平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2009年3月22日 進んで心から

2009-07-15 17:23:50 | 2009年
出エジプト記35章20~29節
     進んで心から
 モーセは、神様に、荒野の旅において神様がイスラエルの民と共におられることを願い、その証しを求めました。33章16節「一体何によって、わたしとあなたの民に御好意を示してくださることが分かるでしょうか。あなたがたわたしたちと共に行ってくださることによってではありませんか。そうすれば、わたしとあなたの民は、地上のすべての民と異なる特別なものとなるでしょう」。このようにモーセが言ったことに対し、神様は、「わたしは、あなたのこの願いもかなえよう」と言ってくださいました。
 ところで、ご自身が共に歩まれるということの内容については、実は、神様は当初からお考えになっていたことがおありでした。それは、25章から始まる幕屋建設です。幕屋とは、移動式の神殿といったものです。彼らの移動にあわせて、幕屋も移動するのです。25章の8節では「わたしのための聖なる所を彼らに造らせなさい。わたしは彼らの中に住むであろう。わたしが示す作り方に正しく従って、幕屋とそのすべての祭具を作りなさい」とあります。イスラエルの民が、金の子牛の偶像を作り、それにひれ伏すという罪を犯したために、この約束を一旦は、破棄しようとお考えになられたのですが、モーセの執り成しにより、神様は思いとどまられ、当初のとおり、この計画を実行に移すことにされたのでした。
 しかし、ここに至るまでには、幾度かの赦しの段階がありました。神様は、偶像を造り、それを拝むという罪に対して、最初は、イスラエルの民を滅ぼし尽くすというお考えでした。そのときも、モーセの執り成しにより、それを思いとどまられました。しかし、神様はイスラエルの民とは一緒に歩むことをしない、と言われたのでした。それは、かたくななイスラエルの民に向けて、いつ怒りを露にするかわからないからだと言われたのです。そのことに対してもまた、モーセが、あなたの民にご好意をわかる形で示してください、それは、共に旅してくださるということではありませんかと訴えるのです。そこで、三度、思い返されて、ついに、幕屋を建設することで、神様は、旅の間、ずっと共におられることを示そうと言われたのでした。
 モーセは、イスラエルの民に向かって、告げました。「これは主が命じられた言葉である。あなたたちの持ち物のうちから、主のもとに献納物を持って来なさい。すべて進んで心からささげようとする者は、それを主への献納物として携えなさい」。献納物の内容は、先ほど読んでいただいたとおりです、金属、糸、毛糸、革、木材、油、宝石、香料、布、そのようなものでした。そして、それらの材料を用いて、神様がこのように作れと言われたとおりに、材料、形、寸法など、指示されたとおりに作ったのでした。また、それぞれの技術をもっている者たち、例えば、「心に知恵を持つ女」というのは、糸を紡ぐ能力や技術にたけている女性という意味ですが、彼女たちは、幕屋で用いられる様々な糸を紡いで、幕屋建設に寄与致しました。また、他にも、それぞれの者たちが、幕屋で使われる祭具や、幕屋そのものの建設にとりかかったのでした。材料を持っているものは、材料を献げ、天幕造りなどの知恵や技術をもっている者は、それらの賜物をいかしたことでしょう。
 この場合、私たちが心にとめておきたいことは、まず、モーセが、「すべて進んで心からささげようとする者は、それを主への献納物として携えなさい」と言っているように、進んで心から献げるという行為が望まれているのであって、しぶしぶとか、強制的にさせられたとか、そういうことではだめだということなのです。献納物を献げることのできる資格は、「進んで心から」ということでした。20節に「心動かされ、進んで心からする者は皆、臨在の幕屋の仕事とすべての作業、および祭服などに用いるために、主への献納物を携えて来た」のでした。神様の教会を建て上げることに感動をおぼえ、自ら進んで意欲的に献げ、その建築の業に取り組むのです。
 教会の建物を建てるということ、或いは、教会の中身を建てあげるという行為は、このように「進んで心から」という思いが大事であり、かつ、そうしたそれぞれの思いが寄せ集められて教会が建っていくのだということを教えられます。私たちは、礼拝で献げる献金を「進んで心から」行っています。そうできないときもあるかもしれませんが、なるべくそうできるように私たちは心がけます。また、それぞれの奉仕の業もまた、「進んで心から」ということが第一であって、決して、強制されたり、嫌々ながらでは、本来の神様が喜ばれる奉仕の業にはならないことがわかります。
 1994年の12月に完成した私たちの平尾教会もまた、当時の教会員たちが、「進んで心から」の献金を持ち寄って、建てたものでしょう。それぞれができる精一杯のものを持ち寄って作られたのだと思います。それでも今もなお借金を払っていますので、現在、建築献金をするという形で、その当時以降に教会員になられた方々もまた、この建物の建築にかかわっているということになっているかと思います。皆の思いが今もなおこの建物には降り注がれています。借金を払い終わるまでは、私たちの建築作業はずっと続いているといってもいいかもしれません。
 また、教会を建てるということは、目に見える建物の話だけではありません。その中身についても、私たちは、日夜建て続けております。それは福音を宣べ伝えることであり、信仰の成長をはかることであり、主にある信徒同士の交わりの豊かさを積み上げていくことでもあるでしょう。そして、中身における建設は、建て終わるということはありません。この建築作業は、教会がこの世にある限り、ずっと続いていくことになります。
 出エジプト記では、その3分の1の内容は、意外にも幕屋の内容とその建設についてです。いかに、このことが彼らにとって大きな問題であったかがわかります。それは、教会というところにおいては、決して、建築が、侮ることのできない、ひょっとして本質にもかかわるテーマなのではないかとさえ、思わされるのです。皆が力を合わせて作り上げるところが教会です。
 確かに、イエス・キリストの教会は、一人ひとりがそのキリストの体の部分部分であると教えられていますから、決してそこは誰かが主催して、そこに集まってくる一人ひとりは、単なるお客さんたちというのとは違うのです。もし、主催される方がいるとすれば、それは、イエス・キリストであり、その方によって、呼び集められた群れであるとは言えます。しかし、同時に、呼び集められた一人ひとりが、キリストの体の一部ともなるのです。
 ところで、神様が共におられるということは、昼は雲の柱、夜は火の柱をもって導かれたのですから、それでわからないはずはありません。しかし、臨在の幕屋が建てられることで、そこで神様と会えるというように、彼らは理解を致しました。ぐっと神様が近づかれたのでした。モーセが、シナイ山にでかけていって神様と出会ったように、神様は、わざわざ遥か遠くにでかけていかないと会えないというような存在ではなく、この幕屋建設によって、移動式の神殿によって、いつも共におられる神、ずっと一緒に旅してくださる神、身近におられる神、そのように思えるようになったのです。それはイスラエルの民にとっては、実に大きな励ましとなりました。このことは、現在の私たちが、私たちの人生という旅に同行してくださる神様、イエス・キリストを思うことを許されていることと同じです。
 ところで、今、私たちは、神様はこの教会という建物の中にのみおられる神様だとは考えません。むしろ、建物というよりも、ここに集われているイエス・キリストを信じるこの群れの中におられるのです。マタイによる福音書の18章20節「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」とイエス様は言われました。
 また、初代教会の弟子たちもそのような理解を致しました。パウロもアテネで神様を説明するときに、このように言いました。使徒言行録の17章24節、25節ですが、「世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません」。
 キリスト教の神様は、創造主なる父なる神、2000年前に私たちの救いのためにこの世に来られた御子イエス・キリスト、そして、イエス様が復活されたあと天に挙げられる前に、私の代わりとなるものをあなたがたに与えると言われましたが、そのお方が今ここで働いておられる聖霊なる神、この三位一体の神様です。ですから、イエス様が、わたしもその中にいるのである、と自ら言われるとき、それは、神様が共にそこにおられるということを意味しています。
 イエス・キリストを救い主と信じ、また、そのイエス様の御名で集まっているこの礼拝の場に、当然、神様はおられるのです。しかし、この礼拝の場だけではありません。イエス様の名で複数の方々が集まっているところにはどこにもおられるのです。また、ヨハネによる福音書3章8節には、聖霊についてこのように書かれております。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」。
 霊というのは、風のように思いのままに吹くものであり、それがどこから来て、どこへ行くかはわからない、自由なるものであるということです。ですから、神様というのは、ありとあらゆるところで今もなお、働かれておられるお方であるということです。それは、私たちといつも共におられる、どこに行っても共におられることのできるお方であるということを意味しています。
 旧約聖書でも新約聖書でも、神様の本質にかかわるテーマは、同じです。「神様がいつも私たちと共におられる」ということです。私たちの神様は、まさに、そのようなお方なのです。
 神様は、臨在の幕屋の作り方について、述べられました。そこで使うべき材料、作り方など、詳細に説明をされています。つまり、教会もまた、そこで礼拝をするにふさわしいものがあることを教えられます。何でもよいのではありません。神様がそのときその空間に共におられるといったことを確信できるようなものでありたいと思います。また、その建物で礼拝することにより、平安な面持ちになれる、厳かに礼拝を捧げられる、地域への証しにもなる、多くの新来者を招くこともできる、そのようなものでありたいと思います。私たちの教会はそのような建物になっているのではないでしょうか。
 しかし、同時に、神様は、この教会の建物の中にいつもおられるのではなく、私たちがこの建物の中で礼拝をするときに、この礼拝を捧げる群れの中に共におられるということを知っておきたいと思います。そして、神様は、風のように、ありとあらゆるところで私たちと共におられることのできる神様でいらっしゃいます。神様の本質は、私たちといつも、どのようなところでも、共にいてくださるということです。
 そして、最後に、私たちが教会を建てるというとき、それは、目に見えるこの建物だけを指すのでなく、中身を建てるということもまた、一方に考えなければならないということです。そして、教会を建てるというとき、建物にしろ、中身にしろ、双方に必要なことは、「進んで心から」という姿勢、これこそが最も大切であることを教えられます。献げ物も奉仕も、「進んで心から」という姿勢が、まずは、行為する者の必要条件になっています。「進んで心から」というものに神様のそれでよいという然りがあるのでしょう。祝福があるのでしょう。
 私は、「進んで心から」という姿勢を考えるとき、イエス様というお方は、もっと深い形でそのことをなされたのではないかと思うのです。自分に与えられる負の側面を意識しつつ、「進んで心から」なさったのです。それは、イエス様の十字架の死についてなのですが、フィリピの信徒への手紙の2章6節からの、いわゆるキリスト賛歌と言われる箇所で表現されているようなお姿です。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分となり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」
 そして、この「進んで心から」という点においてもまた模範を示されたお方が今、私たちと共におられるのです。私たちの人生を共に歩んでくださるのです。私たちの人生という荒野の旅を共に歩んでくださっているのです。私たちのこの群れのなかに、私たちの一人ひとりのうちに、その幕屋は日々、張られているのです。主は共におられるのです。


平良師

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