鏡の国のアリス:短評

鏡の国のアリスの本を読みながら短評をする

間投詞‘fiddle-de-dee’は、叫びであり、言葉でない(GLASS9-23)

2013-03-19 12:36:09 | Weblog
 赤の女王がアリスに質問する。「お前は言葉を知っているのか? Fiddle-de-dee フィデルディディー(バカバカシイ)はフランス語で何と言うか?」アリスが真面目に答える。「 Fiddle-de-dee は英語ではありません。」すると赤の女王が言う。「それが英語であるとは言ってない」と。

 コメント1:アリスは、なぜ「 Fiddle-de-dee は英語ではありません。」と言ったのか?理由は、それが一種の間投詞だから。間投詞は、叫びだから、言葉でない。従って、それは、当然、英語でもない。アリスの返答は、正しい。

 コメント2:しかし赤の女王の返答も、正しい。赤の女王は、「Fiddle-de-dee」とだけ言ったのであって、「それが英語であるとは言ってない」。かくてアリスも正しいし、赤の女王も正しい。さあ、アリスはどうするのか?

 アリスは今や、困難から抜け出す方法を見つけた。「あなたが‘fiddle-de-dee’が何語か私に教えてくれたら、それをフランス語で何と言うか答えます」と提案。

 コメント3:アリスが言うように、‘fiddle-de-dee’は間投詞で、叫びであり、言葉でないから、何語と言うことが出来ない。これは正しい。だから赤の女王も、‘fiddle-de-dee’が何語か、答えられるわけがない。この限りで、アリスが論理で赤の女王に勝つ。(しかし他方で、「それが英語であるとは言ってない」と言う赤の女王が、論理的にアリスに勝つことも、アリスは実は知っている。だがアリスは、その点を無視。赤の女王を、見くびった。)

 かくて、アリスはその時、勝ち誇って、その提案を叫んだ。

 コメント4:このアリスの提案に対し、女王の答えが実に見事である。女王は見くびられない。これについては、次節参照!

 ※旧稿
アリスが論理で赤の女王に勝つ?(GLASS9-23)
 赤の女王がアリスに質問する。「お前は言葉を知っているのか? Fiddle-de-dee フィデルディディー(バカバカシイ)はフランス語で何と言うか?」アリスが真面目に答える。「 Fiddle-de-dee は英語ではありません。」すると赤の女王が言う。「それが英語であるとは言ってない」と。これは確かにその通り。このままではアリスの負け。しかしアリスはこの困難な状況を切り抜ける。「それが何語か教えてくれたらフランス語で何と言うか答えます」と提案。アリスが論理で赤の女王に勝ったように見える。

「不思議の国」では人間が、人間身体を持つこともあれば、動物身体を持つこともある (WONDERLAND1‐1)

2013-03-09 15:10:37 | Weblog

 アリスはすっかり飽きてくる。土手の上で、姉と並んで座っているが、何もすることがない。一、二度、姉が読む本を覗くが、絵も会話もない。「そんな本が何の役に立つの?絵も会話もないなんて!」とアリスが思う。
 そこでアリスは、自分の頭のなかで考える。(ただし考えるには、出来る限りの努力が必要。なぜなら、とても暑い日でアリスは眠いし、ボーっとなっていたから。)デイジーの花輪を作れば楽しいから、立ち上がって、デイジーを摘むだけの手間をかけてもいいかなと考える。その時、突然、ピンクの目をした白兎が、アリスのそばを走り過ぎる。

 ◎コメント1:物語の最後になれば、アリスの「不思議の国」での冒険が、すべて夢だったと分かる。では、夢の始まりは一体いつか?「白兎が、アリスのそばを走り過ぎる」ことは、まだ夢=「不思議の国」の現実に、属さない。それは、日常的現実に属す。だから次のように続く。

 「白兎が現れたって、別に特別なことではないわ」と、アリスは思う。

 ◎コメント2:しかし日常的現実は、ここまでで、終わる。突然、アリスは「不思議の国」の現実(=夢)へと跳躍(leap)する。(※跳躍 leap の概念については、Alfred Schütz 1899-1959 参照。) かくて次のように続く。

 兎が、独り言を言うのを聞いても、アリスは変だと思わない。兎は「大変だ!大変だ!遅刻してしまう!」とつぶやく。

 ◎コメント3:日常的現実では、兎が話したら、変だと思う。ところがアリスは、変だと思わない。つまり、彼女はすでに「不思議の国」の現実(=夢)のうちに居る。かくて著者キャロルが注をつける。

 アリスが、後になって(=夢から醒めて)考えてみれば、「兎がものを言う」ことを、変と思うはずだったのに、その時は、彼女には、すべてが全く自然に思えたのでした。

 ◎コメント4:「不思議の国」が、なぜ不思議かといえば、日常的現実と異なり、そこでは兎がしゃべるからである。アリスが兎と会話する。(ただし兎は、英語をしゃべる。)

 ◎「不思議の国」が不思議な理由(1):日常的現実と異なり、兎がしゃべる。「兎がしゃべる」、一般に、「動物がしゃべる」とは、どういうことか。人間であるとは、相互にコミュニケーション可能な存在者であると定義できる。とすれば、アリスと兎がしゃべるとは、アリスと兎、一般に動物は、相互に人間であるということである。かくて「不思議の国」には、兎、一般に動物という外見的身体をもった人間が多数、存在する。「不思議の国」とは、確かに、人間と動物がしゃべる世界であるが、これは言い換えれば、外見的身体が多様な、つまり人間身体、あるいは動物身体をもつ人間たちからなる世界ということである。日常的現実では、人間は人間身体しか持たないが、「不思議の国」では、人間が、人間身体を持つこともあれば、動物身体を持つこともある。これが、「不思議の国」が不思議な理由(1)である。

 ◎なお、「WONDERLAND 1-1」は、「Lewis Carroll, ALICE’S ADVENTURES IN WONDERLAND, 1 DOWN THE RABBIT HOLEに関する項目1」の意味である。以下の項目でも、同様。