ヨナ書4章1~11節
怒りの正当性と神の愛
大きな魚の中で、悔い改めたヨナに、神様からのご命令が再び臨みました。神様に赦された者は次の瞬間から神様に遣わされる者になるということでしょうか。「さあ、大いなる都ニネベに行って、わたしがお前に語る言葉を告げよ」。そして、ヨナは、今度は、そのご命令どおり、直ちにニネベに行きました。ニネベの町は、一回りするのに三日を要したといいます。ヨナは、その町に入りまして、一日分の距離を歩きながら「あと、40日すれば、ニネベの都は滅びる」と叫んで、歩いたのでした。
ところが、また、一日分の距離しか歩いていないのに、つまりニネベをくまなく巡り歩かないうちに、ニネベの人々は、神様を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまとった、とあります。それは、彼らの悔い改めの気持ちを表している行為でした。
そして、そのことはニネベの王の耳にも入ることとなり、王自らが、布告を出して、ニネベに断食を命じました。その内容は「人も家畜も、牛、羊に至るまで、何一つ食物を口にしてはならない。食べることも、水を飲むことも禁ずる。人も家畜も粗布をまとい、ひたすら神に祈願せよ。おのおの悪の道を離れ、その手から不法を捨てよ。そうすれば神が思い直されて激しい怒りを静め、我々は滅びを免れるかもしれない」というものでした。ヨナの預言を受けて、ニネベの人々も王をはじめとする為政者たちも、皆、悔い改めの気持ちを表し、実際、悪から離れるということを致しました。
このことは普通では考えられないことでした。なぜなら、ニネベは、北イスラエルとは敵対しているアッシリアの都でしたし、力関係で言えば、はるかにアッシリアが強大でした。滅ぼそうと思えばいつでもできそうな弱小の敵国の預言者がやってきて、自分たちの国の所業についてあれこれと述べ、滅びを宣告されても「はい」と聞けるわけがありません。笑い飛ばされたり、捕えられたりするのが、落ちではないでしょうか。
もし、耳を傾けるとすれば、今、そのときに、彼らがかなり厳しい状況や災いに見舞われているとかいうならともかくです。そうでなく、事柄が何の支障もなく運んでいるときに、果たして、耳を傾けるでしょうか。そういった意味では、彼らが、ここに記述されているように、素直に悔い改めたのであれば、それは、実にすばらしいことでした。
神様は、彼らの行い、悪の道を離れたことをご覧になり、思いなおされ、宣告した災いをくだすのをやめられた、とありますから、やはり、彼らの悔い改めの思いが、素直であり本物であったのでしょう。
ヨナ書というのは、イスラエル人にとっては異邦人と考えられる人々が、むしろよい人々として、扱われています。異邦人であった船乗りたちは、ヨナの出来事をとおして、真の神様がどなたかを知るにいたり、その神様を信じるようになりました。また、イスラエルと敵対しているアッシリアの異邦人たちが、真の神様の裁きを恐れ、悔い改めることになります。そういった意味では、ヨナ書というのは、救いがイスラエル民族に限らず、世界に広く行き渡ることが先取りされています。
さて、ヨナは、どのような気持ちで、ニネベの人々に神様から託された言葉を告げていたのでしょうか。ヨナは、大きな魚の中にいたときに、神様に背いたことを悔い改めました。そして、救いの確信を得て、神様に心から従おうと決めました。
そして、再び神様から託されたご命令は、最初彼が、受けたことよりも、さらに具体的なものでした。「あと40日すれば、ニネベは滅びる」というものでした。ヨナは、彼らの悔い改めを願って、一生懸命叫んで回ったのでしょうか。3章で終わっておれば、そういう可能性も否めません。ところが、4章の1節2節を読みますときに、ヨナの本心がわかるのです。ヨナは、むしろ、神様が、ほんとうにそうしてくれたらうれしいといった思い、お前たちは滅びるのだ、自分たちをこんなに苦しめ、ひどいことをして、悪の限りを尽くしてきたようなお前たちだから、それも致し方ないな、そういった気持ちだったように思えます。
ニネベの人々が助かったのを見たヨナの気持ちが次のように書かれています。「ヨナにとって、このことは大いに不満であり、彼は怒った。彼は、主に訴えた。ああ主よ、わたしがまだ国いましたとき、言ったではありませんか。だから、わたしは先にタルシシュに向かって逃げたのです。わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。主よ、どうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです」。
ヨナが、逃げたのは、ニネベの人々を恐れてのことではなかったということです。ヨナは、ニネベの人々が、助かることを願わなかったということでした。神様に言われたとおりにすれば、彼らが悔い改めて、その姿を神様が見た場合、憐れみ深い神様だから、彼らをきっと赦すだろう、それは願わない、とんでもないことだ、アッシリアは、自分たちイスラエルを脅かし、抑圧している者たちだ、決して、赦されてはならない者たちだ、そうヨナは、考えていたのでしょう。そして、彼は、怒りのあまり「主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです」と、言いました。
そのヨナに対し、神様は「お前は怒るが、それは正しいことか」と促されました。どうして、怒るのか、その怒りは正しいか、との問いです。怒ることがすべて悪いというのではないでしょう。その怒りが正当なものであるかどうか、そのことが問われるべきでしょう。ここでのヨナの怒りは、正当なものだったでしょうか。ニネベの人々は、神様の目からすれば罪にまみれていました。
しかし、罪の指摘を受けて、彼らは、素直にすぐさま悔い改めたのです。それで、神様は、彼らを赦され、くだそうとされていた災いを思いとどまられました。それは、むしろ、喜ぶべきことでした。神様に背いていた者たちが、神様のみもとに戻ってきたのです。ヨナは、神様と一緒になって、そのことを喜ぶことができたら、どんなにかよかったでしょうか。あの放蕩息子の物語の兄のように、弟が、自分の過ちに気づき、父親のもとに戻ってきたとき、兄もまた、その弟を赦すことができませんでした。
それどころか、赦した父親に腹を立てたのでした。しかし、アッシリアの人々は、これまで自分たちを苦しめてきて、今もなお、自分たちにとって脅威となっている存在をどうして、赦すことができるでしょうか。それは、裁きを受け、取り除かれるべきだと考えるのは、間違っているのでしょうか。そうならないように願っていたのに、やはり、自分が神様の務めを果したばかりに、彼らは救われることになってしまった。「生きているよりも、死ぬ方がましです」、何となく、ヨナの気持ちもわからないわけではありません。
しかし、神様はそのようなヨナに「お前は怒るが、それは正しいことか」と問われるのです。もちろん、その問いかけは、それは正しくないということが言外に含まれています。
ヨナは、このあと、神様の真意が理解できたかというと、どうもそうではなかったようです。ヨナは、都を出て東の方に座り込み、小屋を建てて、日差しをさけ、その中に座って、都に何が起こるかを見届けようとしたとあります。つまり、神様がまた思いを変えられて、災いをくだすかもしれないと、まだ期待をしていたということです。
ところが、そのようなヨナに神様は、ある出来事を与え、神様の御心を示そうとされました。それは、強い日差しの中、ニネベの成り行きを見届けようとしていたヨナのために、神様は、とうごまの木を生えさせます。それは、またたくまに成長して、ヨナよりも丈が高くなり、頭の上に陰をつくるほどになりました。それは、一夜のできごとでしたから、ヨナは、神様の恵みによるものだと思ったでしょうし、それにより快的にすごせたのでした。
「ヨナの不満は消え、このとうごまの木を大いに喜んだ」とあります。ところが、次の日の明け方頃には、神様は虫をそのとうごまにつかせ、あっという間にそれは枯れてしまいました。日が昇ると、焼け付くような東風が吹き、太陽も容赦なくヨナに照りつけたので、ヨナは、ぐったりとなり、死ぬことを願ったといいます。つまり、ヨナには、神様のなさる意味がわからなかったのです。
神様は、自分をもてあそんでいるだけではないのか、神様は、自分に対して、いじわるをしているのではないのか、そう思ったのではないでしょうか。彼はまたもや「生きているよりも、死ぬ方がましです」と言ったとあります。それに対して、神様は、「お前はとうごまのことで怒るが、それは正しいことか」と言われました。
さすがにことのときは、ヨナは、「もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです」と言い返しております。いわゆる口答えをしております。それに対して、神様は「お前は、自分で労することもなく、育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、12万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから」。
ヨナに、お前が、とうごまの木を惜しんだように、わたしもこれらの人々の命を惜しむ、というわけです。ただし、ヨナにとってとうごまは、自分が丹精込めて育てた植物ではありませんでしたが、神様にとって人間は、愛をもって創造された一人ひとりです。
神様に対して、怒りのあまり死にたいくらいです、などと言える人は、めったにいるものではありません。ヨナという人物は、かなり激しい人です。情熱的な人です。彼は、北イスラエルを愛していました。他の誰よりも、自分は北イスラエルを愛しているといった自負を持っていたかもしれません。怒りに早い人は、性格というものがあるでしょうが、自分の正しさをあまり疑わない人が多いように思われます。それだけ、自信があるのでしょう。
ただ、それもまた、年齢と共に、あの姦淫の現場で捕らえられた女性をイエス様が赦されたとき、罪のない者から石を投げるがよい、と言われたら、年長者から始まって、一人そしてまた一人といなくなり、ついには、誰もいなくなったように、年齢を経ると自分の罪の気づきが重ねられてゆき、謙遜にさせられていくのでしょう。
ところが、ヨナは、若く、北イスラエルを愛していると強い自負があったことは間違いありません。けれども、神様に対してはどうだったのか、そのことを吟味する必要があったと言えます。まず、ヨナは、神様に対して忠実ではありませんでした。神様からのご命令が最初にくだったとき、彼は、神様に従おうとはしなかったのです。それは、自分を是として、神様のことを信頼しようとしないことでした。
しかし、そのような神様に背いたヨナを神様は、お見捨てになることはありませんでした。彼に、救いの手を差し伸べられ、反省の機会を与え、もう一度、神様の御用をなす者として、用いられたのです。ヨナは、まず、己自身がそのように、神様に背いて罪を犯し、そうでありながら赦された存在であることに気づいていなかったようです。
ニネベの人々が、悔い改めて、神様に赦されたのと、同じように、自分もまた、神様のご命令に背いたにもかかわらず、それを赦された同じ罪人でした。それには気がつかなかったようです。それはまた、とうごまの木の例とも同じでした。ヨナは、自分が植え、育てたとうごまでもないにもかかわらず、それが枯れたとき、そのとうごまのことをたいへん惜しく思ったのです。
私たちは、自分のその怒りに正当性があるかどうか、吟味することを教えられます。多くの場合、怒りの正当性というのはないのではありませんか。その怒りの原因は、自分の誇りを傷つけられたとか、考え方の相違、立場の違い、利害関係、その他にもたくさんのものがあるでしょう。
しかし、私たちが、ほんとうに怒りを発さねばならないのは、罪に対してです。それは、基本的には、神様の背きに対する罪です。ですから、その神様がお赦しになられたことを私たちがなおも赦すことができないというのは、どういうことでしょうか。それで、神様は、ヨナに、ご自身のお気持ちを理解させようと、とうごまの出来事を起こされたのですが、それに先立ち、すでに、ヨナ自身が神様に赦された存在だったということに気づくべきだったのです。
怒るヨナに神様は、とてもねんごろに接せられています。ヨナを思う神様の愛で溢れています。それは、「お前は怒るが、それは正しいことか」といった、優しくたしなめられる神様の言葉にそれは読み取れますし、わざわざ神様のお気持ちを理解させようとして、なさったとうごまの出来事によってもわかるのです。そうでなくても、神様は、ご自身に背いたヨナを赦され、用いられたのです。
私たちは己の怒りの正当性を吟味する必要がありますし、私もまた赦されて生きる者の一人であることをおぼえているべきなのであります。神様の愛は、悔い改める者にはあまねく及びます。しかし、キリストは、私たちがまだ神様に敵対していたときに、つまり、まだ悔い改めるということがないなかで、十字架におつきになられたということを考えるとき、神様のさらに深い愛を思わないではおれません。
神様は敵をも赦されます。ご自分の独り子を、私たちの救いのために惜しまずお与えくださいました。そのことを思うとき、私たちは、己の怒りがどこから来ているのか、それは、赦すことのできないほどのものなのか、考えざるをえません。神様が私たちを愛してくださったように、私たちも互いに愛し合うように、私たちは、救い主イエス様から教えられている存在です。
平良師
怒りの正当性と神の愛
大きな魚の中で、悔い改めたヨナに、神様からのご命令が再び臨みました。神様に赦された者は次の瞬間から神様に遣わされる者になるということでしょうか。「さあ、大いなる都ニネベに行って、わたしがお前に語る言葉を告げよ」。そして、ヨナは、今度は、そのご命令どおり、直ちにニネベに行きました。ニネベの町は、一回りするのに三日を要したといいます。ヨナは、その町に入りまして、一日分の距離を歩きながら「あと、40日すれば、ニネベの都は滅びる」と叫んで、歩いたのでした。
ところが、また、一日分の距離しか歩いていないのに、つまりニネベをくまなく巡り歩かないうちに、ニネベの人々は、神様を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまとった、とあります。それは、彼らの悔い改めの気持ちを表している行為でした。
そして、そのことはニネベの王の耳にも入ることとなり、王自らが、布告を出して、ニネベに断食を命じました。その内容は「人も家畜も、牛、羊に至るまで、何一つ食物を口にしてはならない。食べることも、水を飲むことも禁ずる。人も家畜も粗布をまとい、ひたすら神に祈願せよ。おのおの悪の道を離れ、その手から不法を捨てよ。そうすれば神が思い直されて激しい怒りを静め、我々は滅びを免れるかもしれない」というものでした。ヨナの預言を受けて、ニネベの人々も王をはじめとする為政者たちも、皆、悔い改めの気持ちを表し、実際、悪から離れるということを致しました。
このことは普通では考えられないことでした。なぜなら、ニネベは、北イスラエルとは敵対しているアッシリアの都でしたし、力関係で言えば、はるかにアッシリアが強大でした。滅ぼそうと思えばいつでもできそうな弱小の敵国の預言者がやってきて、自分たちの国の所業についてあれこれと述べ、滅びを宣告されても「はい」と聞けるわけがありません。笑い飛ばされたり、捕えられたりするのが、落ちではないでしょうか。
もし、耳を傾けるとすれば、今、そのときに、彼らがかなり厳しい状況や災いに見舞われているとかいうならともかくです。そうでなく、事柄が何の支障もなく運んでいるときに、果たして、耳を傾けるでしょうか。そういった意味では、彼らが、ここに記述されているように、素直に悔い改めたのであれば、それは、実にすばらしいことでした。
神様は、彼らの行い、悪の道を離れたことをご覧になり、思いなおされ、宣告した災いをくだすのをやめられた、とありますから、やはり、彼らの悔い改めの思いが、素直であり本物であったのでしょう。
ヨナ書というのは、イスラエル人にとっては異邦人と考えられる人々が、むしろよい人々として、扱われています。異邦人であった船乗りたちは、ヨナの出来事をとおして、真の神様がどなたかを知るにいたり、その神様を信じるようになりました。また、イスラエルと敵対しているアッシリアの異邦人たちが、真の神様の裁きを恐れ、悔い改めることになります。そういった意味では、ヨナ書というのは、救いがイスラエル民族に限らず、世界に広く行き渡ることが先取りされています。
さて、ヨナは、どのような気持ちで、ニネベの人々に神様から託された言葉を告げていたのでしょうか。ヨナは、大きな魚の中にいたときに、神様に背いたことを悔い改めました。そして、救いの確信を得て、神様に心から従おうと決めました。
そして、再び神様から託されたご命令は、最初彼が、受けたことよりも、さらに具体的なものでした。「あと40日すれば、ニネベは滅びる」というものでした。ヨナは、彼らの悔い改めを願って、一生懸命叫んで回ったのでしょうか。3章で終わっておれば、そういう可能性も否めません。ところが、4章の1節2節を読みますときに、ヨナの本心がわかるのです。ヨナは、むしろ、神様が、ほんとうにそうしてくれたらうれしいといった思い、お前たちは滅びるのだ、自分たちをこんなに苦しめ、ひどいことをして、悪の限りを尽くしてきたようなお前たちだから、それも致し方ないな、そういった気持ちだったように思えます。
ニネベの人々が助かったのを見たヨナの気持ちが次のように書かれています。「ヨナにとって、このことは大いに不満であり、彼は怒った。彼は、主に訴えた。ああ主よ、わたしがまだ国いましたとき、言ったではありませんか。だから、わたしは先にタルシシュに向かって逃げたのです。わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。主よ、どうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです」。
ヨナが、逃げたのは、ニネベの人々を恐れてのことではなかったということです。ヨナは、ニネベの人々が、助かることを願わなかったということでした。神様に言われたとおりにすれば、彼らが悔い改めて、その姿を神様が見た場合、憐れみ深い神様だから、彼らをきっと赦すだろう、それは願わない、とんでもないことだ、アッシリアは、自分たちイスラエルを脅かし、抑圧している者たちだ、決して、赦されてはならない者たちだ、そうヨナは、考えていたのでしょう。そして、彼は、怒りのあまり「主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです」と、言いました。
そのヨナに対し、神様は「お前は怒るが、それは正しいことか」と促されました。どうして、怒るのか、その怒りは正しいか、との問いです。怒ることがすべて悪いというのではないでしょう。その怒りが正当なものであるかどうか、そのことが問われるべきでしょう。ここでのヨナの怒りは、正当なものだったでしょうか。ニネベの人々は、神様の目からすれば罪にまみれていました。
しかし、罪の指摘を受けて、彼らは、素直にすぐさま悔い改めたのです。それで、神様は、彼らを赦され、くだそうとされていた災いを思いとどまられました。それは、むしろ、喜ぶべきことでした。神様に背いていた者たちが、神様のみもとに戻ってきたのです。ヨナは、神様と一緒になって、そのことを喜ぶことができたら、どんなにかよかったでしょうか。あの放蕩息子の物語の兄のように、弟が、自分の過ちに気づき、父親のもとに戻ってきたとき、兄もまた、その弟を赦すことができませんでした。
それどころか、赦した父親に腹を立てたのでした。しかし、アッシリアの人々は、これまで自分たちを苦しめてきて、今もなお、自分たちにとって脅威となっている存在をどうして、赦すことができるでしょうか。それは、裁きを受け、取り除かれるべきだと考えるのは、間違っているのでしょうか。そうならないように願っていたのに、やはり、自分が神様の務めを果したばかりに、彼らは救われることになってしまった。「生きているよりも、死ぬ方がましです」、何となく、ヨナの気持ちもわからないわけではありません。
しかし、神様はそのようなヨナに「お前は怒るが、それは正しいことか」と問われるのです。もちろん、その問いかけは、それは正しくないということが言外に含まれています。
ヨナは、このあと、神様の真意が理解できたかというと、どうもそうではなかったようです。ヨナは、都を出て東の方に座り込み、小屋を建てて、日差しをさけ、その中に座って、都に何が起こるかを見届けようとしたとあります。つまり、神様がまた思いを変えられて、災いをくだすかもしれないと、まだ期待をしていたということです。
ところが、そのようなヨナに神様は、ある出来事を与え、神様の御心を示そうとされました。それは、強い日差しの中、ニネベの成り行きを見届けようとしていたヨナのために、神様は、とうごまの木を生えさせます。それは、またたくまに成長して、ヨナよりも丈が高くなり、頭の上に陰をつくるほどになりました。それは、一夜のできごとでしたから、ヨナは、神様の恵みによるものだと思ったでしょうし、それにより快的にすごせたのでした。
「ヨナの不満は消え、このとうごまの木を大いに喜んだ」とあります。ところが、次の日の明け方頃には、神様は虫をそのとうごまにつかせ、あっという間にそれは枯れてしまいました。日が昇ると、焼け付くような東風が吹き、太陽も容赦なくヨナに照りつけたので、ヨナは、ぐったりとなり、死ぬことを願ったといいます。つまり、ヨナには、神様のなさる意味がわからなかったのです。
神様は、自分をもてあそんでいるだけではないのか、神様は、自分に対して、いじわるをしているのではないのか、そう思ったのではないでしょうか。彼はまたもや「生きているよりも、死ぬ方がましです」と言ったとあります。それに対して、神様は、「お前はとうごまのことで怒るが、それは正しいことか」と言われました。
さすがにことのときは、ヨナは、「もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです」と言い返しております。いわゆる口答えをしております。それに対して、神様は「お前は、自分で労することもなく、育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、12万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから」。
ヨナに、お前が、とうごまの木を惜しんだように、わたしもこれらの人々の命を惜しむ、というわけです。ただし、ヨナにとってとうごまは、自分が丹精込めて育てた植物ではありませんでしたが、神様にとって人間は、愛をもって創造された一人ひとりです。
神様に対して、怒りのあまり死にたいくらいです、などと言える人は、めったにいるものではありません。ヨナという人物は、かなり激しい人です。情熱的な人です。彼は、北イスラエルを愛していました。他の誰よりも、自分は北イスラエルを愛しているといった自負を持っていたかもしれません。怒りに早い人は、性格というものがあるでしょうが、自分の正しさをあまり疑わない人が多いように思われます。それだけ、自信があるのでしょう。
ただ、それもまた、年齢と共に、あの姦淫の現場で捕らえられた女性をイエス様が赦されたとき、罪のない者から石を投げるがよい、と言われたら、年長者から始まって、一人そしてまた一人といなくなり、ついには、誰もいなくなったように、年齢を経ると自分の罪の気づきが重ねられてゆき、謙遜にさせられていくのでしょう。
ところが、ヨナは、若く、北イスラエルを愛していると強い自負があったことは間違いありません。けれども、神様に対してはどうだったのか、そのことを吟味する必要があったと言えます。まず、ヨナは、神様に対して忠実ではありませんでした。神様からのご命令が最初にくだったとき、彼は、神様に従おうとはしなかったのです。それは、自分を是として、神様のことを信頼しようとしないことでした。
しかし、そのような神様に背いたヨナを神様は、お見捨てになることはありませんでした。彼に、救いの手を差し伸べられ、反省の機会を与え、もう一度、神様の御用をなす者として、用いられたのです。ヨナは、まず、己自身がそのように、神様に背いて罪を犯し、そうでありながら赦された存在であることに気づいていなかったようです。
ニネベの人々が、悔い改めて、神様に赦されたのと、同じように、自分もまた、神様のご命令に背いたにもかかわらず、それを赦された同じ罪人でした。それには気がつかなかったようです。それはまた、とうごまの木の例とも同じでした。ヨナは、自分が植え、育てたとうごまでもないにもかかわらず、それが枯れたとき、そのとうごまのことをたいへん惜しく思ったのです。
私たちは、自分のその怒りに正当性があるかどうか、吟味することを教えられます。多くの場合、怒りの正当性というのはないのではありませんか。その怒りの原因は、自分の誇りを傷つけられたとか、考え方の相違、立場の違い、利害関係、その他にもたくさんのものがあるでしょう。
しかし、私たちが、ほんとうに怒りを発さねばならないのは、罪に対してです。それは、基本的には、神様の背きに対する罪です。ですから、その神様がお赦しになられたことを私たちがなおも赦すことができないというのは、どういうことでしょうか。それで、神様は、ヨナに、ご自身のお気持ちを理解させようと、とうごまの出来事を起こされたのですが、それに先立ち、すでに、ヨナ自身が神様に赦された存在だったということに気づくべきだったのです。
怒るヨナに神様は、とてもねんごろに接せられています。ヨナを思う神様の愛で溢れています。それは、「お前は怒るが、それは正しいことか」といった、優しくたしなめられる神様の言葉にそれは読み取れますし、わざわざ神様のお気持ちを理解させようとして、なさったとうごまの出来事によってもわかるのです。そうでなくても、神様は、ご自身に背いたヨナを赦され、用いられたのです。
私たちは己の怒りの正当性を吟味する必要がありますし、私もまた赦されて生きる者の一人であることをおぼえているべきなのであります。神様の愛は、悔い改める者にはあまねく及びます。しかし、キリストは、私たちがまだ神様に敵対していたときに、つまり、まだ悔い改めるということがないなかで、十字架におつきになられたということを考えるとき、神様のさらに深い愛を思わないではおれません。
神様は敵をも赦されます。ご自分の独り子を、私たちの救いのために惜しまずお与えくださいました。そのことを思うとき、私たちは、己の怒りがどこから来ているのか、それは、赦すことのできないほどのものなのか、考えざるをえません。神様が私たちを愛してくださったように、私たちも互いに愛し合うように、私たちは、救い主イエス様から教えられている存在です。
平良師