ヨナ書1章1~15節
神の逃れられない愛
ヨナは、紀元前8世紀に登場した北イスラエルの預言者です。ヤロブアム2世の時代に活動しました。ニネベというのは、ヨナの時代から、大きな都であり、のち、アッシリア王セナケリブの時代にアッシリアの首都になりました。当時としてはこの巨大な都は、一回りするのに三日を要し、人口も12万人いたといいます。しかし、このアッシリアによって、北イスラエルは、紀元前722年に滅ぼされることになります。ですから、ヨナの物語は、北イスラエルにとって、次第に脅威になってきていたアッシリアとの間での緊張関係、敵対関係を前提に考えていくことになります。
ヨナという名前の意味は、「鳩」だそうです。しかし、鳩のように神様に対して素直だったかというと、そうではありませんでした。私たちは、ヨナが大きな魚の中で、祈っている姿を想像して、優しいヨナさん、といったイメージを持っているのですが、しかし、彼はなかなかの勇ましい人で、今でいうところの愛国者でもあり、北イスラエルのためには、命をも惜しくないと思うほどの人物だったようです。
神様は、こともあろうに、嫌がるだろうなあと明らかに思われるこのヨナを選ばれ、ニネベに行って、「彼らの悪はわたしの前に届いている」と伝えるように、ご命令しました。案の定、ヨナは、これを聞くと、神様から逃れようとして、反対方向のタルシシュに向かったのでした。
彼が、ヤッファというところに着くと、ちょうどタルシシュ行きの船が見つかりましたので、それに乗ることにしました。聖書には、そのときのようすが次のように描かれています。「人々に紛れ込んで主から逃れようと、タルシシュに向かった」。ヨナは、神様から逃れるためにニネベとは反対方向のさらに遠くに行くことで、また、人に紛れ込むということで、神様の目をごまかせると考えたようです。神様は、私たちがどこへ行こうと、どのように隠れようと、私たちの居場所を確実にご存知です。預言者なのですから、それがわからないようなヨナではなかったと思います。
しかし、人間は、神様のいいつけに背くとき、最初の人アダムとエバがそうであったように、何とか隠れようとするのです。ヨナもニネベから遠く離れれば、人ごみの中に紛れ込めば、神様の目をごまかせると、このときは思ったようです。
何故、ヨナは、神様の言うことに従わなかったのか、そのことを考えてみます。堕落し、不法に満ち、悪にまみれたニネベの人々ゆえ、神様のところに、お前たちの悪が明らかになって届いているということを告げると、彼らの敵意を助長することになり、何をされるかわからないといった恐怖がヨナの中にあったという理解もあるでしょう。敵地へ乗り込んでいくこと自体、大変な恐怖です。
しかし、本当の理由は、4章の1節と2節に書かれています。神様は、ニネベをその悪のゆえに滅ぼすと言われたのに、自分が、ニネベの人々の悪のゆえに、滅ぼすと神様は言われているということを告げることで、彼らが悔い改め、それによって、彼らにくだそうとされていた災いを神様が、思い留まるようなことになるかもしれない。それは困る、このままニネベが災いをくだされて力を失った方が、北イスラエルにとっては脅威が取り除かれ、助かる、都合がいいと判断をしたようなのです。ですから、自分は、この神様のご命令に従うわけにはいかない、と考えました。
ヨナは、北イスラエルを愛しているつもりになっていました。アッシリアを取り除くことのできる絶好の機会が訪れたというのに、自分が神様の言われるような働きをすれば、きっとアッシアリアは助かることになる、と彼なりに判断したのでした。しかし、創造主なる神様以上に、個々のことを考えられる方はおられないのです。どうして、その方の御心を信じようとヨナは思わなかったのでしょう。ヨナは、このとき、神様以上に、北イスラエルのことを考えているつもりになっていたのでしょう。非常に傲慢であったと言えます。ここにヨナの最初の罪がありました。
北イスラエルは、確かに、歴史の上では、このあと、アッシリアに滅ぼされてしまいます。しかし、それは、北イスラエルの人々の神様の背きのためであったと考えられました。そして、のちに、このアッシリアも他の国に滅ぼされてしまうことになります。歴史をもつかさどる神様は、神様の御心のうちに事を起していかれるのです。それにより、あるときは、神様の正義が示され、人間の罪が暴露されることになります。そして、何よりも神様が人間の罪に対して忍耐されていること、神様の深い愛が強く示されることになります。そして、ついには、何故、イエス・キリストの十字架による罪の赦しが必要になったのかが理解されるのです。
物語では、そうやって逃げていったヨナの乗り込んだ船が、神様の送られた大風によって、いまにも沈没しそうになります。船乗りたちは、そのとき、恐怖に陥り、それぞれが信じている神に助けを求めたとあります。この船には、一つの民族ではなく、複数の民族、ないし国の人々が、船乗りとして働いていたと思われます。それで、このとき、それぞれが自分の神に助けを求めたのでした。
ところが、ヨナは、船底で寝ていました。嵐に気づかなかったのでしょうか。揺れにゆれている船です。多くの者が右往左往していたはずです。ヨナは、このとき神様に背いているのですから、たとえ、起きていたとしても、その神様に祈れるはずがありませんでした。船長はそのヨナに「寝ているとは何事か。起きてあなたの神を呼べ。神が気づいて助けてくれるかもしれない」、むしろ、この船長の方が、敬虔で信仰があるようにも思われます。それから、人々は、いったい誰のせいで、自分たちにこのような災いがふりかかったのか、はっきりさせようといって、くじを引くことにしました。
それほどに、突然の嵐だったのでしょう。そして、そのくじは、ヨナに当たりました。人々は、ヨナに詰め寄り「さあ、話してくれ。この災難が我々にふりかかったのは、誰のせいか。あなたは何の仕事で行くのか。どこから来たのか。国はどこで、どの民族の出身なのか」。これに対してヨナは「わたしはヘブライ人だ。海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者だ」と答えたとあります。
そして、ヨナは、神様のご命令に従わないで、逃げてきたことも白状しました。また、自分のせいでこの大嵐に見舞われることになった、と承知しているとも言いました。それで、ヨナをどうしたら、海が静まるだろうか、と聞く船乗りたちに、自分を海に放り込むように言うのでした。ここには、ヨナの潔さが現れていますが、それでも、神様に対する背きの罪の悔い改めはありません。
彼はまだ、自分がここで死ねば、ニネベの人々の悪はさらにエスカレートし、神様の災いが彼らにくだることになって、北イスラエルにとって、それはよいことだと考え、死を選ぼうとしていたかもしれないのです。一方、乗組員たちは、そのようなヨナの話を聞きましたが、それならとすぐに彼を海に放り込んだかたというと、そうではありませんでした。彼らは、それはそれとして、まず自力で船を陸に戻そうと努力しました。
しかし、そのようにすればするほど、ますます海は荒れて、襲いかかろうとしているのではないかと思われんばかりになりました。それで、致し方なく、ヨナを嵐の海に投げ込むことにするのです。そのとき、「ああ、主よ、この男の命のゆえに、滅ぼさないでください。無実の者を殺したといって責めないでください。主よ、すべてはあなたの御心のままなのですから」と言って、放り込みました。
すると、不思議にも荒れ狂っていた海は静まったのです。船乗りたちは、やはりそうだったのかと思い、ヨナの信じていた神様を畏れ、信じるに至りました。「人々は大いに主を畏れ、いけにえをささげ、誓いを立てた」とあります。救いは、このときからすでに、イスラエル民族に限らないものであることがわかります。
この船乗りたちは、明らかに異邦人でした。それも、幾つかの民族、幾つかの国の人々の寄せ集めのような集団でした。国際的な感じも致します。しかし、実に、素朴な信仰をもち、真の神様がどなたかを知ることにもなりました。そして、さらに真の神様への信仰を強くしていくのでした。ヨナは、神様と契約を交わしているヘブライ人、北イスラエルの人間でありながら、神様に背き、神様のもとから逃げようとしているのです。そこには神様への信頼はありませんでした。彼は、北イスラエルのこれからを考えると、神様の言われるようにすることに納得いかなかったのです。自分の知恵をむしろ優先したのでした。
ここに彼の罪がありました。ですから、当然、最後まで、悔い改めるふうもありませんでした。
しかし、それでも神様は、彼のことを見放すことをなさいませんでした。巨大な魚にヨナを飲み込ませました。その暗闇の中で、ヨナは、三日三晩過ごすことになります。そうしてようやく、ヨナは、神様に祈ることを致しました。彼は、海に落ちて、恐ろしく苦しい体験をしたようです。それは2章の4節から7節に描かれています。波が彼の上を越えていき、おぼれ、海草がからみつき、そして、どんどん海底に沈んでいくのです、そして、すべてが閉ざされたようになったのでした。
彼は、もがき、神様に叫びました、陰府の底から助けを求めた、息絶えようとするとき、主の御名を唱えたとあります。その声を神様は、聞いてくださいました。彼は悔い改めます。「偽りの神々に従う者たちが忠節を捨て去ろうとも、わたしは感謝の声をあげ、いけにえをささげて、誓ったことを果そう。救いは主にこそある」。この「偽りの神々に従う者たちが忠節を捨て去ろうとも」、というのは、北イスラエルの人々が、他の神々の偶像を拝み、真の神様を捨て去ろうとも、という意味です。
そのような中にあってもなお、自分は、感謝の声を真の神様にささげ、誓ったことを果そう、と悔い改めるのでした。そして、「救いは、主にこそある」そういい切るのでした。
それは、使徒言行録4章の12節で、ペトロが言っているように「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」と言っているのと同じです。ヨナも、救いは、真の神様からしか来ないという確信を得るに至りました。
神様は、神様のご命令に背いたヨナをなおも赦し、愛されました。今日、招きの詞で読んでいただいた詩篇139編7節から8節の御言葉をもう一度読んでみたいと思います。「どこに行けば、あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます」。ヨナは、神様から逃れることはできないと知りました。神様の愛から逃れることができなかったと言えるでしょう。
言いつけに背いたヨナをなおも愛し、赦され、再び、神様の御用に用いようとされるのでした。彼は、神様のご命令に背いたとき、神様はそこに共におられることはありませんでした。遠くから見守ってくださっていたかもしれませんが、神様を裏切り、遠くに行ってしまうヨナと神様は共におられることはできなかったのではないでしょうか。そして、それから再び神様に従うまで、ヨナの中から平安は去りました。どこまでも落ちていくヨナの姿が描かれています。そして、ますます、慰めを得られない身となっていくのです。
神様に立ち返り、再び、神様に従おうと悔い改めたとき、彼は、「救いは、主にこそある」という真理に気づくのです。
そのとき、神様は、ヨナを陸地に戻しました。ヨナは、改めて神様の御用を果すべく、ニネベに向かうのです。
私たちは、あえて、神様に背いて、神様が共におられない状況を作る必要があるでしょうか。あえて、神様に背いて、平安を失い、神様からの慰めをえられなくする必要があるでしょうか。私たちは、神様に背くことをする方が、しんどいことだと知るべきではないでしょうか。むしろ、私たちは、神様に従い、神様にすべてをお任せした方が楽なのです。
もし、納得できなければ、私たちには、神様に申し立てをすることは許されているのではないでしょうか。ヨナは、それもせず、すべてを決め付け、神様への信頼をなくしたところで、神様に逆らったところに彼の大きな罪があったのです。もちろん、それでも神様はヨナへの愛をお捨てになることはありませんでした。
それは、ただただ恵みです。その恵みは、今に生きる私たちにも同様に与えられていると信じます。私たちが、いかに神様に背こうとも、神様の愛は、のがれようがありません。私たちは、そのことに気づき、その愛を信じ、これからも、主に従っていくのです。
平良師
神の逃れられない愛
ヨナは、紀元前8世紀に登場した北イスラエルの預言者です。ヤロブアム2世の時代に活動しました。ニネベというのは、ヨナの時代から、大きな都であり、のち、アッシリア王セナケリブの時代にアッシリアの首都になりました。当時としてはこの巨大な都は、一回りするのに三日を要し、人口も12万人いたといいます。しかし、このアッシリアによって、北イスラエルは、紀元前722年に滅ぼされることになります。ですから、ヨナの物語は、北イスラエルにとって、次第に脅威になってきていたアッシリアとの間での緊張関係、敵対関係を前提に考えていくことになります。
ヨナという名前の意味は、「鳩」だそうです。しかし、鳩のように神様に対して素直だったかというと、そうではありませんでした。私たちは、ヨナが大きな魚の中で、祈っている姿を想像して、優しいヨナさん、といったイメージを持っているのですが、しかし、彼はなかなかの勇ましい人で、今でいうところの愛国者でもあり、北イスラエルのためには、命をも惜しくないと思うほどの人物だったようです。
神様は、こともあろうに、嫌がるだろうなあと明らかに思われるこのヨナを選ばれ、ニネベに行って、「彼らの悪はわたしの前に届いている」と伝えるように、ご命令しました。案の定、ヨナは、これを聞くと、神様から逃れようとして、反対方向のタルシシュに向かったのでした。
彼が、ヤッファというところに着くと、ちょうどタルシシュ行きの船が見つかりましたので、それに乗ることにしました。聖書には、そのときのようすが次のように描かれています。「人々に紛れ込んで主から逃れようと、タルシシュに向かった」。ヨナは、神様から逃れるためにニネベとは反対方向のさらに遠くに行くことで、また、人に紛れ込むということで、神様の目をごまかせると考えたようです。神様は、私たちがどこへ行こうと、どのように隠れようと、私たちの居場所を確実にご存知です。預言者なのですから、それがわからないようなヨナではなかったと思います。
しかし、人間は、神様のいいつけに背くとき、最初の人アダムとエバがそうであったように、何とか隠れようとするのです。ヨナもニネベから遠く離れれば、人ごみの中に紛れ込めば、神様の目をごまかせると、このときは思ったようです。
何故、ヨナは、神様の言うことに従わなかったのか、そのことを考えてみます。堕落し、不法に満ち、悪にまみれたニネベの人々ゆえ、神様のところに、お前たちの悪が明らかになって届いているということを告げると、彼らの敵意を助長することになり、何をされるかわからないといった恐怖がヨナの中にあったという理解もあるでしょう。敵地へ乗り込んでいくこと自体、大変な恐怖です。
しかし、本当の理由は、4章の1節と2節に書かれています。神様は、ニネベをその悪のゆえに滅ぼすと言われたのに、自分が、ニネベの人々の悪のゆえに、滅ぼすと神様は言われているということを告げることで、彼らが悔い改め、それによって、彼らにくだそうとされていた災いを神様が、思い留まるようなことになるかもしれない。それは困る、このままニネベが災いをくだされて力を失った方が、北イスラエルにとっては脅威が取り除かれ、助かる、都合がいいと判断をしたようなのです。ですから、自分は、この神様のご命令に従うわけにはいかない、と考えました。
ヨナは、北イスラエルを愛しているつもりになっていました。アッシリアを取り除くことのできる絶好の機会が訪れたというのに、自分が神様の言われるような働きをすれば、きっとアッシアリアは助かることになる、と彼なりに判断したのでした。しかし、創造主なる神様以上に、個々のことを考えられる方はおられないのです。どうして、その方の御心を信じようとヨナは思わなかったのでしょう。ヨナは、このとき、神様以上に、北イスラエルのことを考えているつもりになっていたのでしょう。非常に傲慢であったと言えます。ここにヨナの最初の罪がありました。
北イスラエルは、確かに、歴史の上では、このあと、アッシリアに滅ぼされてしまいます。しかし、それは、北イスラエルの人々の神様の背きのためであったと考えられました。そして、のちに、このアッシリアも他の国に滅ぼされてしまうことになります。歴史をもつかさどる神様は、神様の御心のうちに事を起していかれるのです。それにより、あるときは、神様の正義が示され、人間の罪が暴露されることになります。そして、何よりも神様が人間の罪に対して忍耐されていること、神様の深い愛が強く示されることになります。そして、ついには、何故、イエス・キリストの十字架による罪の赦しが必要になったのかが理解されるのです。
物語では、そうやって逃げていったヨナの乗り込んだ船が、神様の送られた大風によって、いまにも沈没しそうになります。船乗りたちは、そのとき、恐怖に陥り、それぞれが信じている神に助けを求めたとあります。この船には、一つの民族ではなく、複数の民族、ないし国の人々が、船乗りとして働いていたと思われます。それで、このとき、それぞれが自分の神に助けを求めたのでした。
ところが、ヨナは、船底で寝ていました。嵐に気づかなかったのでしょうか。揺れにゆれている船です。多くの者が右往左往していたはずです。ヨナは、このとき神様に背いているのですから、たとえ、起きていたとしても、その神様に祈れるはずがありませんでした。船長はそのヨナに「寝ているとは何事か。起きてあなたの神を呼べ。神が気づいて助けてくれるかもしれない」、むしろ、この船長の方が、敬虔で信仰があるようにも思われます。それから、人々は、いったい誰のせいで、自分たちにこのような災いがふりかかったのか、はっきりさせようといって、くじを引くことにしました。
それほどに、突然の嵐だったのでしょう。そして、そのくじは、ヨナに当たりました。人々は、ヨナに詰め寄り「さあ、話してくれ。この災難が我々にふりかかったのは、誰のせいか。あなたは何の仕事で行くのか。どこから来たのか。国はどこで、どの民族の出身なのか」。これに対してヨナは「わたしはヘブライ人だ。海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者だ」と答えたとあります。
そして、ヨナは、神様のご命令に従わないで、逃げてきたことも白状しました。また、自分のせいでこの大嵐に見舞われることになった、と承知しているとも言いました。それで、ヨナをどうしたら、海が静まるだろうか、と聞く船乗りたちに、自分を海に放り込むように言うのでした。ここには、ヨナの潔さが現れていますが、それでも、神様に対する背きの罪の悔い改めはありません。
彼はまだ、自分がここで死ねば、ニネベの人々の悪はさらにエスカレートし、神様の災いが彼らにくだることになって、北イスラエルにとって、それはよいことだと考え、死を選ぼうとしていたかもしれないのです。一方、乗組員たちは、そのようなヨナの話を聞きましたが、それならとすぐに彼を海に放り込んだかたというと、そうではありませんでした。彼らは、それはそれとして、まず自力で船を陸に戻そうと努力しました。
しかし、そのようにすればするほど、ますます海は荒れて、襲いかかろうとしているのではないかと思われんばかりになりました。それで、致し方なく、ヨナを嵐の海に投げ込むことにするのです。そのとき、「ああ、主よ、この男の命のゆえに、滅ぼさないでください。無実の者を殺したといって責めないでください。主よ、すべてはあなたの御心のままなのですから」と言って、放り込みました。
すると、不思議にも荒れ狂っていた海は静まったのです。船乗りたちは、やはりそうだったのかと思い、ヨナの信じていた神様を畏れ、信じるに至りました。「人々は大いに主を畏れ、いけにえをささげ、誓いを立てた」とあります。救いは、このときからすでに、イスラエル民族に限らないものであることがわかります。
この船乗りたちは、明らかに異邦人でした。それも、幾つかの民族、幾つかの国の人々の寄せ集めのような集団でした。国際的な感じも致します。しかし、実に、素朴な信仰をもち、真の神様がどなたかを知ることにもなりました。そして、さらに真の神様への信仰を強くしていくのでした。ヨナは、神様と契約を交わしているヘブライ人、北イスラエルの人間でありながら、神様に背き、神様のもとから逃げようとしているのです。そこには神様への信頼はありませんでした。彼は、北イスラエルのこれからを考えると、神様の言われるようにすることに納得いかなかったのです。自分の知恵をむしろ優先したのでした。
ここに彼の罪がありました。ですから、当然、最後まで、悔い改めるふうもありませんでした。
しかし、それでも神様は、彼のことを見放すことをなさいませんでした。巨大な魚にヨナを飲み込ませました。その暗闇の中で、ヨナは、三日三晩過ごすことになります。そうしてようやく、ヨナは、神様に祈ることを致しました。彼は、海に落ちて、恐ろしく苦しい体験をしたようです。それは2章の4節から7節に描かれています。波が彼の上を越えていき、おぼれ、海草がからみつき、そして、どんどん海底に沈んでいくのです、そして、すべてが閉ざされたようになったのでした。
彼は、もがき、神様に叫びました、陰府の底から助けを求めた、息絶えようとするとき、主の御名を唱えたとあります。その声を神様は、聞いてくださいました。彼は悔い改めます。「偽りの神々に従う者たちが忠節を捨て去ろうとも、わたしは感謝の声をあげ、いけにえをささげて、誓ったことを果そう。救いは主にこそある」。この「偽りの神々に従う者たちが忠節を捨て去ろうとも」、というのは、北イスラエルの人々が、他の神々の偶像を拝み、真の神様を捨て去ろうとも、という意味です。
そのような中にあってもなお、自分は、感謝の声を真の神様にささげ、誓ったことを果そう、と悔い改めるのでした。そして、「救いは、主にこそある」そういい切るのでした。
それは、使徒言行録4章の12節で、ペトロが言っているように「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」と言っているのと同じです。ヨナも、救いは、真の神様からしか来ないという確信を得るに至りました。
神様は、神様のご命令に背いたヨナをなおも赦し、愛されました。今日、招きの詞で読んでいただいた詩篇139編7節から8節の御言葉をもう一度読んでみたいと思います。「どこに行けば、あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます」。ヨナは、神様から逃れることはできないと知りました。神様の愛から逃れることができなかったと言えるでしょう。
言いつけに背いたヨナをなおも愛し、赦され、再び、神様の御用に用いようとされるのでした。彼は、神様のご命令に背いたとき、神様はそこに共におられることはありませんでした。遠くから見守ってくださっていたかもしれませんが、神様を裏切り、遠くに行ってしまうヨナと神様は共におられることはできなかったのではないでしょうか。そして、それから再び神様に従うまで、ヨナの中から平安は去りました。どこまでも落ちていくヨナの姿が描かれています。そして、ますます、慰めを得られない身となっていくのです。
神様に立ち返り、再び、神様に従おうと悔い改めたとき、彼は、「救いは、主にこそある」という真理に気づくのです。
そのとき、神様は、ヨナを陸地に戻しました。ヨナは、改めて神様の御用を果すべく、ニネベに向かうのです。
私たちは、あえて、神様に背いて、神様が共におられない状況を作る必要があるでしょうか。あえて、神様に背いて、平安を失い、神様からの慰めをえられなくする必要があるでしょうか。私たちは、神様に背くことをする方が、しんどいことだと知るべきではないでしょうか。むしろ、私たちは、神様に従い、神様にすべてをお任せした方が楽なのです。
もし、納得できなければ、私たちには、神様に申し立てをすることは許されているのではないでしょうか。ヨナは、それもせず、すべてを決め付け、神様への信頼をなくしたところで、神様に逆らったところに彼の大きな罪があったのです。もちろん、それでも神様はヨナへの愛をお捨てになることはありませんでした。
それは、ただただ恵みです。その恵みは、今に生きる私たちにも同様に与えられていると信じます。私たちが、いかに神様に背こうとも、神様の愛は、のがれようがありません。私たちは、そのことに気づき、その愛を信じ、これからも、主に従っていくのです。
平良師