平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2003年10月12日 罪を贖う献げ物

2006-05-29 17:26:39 | 2003年
レビ記1章1~17節
     罪を贖う献げ物

 律法は、イスラエルの民が、聖なる者に一歩でも近づくために必要なものとして、神様から与えられたものでした。また、神様への背きの罪を教えるために、罪の何たるかを知らしめるためにも、必要なものでした。当時の周辺の国々の神々は、いったい何がよくて、何はよくないのか、はっきり示さない神々でした。明らかにイスラエルの神は異なっていたのでした。神様は、はっきりと罪が何であるかを教えられてのでした。
 神様がイスラエルの只中におられることを約束され、彼らもまた、その神様に対して、従う約束をしました。そして、その約束にいついつまでも生きるために律法が与えられたのでした。律法は、イスラエルの人々が、神様に従うことを表す具体的な生活の規範でありました。そして、その律法に違反することが罪でした。逆に律法を守ることは聖なる者へ近づくしるしになったのでした。この律法違反を犯したとき、人々は、神様に背いた自分や他者の罪を知ることとなったのです。
 そして、罪を犯した場合、イスラエルが、穢されることになり、その者は群れから取り除かなければならなかったのですが、しかし、ある行為によって、その罪は赦され、その者は共同体にもどり、イスラエルも聖なるものとしてまた、回復されると考えられたのでした。それはどういう方法によってだったかというと、犠牲の献げ物を献げることによって、罪が赦されると理解されたのでした。
 ただし、幕屋において献げ物をする場合、それは、何も罪を贖う(罪・穢れを免れるために金銭や物品をさしだすこと)という目的ばかりではありませんでした。単に、敬い拝むという意味でする場合、感謝を表して行う場合もありましたし、神様との和解を願ってという場合もあったようです。しかし、犠牲の献げ物をするときには、それはほとんど罪の赦しを願って行う場合でした。このレビ記の1章から7章は、その献げ物の規定が述べられています。
 献げるときの、その手順が書かれてあります。この手順に従って献げるのでなければ、それは有効ではありませんでした。いや、手順を無視することは、さらにまた、罪を犯すことになったのでした。レビ記の10章の1,2節に祭司であったアロンの子のナダブとアビフが、主の命じられたものでない規定に反した炭火を香炉に入れて、主の御前にもっていったとき、二人は、神様の怒りに触れて、死んでしまうという出来事がありました。
 この場合、犠牲の献げ物の話ではありませんが、とにかく、決められたことに反して勝手なことをすることは、祭儀を司る祭司たちの、主を侮る行為ですから、重い罪であったわけで、そのことは決して許されることではないと、この物語は、伝えています。
 今日の1章は、罪の赦しのための犠牲の献げ物をするときのやり方が書かれてあるところです。ここでは、焼き尽くす献げ物について書かれてあります。牛か羊、羊か山羊、その他鳥、そういう動物たちが、まず犠牲として献げられる動物でした。ほとんど家畜です。そして、イスラエルの人々の中でも、祭司や指導者層は、牛、それも傷のない雄牛、一般の人々になると、雌の山羊でもよかったのでした。さらに、貧しい者たちは、山鳩のような鳥を献げてもよかったのです。
 そして、4章などを見ますと、それよりもまだ貧しい者たちは、穀物を献げることもできました。この1章は、焼き尽くす献げ物をする場合の話ですが、奉納する者がどうするのか、祭司たちは、どうするのかが述べられています。奉納者がまず傷のない完璧な雄の牛を臨在(会見)の幕屋に連れていきます。そこで祭司たちは、その牛が規定に従ったものであるかどうかを点検します。
 そのあと、奉納者は手をその牛の上におきます。これは、奉納者とこの牛が一つとなり、この牛に奉納者の罪を贖わせるということが意味されました。そして、奉納者自らがその牛を屠ります。そうしましたら、血を祭司たちが、祭壇の4つの側面に注ぎかけるのです。4章には、この罪をあがなうための贖罪の献げ物について、この1章よりもさらに詳しく書かれてありまして、血を振りまくという行為、祭壇の4つの角に指でなすりつけるという行為、そして、残りを祭壇の基に流す行為と、それぞれ書かれてあります。
 1章では、4つの側面に注ぐというように、祭壇の基いに流す行為に該当するのでしょうか、それのみが書かれてあります。これは、この牛を神様のもとへ届けるという意味があったようです。しかし、血をふりかけるというのは、清めの意味があったようですし、血を4つの角に指で塗りつけるというのは、これは、この牛の命を神様に献げるということでした。
 つまり、奉納者の命に代わってこの牛の命が神様に献げられたのでした。レビ記17章の10節からのところに、血を食べるなという戒めがあって、11節には、「生き物の命は血の中にあるからである。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。
 血は、その中の命によって贖いをするのである」。命である血によって、罪が贖われると考えられたようです。それから、血を祭壇の側面に注いだ後、体を分割して、それを祭壇で焼くことになります。これも、頭と脂肪をまず各部分と一緒に焼くのですが、脂肪はすべて、神様のものであるというように理解されていました。それから、足の部分と内臓は、穢れているというので、水で洗ってから焼くことになっていたようです。1章は、焼き尽くす献げ物ということですから、皮以外は、すべて焼いてしまうのでした。
 そして、焼くことで、煙が上に昇っていきますが、これが、神様へのなだめの香りとなりました。このなだめの香りによって、神様は怒りを静められると考えられたのでした。
 このペットブームの時代に、今日のような箇所は、残酷すぎて、怖いと思われるでしょう。鳥の場合は、「首をもぎ取って、血を祭壇の側面に絞り出す」、など、現代の私たちには理解しがたいことです。しかし、人間の神様への背きの罪がそのままで、放置されることなど決してないことを表しています。
 人間の神様への罪は、命を奪われるほどの厳しいものであることがわかります。罪を犯した者の命を贖うためには、別の命が必要となるのです。そのためには、当時の周辺の国々では、人間の命を犠牲として献げることもなされていました。若い女性やこどもを献げる場合もありました。聖書のこうした動物犠牲のお話は、ある意味では、人間の犠牲は許されないということを示してもいるのです。
 他にも、人間を犠牲として献げることを否定するような内容の物語が聖書にはあります。創世記にアブアラハムが、息子イサクを神様に献げる話がありますが、最後には、神様は、これをおとめになられて、近くに雄羊を用意されて、それを犠牲として献げるように言われました。このような物語においても、人間を犠牲として献げることはだめだと、神様は言われていたのです。その代わり、家畜などを犠牲の献げ物として、献げることを示されたのでした。
 律法違反をした者たちは、罪の贖いを献げ物によってなし、それによって、罪がゆるされて、神様との関係をゆるされ、イスラエルの共同体へ復帰できたのでした。ですから、信仰の篤い者であればあるほど、律法違反の罪をよく自覚し、贖いの献げ物をしたことでしょう。
 このレビ記は、時代としては、モーセによって、エジプトから脱出したイスラエルの人々が、荒れ野をさまよったときのお話として書かれておりますが、一説では、おそらく、いくつかの部分は、実際は、バビロン捕囚の時代ではないかと言われています。国を失い捕囚となったイスラエルの人々にとって、宗教儀式だけが、人々を一致させることのできたものでした。彼らは、自分たちが神様に背いた結果として、このように国が滅ぼされ、多くの人々が捕囚として連れてこられたのだ理解しました。
 イスラエルの人々は、宗教共同体として、自分たちのルーツを確かめ、自分たちは何者なのかを確認し合っていったのでした。そのとき、律法や祭儀などをさらに整えることにおいて、悔い改めをはかり、自分たちの共同体意識を強めていくことができました。それで、捕囚として異国の地で暮らすことになったイスラエルの人々も、消滅することなく、再びエルサレムへの帰還のときを迎えることができたのでした。
 さて、神様は、イスラエルの人々が聖なる者となるために律法を与え、またそれにより神様への背きの罪を教え、罪を犯してもなお、その罪が赦される手立てを与えられました。神様は、イスラエルの民を愛しておられました。聖なる者となりなさい、これが願いでいらっしゃいました。しかし、人々は、個人的なレベルでもそうでしたが、国というレベルでも罪を犯して、よその神々を拝むということをおこない、神様を裏切るということを致しました。
 それも何度も何度もです。そのたびに、神様は彼らを罰し、戒められましたが、そのうちまた、彼らを憐れみ、赦してくださるのでした。しかし、その神様に対して、また罪を犯すということで、ついに、国が滅ぼされ、多くの者たちが捕囚として連れ去られるという事件は、イスラエルの歴史の中でも、その罪の重さと神様の怒りの大きさを表す出来事でした。それもまた、赦されて捕囚を解かれ帰還を果たすことになったのでした。
 そのようなイスラエルの民との関係を通して、神様が判断されたことは、人間は、行いによっては、つまり、律法を守ることにおいては、正しい者とはされない、救われることはないということでした。すべての者がおしなべて罪を犯すということだったのです。そこで、どうされたかというと、神様のお独り子であったイエス・キリストを十字架におつけになって、私たちの罪を赦そうとお考えになられたのでした。この場合の罪というのは、律法違反の罪ではなく、神様に対して犯してしまう根源的な罪のことをさしております。
 例えば、人間は、つまるところ自分のことしか考えられない利己的な存在であるとか。そのような人間の罪を赦そうとされたのは、それはもう一方的な神様の愛によるものだったのです。それは、これまで、牛や羊や、山羊や鳥などによって、贖われていた人間の罪をイエス・キリストの血により贖うことだったのです。イエス・キリストの流された血により、私たちの罪は贖われることになりました。イエス・キリストの十字架が、それまでの犠牲の献げ物の儀式に終りを告げたのでした。
 それまで、どれほどの犠牲の動物の命が献げられたことでしょう。祭壇は、どす黒い血で分厚く塗られていたことでしょう。それほどの凄まじい私たちの罪のために、イエス・キリストが十字架で死なれたのでした。キリストは、律法を破棄するためというより、成就するために来られたというのは、こういうところを考えるときに、何となく、納得できます。もう二度と、私たちは、犠牲の動物を献げて自分の罪を赦していただく必要はなくなったのです。そして、そのキリストの十字架は、イスラエルの民だけではない、人類すべてのための贖いの十字架となったのでした。
 さて、私たちはバプテスマのときを想い起こします。私たちのために十字架にかかられたイエス・キリストの上に、そのとき、私たちは手を置いたのではないでしょうか。私の罪をどうか、私に代わって負ってください、と。そろりそろりだったのか、感謝に手を震わせながらかだったのか、わかりませんが。
 そして、そのときから、私の罪は、もはや私にもどることはないのです。私は、自分の罪に悩むこともなく、不安や、苦しみを一人で負うこともない、この方が、負ってくださる、そういうふうに信じて歩むことができるようになったのです。このお方の流された血と裂かれた肉によって、私たちの、私の罪は赦されたのです。

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