鏡の国のアリス:短評

鏡の国のアリスの本を読みながら短評をする

ハンプティ・ダンプティは言葉に給料を払う(GLASS6-23)

2009-04-26 10:42:32 | Weblog
 ハンプティ・ダンプティによる言葉の擬人化が続く。彼によれば「おれが言葉を使うとき、言葉はおれが選んだぴったりそのとおりの意味だけを持つ」(GLASS6-19)。つまり言葉は意味を担うという仕事をさせられるわけである。かくて彼が言う。「土曜の夜には言葉たちが私の周りに集まってくるのをお前は見るといい。」と。彼は偉そうに頭を左右に振る。「一週間分の給料を彼らはもらいにくるのだ!」

 PS:しかし言葉に給料を払うとは、言葉の主人たるハンプティ・ダンプティもご苦労様である。アリスは当然あきれているのだが、彼女は好奇心が強いのでついその先まで興味を持ってしまう。

 アリスは「何を彼は給料としてあげるんだろう?」と思う。しかし敢えて彼に尋ねる勇気はなかった。

 PS:私たちは今、給料 their wages というとお金を考えるが、確かにお金でなくてもいいわけで、アリスが興味を持つのは当然だろう。実際、白の女王はアリスを侍女として雇うとき「給金は1日2ペンス、そしてエヴリ・アザー・デイ(※1日おき)に every other day ジャム」と条件を出した。(GLASS5-7)


たくさんの意味を持たされたくさんの仕事をさせられるとき言葉は特別手当をもらう(GLASS6-22)

2009-04-26 00:25:03 | Weblog
ハンプティ・ダンプティは「言葉はおれが選んだぴったりそのとおりの意味だけを持つ」と考えるから彼が「一つの言葉にひどくたくさんの意味を持たせる」のは仕方がない。ところがそれに加えて彼が言う。「このように一つの言葉にたくさんの仕事をさせるときは特別手当をいつも出している!」と。

 PS:何と不思議な言明だろう。人工言語の立場、つまり言葉は単なる音声であっていかなる任意の意味をも持たせうるとする立場のハンプティ・ダンプティであるが、彼が突然、言葉を擬人化するのである。言葉がたくさんの意味を担わされるとき、つまりたくさんの仕事をさせられるとき、言葉は特別手当をもらうと彼はいう。この擬人化にアリスはあきれて次のごとく反応する。

 「おお!」とアリスは言うが、あまりに当惑してしまってそれ以上は何も言えなかった。



貫入不可能性:この話がうんざりならお前は次に何をするか言うべきだ (GLASS6-21)

2009-04-21 00:19:32 | Weblog
 ハンプティ・ダンプティが発言の最後に言う。「貫入不可能性 impenetrability ! こう私は言いたいね!」と。「すいませんけど、それはどういう意味ですか?」とアリスがたずねる。彼は「今度はもののわかった子供のようにお前はたずねるな!」と上機嫌に言う。そして説明する。「“貫入不可能性”とは、(①)この話はもううんざりだということ、また(②)お前が次に何をするつもりか言ってもらいたいということを、意味する。(③)そもそもお前は次に何かすることなしにずっとここにいるとは思っていないだろうから!」と。アリスは「一つの言葉にひどくたくさんの意味を持たせるんですね!」と考え深げに彼に向かって言う。

 PS1:ハンプティ・ダンプティにとっては、言葉に対し任意に自分が選んだ意味を与えることができるから(①②③)、アリスが彼に対し「一つの言葉にひどくたくさんの意味を持たせる」と驚くのも当然である。

 PS2 : 次に何かすることなしにずっとここにいるということはありえない。お前はきっと次に何かをするはずだ。だからそれが何かを言え、とのハンプティ・ダンプティの議論は、不思議に論理的で興味深い。



形容詞は主語に何もさせないが、動詞は主語に何かをさせる(GLASS6-20)

2009-04-18 14:30:09 | Weblog
言葉に対し任意に自分が選んだ意味を与えることができるとハンプティ・ダンプティは言う。しかしアリスは日常世界の住人だから言葉は歴史的に形成された意味だけをもつ。彼女はこんがらがってしまい言葉がない。しばらくしてハンプティ・ダンプティが話し始める。「言葉には気性 temper がある。ある言葉どもは、なによりも動詞は、気位が高い( the proudest )。形容詞はくみしやすいが、動詞はどうにもならない。だが私にかかれば言葉すべてを思いのままにできる」と。

PS:ハンプティ・ダンプティが私にかかれば言葉すべてを思いのままにできると言うのは彼の立場からして当然だろう。だがここでわからないのは言葉に気性があるとはどういうことかである。そしてなぜ動詞は気位が高いのか、またなぜ形容詞はくみしやすいかである。動詞も形容詞も主語に規定を与える。ただし形容詞は主語の属性を示すだけであり主語に何かをさせることはできない。例えばその花が赤い、その犬が大きいと言うとき、花・犬は何かをさせられるわけではない。これに対し動詞は主語に何かをさせる。例えば“その花が咲く”、“その犬が走る”など(自動詞)。また例えば“その花が人を和ませる”、“その犬が肉を食べる”など(他動詞)。このように形容詞は主語に何もさせないが、動詞は主語に何かをさせる。だから動詞は気性が頑固で激しく、そのかぎりで気位が高いといえるだろう。


言葉にいかなる意味を与えるかは、言葉を使う者つまり言葉を使用する主人が決める(GLASS6-19)

2009-04-13 00:10:23 | Weblog

 誕生日プレゼントをもらえる日は1日しかないということが今や確認され、これをアリスも認めた。するとハンプティ・ダンプティが言う。「ここにお前にとっての光栄がある。 There's glory for you! 」アリスはよくわからないので、「あなたが“光栄” glory という言葉で何を意味しているのか私にわかりません」と言う。彼が軽蔑して笑う。そして言う。「当然にもお前にはわかりっこない。私がお前に意味を言うまでは!」と。さらに付け加える。「私が“光栄”という言葉で意味するのは“うまい決着の議論” a nice knock-down argument ということだ」と。「でも“光栄”は“うまい決着の議論”という意味ではありません」とアリスが反論する。 

 PS1:アリスの反論は当然である。日常的には言葉の意味は多少の幅があるにしてもすでに定まっている。だから“光栄”は“光栄”が担う意味をすでに持っている。ところがハンプティ・ダンプティは違う立場に立つ。

 だから彼が次のように言う。  「おれが言葉を使うとき、言葉はおれが選んだぴったりそのとおりの意味だけを持つ」と彼が言う。「それ以上でも以下でもない」と。 

 PS2:確かに音声であるかぎりの言葉とその意味とは無関係でよい。特に人工の言語であれば、これはいつでも可能である。だがアリスは人工の言語の世界に住むわけではない。日常世界では音声である言語とその意味とはすでに歴史的に形成された強固な関係を持っている。ハンプティ・ダンプティは人工の言語の立場に立つ。アリスは日常世界の言語の立場に立ち、そうした言語を使用している。だから二人は次のように言う。  

 「問題はあなたが言葉に、あなたが好むようないろいろな意味を持たせてよいのか、持たせることができるのかというです」とアリスの発言。「問題はお前と私のどちらが主人かと言うことだ。それがすべてだ!」とハンプティ・ダンプティ。 

 PS3:ここで注意すべきはハンプティ・ダンプティの立場は日常世界の言語の立場をも包括していることである。確かに日常世界では音声である言語とその意味とは歴史的に形成された強固な関係を持つが、このことは、音声であるかぎりの言葉とその意味とは原理的に無関係でよいということを否定しない。アリスは日常世界の住人として、言葉に対し歴史的に形成された意味を与えると決める。しかしハンプティ・ダンプティは言葉と意味は無関係との原理的な立場に立ち、その上で人工の言語に明白なように、言葉に対し任意に自分が選んだ意味を与える。彼は日常的な言葉と意味の歴史的関係を拒否する。それは彼のいわば人工言語の場合と異なるからである。ハンプティ・ダンプティの立場からすれば、アリスが使う日常の言語も、一種の人工言語(ただし歴史的に形成された人工言語)なのである。言葉に、いかなる意味を与えるかは、原理的に、言葉を使う者つまり言葉を使用する主人、ここではアリスまたはハンプティ・ダンプティのいずれかが決めるのである。

イラスト: ハンプティ・ダンプティ