように、これは一つの思考実験である。今、鏡の国の現実の中にいる赤の王を人Aとし、赤の王の夢の世界の中にいる赤の王を人aと表記しよう。鏡の国では現実の人Aが見た夢の世界が同時に再び現実である。鏡の国の現実は人Aを介して夢の国となり、この夢の国の中にいる人aが現実の人Aと同一である。つまり鏡の国では現実と夢が同一の世界として完結する。現実と夢が連続する。鏡の国の現実の赤の王が見ている夢の世界が、鏡の国の現実と連続する。もう少し詳しく見てみよう。現実の人Aと夢の世界の人aが同一とはどういうことか?それは現実の中の人Aの身体と彼が見た夢の世界における人aの身体が同一ということである。赤の王の身体(それは人Aの身体であるとともに人aの身体である)こそが現実と夢との結節点、現実と夢とを連続させる装置である。 PS:『鏡の国のアリス』の別の章では赤の王が起きて様々に活躍しているから、この議論は4章、10-12章のみに限る。

7 名前を持たない現実:名前がないと①代名詞しか使えない、つまり②直接の出会いの時しかコミュニケーションできない 

 鏡の国には「事物に名前がない森」という不思議な場所がある。ここにアリスはたどり着き森の中に入ろうとして言う。「さあ入るわ、入るわ、エーと何のなかに入るんだっけ?」と。彼女は名前を思い出せない。また木の下でアリスが言う。「エーとここは何の下だっけ?わからないけど、ともかくこれの下!」と。彼女は名前がわからず、木について「これ」と言うのみである。 さてこの場合、名前がないとはどういうことを意味するのか考えてみよう。名前がなくても①これ、あれ、それなどの代名詞は使える。これは言い換えれば②二人の人間が共通の環境の中にいれば、つまり彼らが直接出会っていれば、かれらはコミュニケーション可能だということである。彼らは“これは面白い”・“それはかわいい”・“あれは美しい”などと言うことできる。つまり共通の環境の中の事物を“これ”・“それ”・“あれ”などと指し示し、それについて述語を与えることができる。したがって彼らはコミュニケーション可能である。 では事物に名前がなく、①これ、あれ、それなどの代名詞しか使えず、しかも②二人の人間が共通の環境の中にいなかったら、彼らはコミュニケーションできるだろうか。“今、私は森の中にいます。私は木の下にいます。”と手紙に書きたいのに森・木という名前がなかったら何と書いたらよいのか。“今、私はそれの中にいます。私はこれの下にいます。”と書いても相手には何の中にいるのか、何の下にいるのかわからない。 要するに事物に名前がないときは、①これ、あれ、それなどの代名詞が使えたとしても、②二人の人間が共通の環境の中にいない限りつまり彼らが直接出会っていない限り、コミュニケーションできない。逆に言えば事物に名前がなくても直接の出会いがあればコミュニケーション可能である。コミュニケーションの基礎は直接の出会いにある。そして共通の環境にいないときコミュニケーションを可能にするために事物に名前がつけられたのである。

8 無規定な主語に規定=述語を与えるものが“名前”

 直接の出会いでないとき、つまり共通の環境にいないとき、コミュニケーションを可能にするため、事物に名前がつけられたと前節では述べた。ここでは名前の欠如は主語の欠如として語られている。しかし名前にはもうひとつの機能がある。名前は無規定な主語に規定=述語を与えるものである。この場合、名前の欠如は述語=規定の欠如である。これについて、以下、見てみよう。 「事物に名前がない森」にいるアリスのところにそのとき小鹿がやってくる。小鹿はアリスをこわがらない。アリスも小鹿に抱きつきなでる。小鹿がたずねる。「君は自分のことを何て呼ぶの?」と。名前を聞かれてアリスは「私だって名前を知りたいのに」と思い悲しそうに答える。「なんでもないものなの Nothing 」と。今度はアリスが尋ねる。「君は自分を何て呼ぶの?それがわかれば私も名前を思い出せるはず!」と。小鹿は「ここでは思い出せないよ。ここをでたら教えてあげる」と答える。二人は親しく森の中を歩く。 森を出ると小鹿は突然「僕は小鹿だ!」と名前を思い出す。続いて「君は人間の子供だ!」とアリスが何者かわかり怯えて逃げ去る。アリスは仲良くしていた友達を突然失い泣きたくなる。「でも私も名前を思い出した。アリスだわ。よかった。もう忘れない!」と言う。 さてこの場面から著者キャロルが“名前がない”事態をいかなるものと考えていたか考察しよう。ここでは名前がないことは主語の欠如ではない。主語は与えられている。一方にこの自分、他方にこの小鹿。ただし、ここでお互いにわかっているのはそれぞれが相互に対等で、同じように心つまり主観を持ち、コミュニケーション可能な主体だということだけである。この主語についてそれ以上の規定つまり述語はない。これが“名前がない”という事態である。だからアリスは名前を失った自分について「なんでもないものなの Nothing 」と説明したのである。“名前がない”という事態はここでは述語=規定の欠如である。 無規定な主語に対し、規定つまり述語を与えるものが“名前”である。事物に名前がない森から抜け出したとき、各々の主体は「小鹿」・「人間の子供」という名前を思い出し自分・相手に対し規定を与える。「小鹿」という名前には人間に危害を加えられるという規定が含まれ、「人間の子供」という名前には小鹿に危害を加えるという規定が含まれる。小鹿は驚いて逃げアリスはそれを認めるしかない。 しかしアリス自身に関して言えば彼女は「名前がわかってよかったわ。アリス、アリス、もう二度と忘れないわ!」と言う。アリスという名前が思い出されたことによってこれに含まれる一切の規定が回復された。無規定な主観一般としての主体から、規定された個別的な主観を持つ主体としてのアリスに今や戻ったのである。「なんでもないもの Nothing 」だったアリスが、彼女を彼女とする本来の一切の規定を持つ個別的、具体的なアリスになったのである。(続く)(2008/12/23)

イラスト: 子鹿とアリス


“立派で品がいい卵型”と“どうでもいい形”:2つの一般名詞の意味(GLASS6-6)

2008-12-23 12:55:59 | Weblog
「名前は(※一般名詞でる限り)意味を持たなければならない。」とハンプティ・ダンプティが言う。
 PS1:確かに名前は一般名詞である限り意味を持つ。「私は阿闍梨(アジャリ)である。」といったらその意味は“師匠”ということである。ハンプティ・ダンプティという名前が固有名詞でなく一般名詞であるなら、それはその人を指示するだけでなく一般的な意味を持つ。だからハンプティ・ダンプティは次のように言う。

「私の名前(ハンプティ・ダンプティ)は私がこの形であるということ the shape that I am を意味する。しかもその形が立派で品がいい形であること a good handsome shape it is を意味する。」また彼は付け加える。「アリスという名前に関して言えばお前はどんな形だっていいことになる」と。
 PS2:ハンプティ・ダンプティという名前は一般名詞としては“立派で品がいい卵型”という意味を持つ。山田という名前が一般名詞としては“山の中の田んぼ”という意味を持つようなものである。アリスという名前は一般名詞としては“どうでもいい形”という意味である。


アリスという名前:固有名詞か一般名詞か?(GLASS6-5)

2008-12-22 00:44:24 | Weblog
さてこれまで決してアリスの方を向かずにものを言っていたハンプティ・ダンプティが初めてアリスに向かって話しかける。「お前の名前と仕事を私に言いなさい」と。「名前はアリスです」と彼女が答える。するとハンプティ・ダンプティが「それはどういう意味だ?」 What does it mean? とたずねる。これに対してアリスが「名前は何か意味を持たないといけないんですか?」 Must a name mean somethng? と質問した。

 PS:この会話は何を言っているのだろうか。名前をアリスは固有名詞として考えている。固有名詞はひとつの個物のみを指し示す。指し示されているのがどれかor誰かがわかればよい。アリスという名前は目の前の自分を指し示しておりそれはハンプティ・ダンプティもわかっているはずとアリスは思う。だから「名前は何か意味を持たないといけないんですか?」 と彼女は訝しく思って質問する。
 ところがハンプティ・ダンプティは名前を一般名詞として考えている。例えば、ものについて「その名前は独鈷杵(トッコショ)です」と誰かが答えたら独鈷杵の意味がわからないハンプティ・ダンプティが「それはどういう意味だ?」 とたずねてもおかしくない。相手は「それは密教における“魔”を刺し殺す法具を意味します」と説明するだろう。また例えばある人について誰かが「名前は阿闍梨(アジャリ)です」と答えたら阿闍梨の意味がわからない者が「それはどういう意味だ?」 とたずねても当然だろう。相手は「それは弟子たちの規範となり法を教授する師匠を意味します」と答えるだろう。これと同じようにハンプティ・ダンプティは「アリス」という名前を固有名詞でなく一般名詞と考えたので「それはどういう意味だ?」とたずねたのである。



会話の条件:互いに相手に向かって言うこと、木に向かって言ってはいけない(GLASS6-4)

2008-12-14 22:11:14 | Weblog
 アリスとハンプティ・ダンプティとの言葉のやり取りは「全然、会話じゃないわ」とアリスは思った。その理由は以下の通り。①ハンプティ・ダンプティが彼女に向かって何か言ったことは全くない。②実際、彼の最後の発言は明らかに木に向かってなされている。
 かくてアリスは静かに1人つぶやく。
  ハンプティ・ダンプティが座わる壁の上 Humpty Dumpty sat on a wall.
  ハンプティ・ダンプティが落ちる身の上   Humpty Dumpty had a great fall.
  王のすべての馬、王のすべての兵隊   
                All the KIng's horses and all the king's men
  彼らに不可能なのはハンプティ・ダンプティの再びの壁の上の存在  
                Couldn't put Humpty Dumpty in his place again.

 PS:脚韻は①“の上”/“の上”、wall/fall   ②“隊”/“在”、men/again

“卵である”ことと“卵のように見える”ことは異なる(GLASS6-3)

2008-12-13 15:35:26 | Weblog
 ハンプティ・ダンプティについてアリスが「卵みたい!」と言う。すると彼が応じる。ただしアリスの方を見ない。「卵であると呼ばれるなんて to be called an egg とても腹が立つ!」と。「卵であるといったのでなく卵のように見える looked like an egg と言っただけです」とアリスが説明する。そしてお世辞を言ったことにしようとアリスが「卵の中にはとてもかわいいのもあるわ」と付け加える。ハンプティ・ダンプティが言う。またもアリスから眼をそらしている。「人間の中には赤ん坊のように分別がないものがいる!」と。

巨大な顔・トルコ人座りの縫いぐるみ人形:ハンプティ・ダンプティ(GLASS6-2)

2008-12-13 10:23:35 | Weblog
 ハンプティ・ダンプティの顔は巨大で、名前を顔中に100回だって書けるくらいだわとアリスは思う。彼は脚をトルコ人のように組んで高い壁の上に危なっかしく座っている。しかし眼はアリスと反対の方に向けられ彼女に全然注意を払わない。きっと縫いぐるみ人形だわとアリスは思う。
 
 PS:アリスには縫いぐるみ人形に見えただけであって実際は人形でないと後でわかる。

卵は木に変わらずにハンプティ・ダンプティになった(GLASS6-1)

2008-12-13 09:48:45 | Weblog
お店の棚にある卵の方にアリスは近づいていく。他のものは近づくとみな木に変化したのに卵だけは違う。それはどんどん大きくなり、そしてどんどん人間のようになっていった。2,3メートルまで近づくと卵に眼・鼻・口があるとわかり、さらに近づくとそれはハンプティ・ダンプティだとアリスにはっきりわかった。まるで「彼の名前が顔中に書かれているくらい」はっきりだった。
(PS:「GLASS6-1」は、「Lewis Carroll, THROUGH THE LOOKING GLASS, 6 Humpty Dumpty に関するコメント1」の意味である。以下の項目でも、同様。)


近づくにつれ卵は遠くに行く&近づくと何でも木になる:不思議なお店(GLASS5-32)

2008-12-11 23:10:22 | Weblog
  店の端のほうはとても暗くてアリスはテーブルや椅子の間を手探りで進み買った卵を取ろうとする。卵はアリスが近づくにつれ遠ざかるように見える。また店内には木が生えていて小川さえある。「本当に変な店!こんなお店見たことがないわ!」とアリスが言う。ここでは不思議なことに何もかもが彼女が近づくと木になってしまう。そこでアリスはあの買った卵も近づいたら木になるだろうと思う。

PS:ところが卵は近づいても木にならないとやがてわかる。それが次章の主題である。