鏡の国のアリス:短評

鏡の国のアリスの本を読みながら短評をする

想像は弱い現実でなく日常の現実と並ぶ強固な現実(GLASS1-5)

2011-02-27 20:46:42 | Weblog

 今やアリスが黒い子猫に言う。「誰かのつもりごっこしよう! Let's pretend! お前が赤の女王よ!キティ!」と。そして続ける。「お前がきちんと座って腕を組めばお前は赤の女王そっくりよ!」と。

 PS1:ここで問題は猫が腕を組めるのかということ。漫画などの中でなく現実の猫に腕を組ませるつもりのアリスは大胆で日常的でない。

 子猫の前にまねるべきモデルとしてチェスの赤の女王をアリスが置く。しかしうまく行かなかった。理由はアリスが言うには子猫が腕を組むつもりがなかったから。

 PS2:現実の猫に腕を組ませることに関し、アリスはどこまで本気なのか。たぶん全部、本気。アリスは想像力が豊富で想像の現実と日常の現実が、現実性の強度において同一である。

 アリスが子猫を罰するために、子猫をつまみ上げ鏡の前に連れて行く。まず子猫のふてくされた顔を子猫自身に見せるため。さらにアリスが言う。「お前が直ぐにいい子にならないなら、鏡の家 Looking-glass House の中にお前を投込んででしまうわよ!」と。

 PS3:アリスの想像の現実がさらに展開し、鏡の家 Looking-glass House が登場。ここで気をつけよう。アリスにとって想像は現実性の強度において日常の現実と同一。想像は弱い現実でなく、日常の現実と並ぶ現実。鏡の家は日常の現実と同様の強固な現実である。


劇の現実と日常的現実が切断されていたらアリスは一人でなく二人である(GLASS1-4)

2011-02-21 21:27:51 | Weblog

 アリスがついに結論を出す。「お姉さんが一人の役しかできないって言うのなら、お姉さんは一人の役だけやってください。ほかの全部の役は私が一人でやるわ!」と。

 PS1:姉にとって劇の現実は日常的現実の一部だから、彼女は劇中の一人の人物しか演じられない。しかしアリスにとって劇の現実は日常的現実と全く別物である。劇の中で(日常的現実に属す)アリスは見えない。だからアリスは劇中で何人分の役でも演じる。

 かつてアリスは年配の乳母をひどく驚かした。アリスが突然、乳母の耳元で叫んだ。「乳母!誰かのつもりごっこしよう! Let's pretend! 私はお腹がすいたハイエナ、そしてお前は骨!」と。
 
 PS2:なぜ乳母は驚いたのか?①突然、耳元で叫ばれたから。②骨を演じるとはどういうことか乳母には分からなかったから。③骨を演じたらお腹がすいたハイエナに食べられてしまうから。

 PS3:驚いた理由③の考察。乳母にとって劇の現実は、普段と異なるルールに従うとはいえ日常的現実の一部である。骨としてハイエナに食べられるという虚構の恐怖が、日常的現実と虚構が切断されていないため、日常的現実に生きる乳母の心に反射する。彼女は日常的現実のうちで恐怖する。

 PS4:アリスが乳母の立場だったとしても、アリスだったら何も恐怖しない。劇の現実の中でハイエナに食べられたところで、それは日常的現実から完全に切断されている。両現実は無関係。日常的現実のうちに生きるアリスの心に何の影響も与えない。

 PS5:追加考察。アリスの立場に立ったとき、劇の現実と日常的現実のどちらにも登場するアリスは果たして同一なのだろうか?二つの現実が完全に切断されていたらアリスは同一でなく、全く別の二人となる。アリスは一人でなく、二人のアリスになる。


劇の(虚構の)現実からは日常的現実が見えない:アリスの立場(GLASS1-3)

2011-02-13 19:46:39 | Weblog

 アリスは黒い子猫に話しかけ続ける。そして子猫に言う。「誰かのつもりごっこしよう! Let's pretend! 」と。これはアリスが好きな遊び、そして口癖。数日前もアリスは姉とこんなやり取りをした。「王様たち・女王様たちごっこをしよう!」とアリス。ところが正確さを好む姉が反論した。「自分たちは2人しかいないからそれより多い人のつもりごっこはできない!」と。

 PS1:アリスと姉とどちらが正しいのか?姉にとって現実はひとつ、この日常的現実だけである。劇の1つの場面は日常的現実に属し、そこに2人の登場人物がいる。とすれば同じく日常的現実に属す2人の役者が必要。姉はそのように想定。
 
 PS2:ところがアリスは劇の現実を虚構の現実と考え、日常的現実と区別する。劇の現実の登場人物と、日常的現実の役者は、別々の現実に属する。
 つまり劇の(虚構の)現実からは日常的現実が見えない。
 劇の現実に多数の人が登場する。日常的現実に属す役者2人は次々と、別の現実、つまり劇の現実の様々の登場人物を演じることができる。なぜなら劇の現実からは日常的現実に属す役者2人の動きは何も見えないから。

 PS3:ただし劇の現実はラジオドラマ(or映画)の現実と異なる。劇の現実は確かに日常的現実と異なる虚構の別の現実とは言え、日常的現実の制約を受ける。ラジオドラマ(or映画)の現実のように役者2人で自由に多数の人を演じることはできない。
 劇の現実の1つの場面は2人の登場人物に2人の役者を必要とする。(これは姉の言う通り。)
 劇の現実は日常的現実の制約を受けるから、姉が言うように1つの場面は2人の役者では2人の登場人物しか臨場できない。
 劇の1つの場面で2人の役者が多数の登場人物を演じるには、2人の登場人物が臨場しているとき他の者は全員隠れていなければならない。
 
 PS4:劇の現実が、日常的現実の制約を受けていても、場面が多数なら2人の役者で多くの人を演じることができる。(これはアリスの言う通り。)


「一度に at once 」の2重の意味:論理的等価性と現実的同時性(GLASS1-2)

2011-02-06 20:34:15 | Weblog

 アリスは自分がたくさん悪さをしていたので罰を受けたらどうしようと思う。最初、牢屋にいれられるかと心配する。「それとも、それぞれの罰が食事抜きだったらどうしよう。」とさらに彼女は不安になる。
 
 PS1:アリスは牢屋に入れられるか、食事を抜かれるかと、罰について予想するからここまでは普通。

 「罰を受ける日が来たら一度に at once 50回分の食事をしないで済まさないといけないんだわ!」とアリスが言う。

 PS2:アリスのこの言明から、彼女はすでに50回の悪さをしたことが分かる。
 しかし、よく考えてみよう。「一度に50回分の食事をしない」とはどういうことだろうか?不思議な言明。50回の悪さに対し50の罰という推理は正しい。罰は食事を抜かれること。とすれば「50回の悪さ」(事態A)は「50回分の食事をしないこと」(事態B)と論理的に等価である。論理的等価性は現実の中では一瞬のうちに発生するのでアリスは「一度に at once 」と表現した。
 ところが「一度に at once 」の語には現実的同時性の意味がある。彼女の思考は「一度に at once 」の意味に関し論理的等価性から現実的同時性に移行する。

 「いいわ、そんなのヘイチャラだわ!一度に50回分食べるより50回分食べないほうが、ずっといいわ!」とアリスが結論を出す。

 PS3:「一度に at once 」が現実的同時性を意味する場合、「一度に50回分食べる」こと、つまり一度に50食、食べることは現実的に発生可能な出来事である。
 しかし「一度に50回分食べない」ことは、論理的等価性としては可能だが、現実的には発生不可能である。現実的同時性において「一度に at once 」可能なのは、「1回分の食事を食べない」ことである。「50回分食べない」ことが現実的に発生するには「一度に at once 」では無理で、「50度 at fifty times 」が必要である。
 アリスは現実の子である。彼女は現実の世界に生きる。「一度に50回分食べない」ことが現実にあり得ないから現実の罰にならないと彼女は気づく。
 アリスは最初、「50回の悪さ」(事態A)の論理的等価である「50回分食べない」こと(事態B)という罰が、意味的に一瞬のうちに=「一度に at once 」発生して恐怖した。
 ところが彼女は「一度に at once 」を現実的同時性と解釈すれば、「一度に50回分食べない」ことは現実に起こりえない=無意味である=現実の罰として起こりえないと直感した。
 だからアリスは言った、「一度に50回分食べない」としたって「そんなのヘイチャラだわ!」と。
 もし罰が「一度に50回分食べる」のだとしたらこれは現実的に可能だから、そして一度に50食も食べるのは大変な苦痛だから、「一度に50回分食べる罰より、(現実にはあり得ない)50回分食べないという罰のほうが、ずっといいわ!」と彼女がチャッカリと結論を出した。