第一コリント1章1~9節
神の教会
2010年は、1月から3月まで、コリントの信徒への手紙の一を扱っていくことになります。コリントの信徒への手紙を読むたびに、福音をより身近に感じさせられます。そして、教会で起こること、私たちの日常生活で起こることを、どのように信仰的に考え、解決を図っていけばいいのかを、この手紙は私たちに教えてくれるのです。そして、そのような身近な問題に触れながら、実は、根本的な事柄であるイエス様の十字架のこと、復活のことを私たちに教えてくれているのです。
それでもある方は、どうして、このような教会の至らぬお話を聖書の中に入れているのだろうか、と思うことでしょう。このコリントの信徒への手紙の一には、教会が分裂しているさまが描かれ、性的不道徳、法的な争い、主の晩餐の悪用、それから、死者の復活についての議論などが書かれております。そこからは、この教会に数々の問題があったことがわかります。聖書には、もっと喜びにあふれている理想的な教会の姿が描かれているべきではないか、そう思うのではないでしょうか。
否、確かに、当時のコリントの教会の至らなさ、足りなさを指摘することで理想の教会はこうあるべし、と教えることにはなっていますから、このようなことでいいのかもしれません。ところが、2千年たっても変わらぬ現在の自分たちの教会の姿を見て、あのコリントの教会の頃と少しも変わっていないじゃないかと、私たちの中には落胆する人もおられるでしょう。
教会もまた、この世の教会でありますから、この時代、この日本という社会の枠の中で存在している組織ですから、そこに呼び集められている一人ひとりも、普段は、会社に勤め、学校に行き、家庭で家事のあれこれをし、ご近所付き合い、地域の方々との交流、家族との生活、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌からの情報と、水曜日や日曜日以外は、キリスト教の信仰をもっていない他の人々と接していることの方が多いのでしょうから、つまり、そういった意味では、教会もまた、世俗の中にあるということです。
ですから、教会においても、聖書以外からのものの見方、考え方が多分に入り込んでくるのです。そうして間違いを間違いを犯すこともあるでしょう。私たちは、ここは教会ですから、聖書がその基になければならないと考えます。しかし、一つのことを考えるにしても、聖書自体の中に、多くのものの見方、考え方が含まれていますから、これまた、そう簡単ではありません。
パウロもまた、コリントの教会内で、発生している問題について、復活したイエス様に出会わされた使徒としての自覚に基づいて、一信仰者として発言をしています。そして、そのパウロの考えと違うキリスト者たちがいて、その人々のことを頭におきながら、手紙を書いているということなのです。現代のほとんど、否すべてといっていいかと思いますが、教会が一つのことを行っていくに際し、同じ信仰者同士でありながら、いくつかの考えが出てくるようなことであります。
それはかつても今も変わらないのです。しかも、私たちの教派は、バプテスト派であり、民主的な教会運営を致しますから、それは、誰もが自由に発言していいのですから、意見が幾つも出るようなことは当然のこととして、起こりうるのです。
ただし、彼パウロの発言が、聖書に収められているという点において、私たちは、権威あるものとしてこの手紙をとらえつつ、彼の語る聖書の御言葉に耳を傾けていかねばならないのです。そして、このコリントの教会は、この手紙を送る4,5年前にパウロが開拓した教会でしたから、パウロ自身、今のコリントの教会はなっていないとは思いつつも、彼らに対する愛情もまた人一倍であったことは間違いありません。この手紙もまた、パウロの愛情の中にあって、書かれたものなのです。
コリントという都市は、当時は、貿易の中枢を担うような経済的にも発展した、だからこそ、道徳的にも廃頽的な町でありました。まさに、世俗のど真ん中に位置しているようなところでした。初代教会というのは、このような都市部に最初にできていきました。教会というのは、世俗とは関係のない、聖なる隔離されたところだとは教えられてはおりません。私たちは、世俗の中にあってこそ、輝くものでなければならないのです。暗闇でこそ、光は輝きます。あなたたちは、世の塩である、世の光である、とイエス様が言われた意味は、世俗の中にあってこそ、役割が果たされるということが前提になっています。
そういった意味では、コリントの教会は世俗の真っ只中にあり、パウロから福音がいかなるものかは教えられたものの、パウロが去ったのち、またもやかつての世俗のものの見方や考え方、当時流行していたグノーシスという思想の影響を受け、徐々に変質していったのでした。そして、いろいろな問題も起こり、それをどのような考え方に基づいて解決していっていいのかもわからない、そのような状態になっていたのです。そこで、コリントの教会のある人々が、パウロにコリント教会の実情を知らせ、それで、パウロがほんとうでしたら、すぐにでも出向いていって教会の人々と話をしたかったでしょうが、とりあえず手紙という形で、助言や自分の考えを述べているのです。
さて、今日の箇所は、その手紙の冒頭部分です。ここでパウロは、「神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロ」と自分のことを言ってます。使徒というのは、イエス様に遣わされた弟子というような意味をもっています。ただし、この使徒という言い方は、復活のイエス様に出会った者に限られていたようです。パウロもまた、生前のイエス様との出会いはありませんでしたが、復活のイエス様には出会わされましたので、自分のことを使徒と考えておりました。彼らの中にパウロは使徒ではないといって軽んじる者もおりましたので、パウロは自分は使徒であるということを冒頭できっちりと言う必要がありました。
この手紙の最初の方には、パウロと兄弟ソステネからとなっていますが、このソステネという名前が出てくるのは、使徒言行録の18章の17節です。「群衆は会堂長のソステネを捕まえて、法廷の前で殴りつけた」という記事があります。ソステネは、パウロがコリントで最初に伝道をしたときに会堂長をしており、パウロの協力者であったようです。もしこのときの同一人物であるのなら、それ以降、パウロと共に宣教活動にあたっていたのでしょうか。
とにかく、この二人から挨拶を送るという壮丁です。そして、その次からの挨拶文が、本心からパウロはそう思っているのだろうか、とちょっと疑いたくなるような、文言が書き連ねられています。「コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ」と、教会とその教会の一人ひとりのことをこのように述べております。
「神の教会」、「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々」、この修飾語が表しているように、ほんとうにパウロは、コリントの教会のことをそのように考え、教会の信徒の一人ひとりのことをそのように思っていたのか、ということなのです。それとも、単なる挨拶文に過ぎないのかということなのです。
私たちは、世にある教会は、神の教会であり、バプテスマに与った者たちは、聖なる者とされた人々である、と信じておりますし、むしろ、こうしたパウロのこの手紙の挨拶文から、その確信を得てきたのではないでしょうか。
つまり、教会というのは、救いに与った一人ひとりから成り立っております。それも、自分の罪を認めざるをえなかった欠けだらけの人間です。また、救われたからといって、完全になったのではなく、パウロも「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」(フィリピ3:14)と言いましたように、ただ、神様の賞を得ようと努めている者に過ぎません。ですから、そうした者の集まりですから、完全というのではないのです。しかし、それでもなお教会は、イエス・キリストを頭とする神の教会だというのが、聖書の主張です。エフェソの信徒への手紙の1章28節にも「教会は、キリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場所です」と述べています。
私たちの教会もまた、福岡市南区平和一丁目にある神の教会です。同じ教会に与えられた挨拶として、これらのパウロの言葉を受け入れたいと思います。
パウロは、4節で「あなたがたが、キリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています」と伝えています。神の恵みを受けたというのは、バプテスマに与ったということを意味しているでしょう。それは、イエス・キリストにあって、そのようなことが起こりえたということです。イエス・キリストの十字架があり、イエス・キリストの復活があった、そうした出来事を受け入れ、自分もまた、バプテスマにおいて死に、新しい命を受けた、そのような神様の恵みです。
そして、今、あなたがたは、そのイエス・キリストと結ばれることで、あらゆる言葉、あらゆる知識において、豊かにされている、と述べています。私たちは、イエス様と結ばれることによって、そのお方から栄養をいただき、この体を養っていただいています。魂の養いをしていただいているのです。
そして、9節で、「神は真実な方です。この神によって、あなたがたは、神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです」と言っています。私たちは、今、真実なる神様のお恵みによって、神の子となり、イエス様との交わりをいただいています。その交わりをいただいている生活というのは、「あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます」という、終末の希望、完成された者になるという希望を抱きつつ、送っている日々の生活でもあります。
ですから、世にある教会は、大きな枠としては、以上のように、その群れの一人ひとりはバプテスマへと導かれた者であり、イエス様とつなげられた者であり、終末に生きる希望を与えられた者である、という理解のもとにありますから、いろいろな問題が発生としていたとしても、そうした群れは神の教会と呼ぶにふさわしく、その中にある人々は、召されて聖なる者とされた者たちなのです。
だからこそ、そのような交わりをいただいている者だからこそ、教会が一致していない、ばらばらだ、性的道徳の乱れすらある、それではいけない、そういうことになるわけです。挨拶文では、まさに、あるべき私たちの姿が、パウロによって語られているのではないでしょうか。あなたたちは、そのような者たちなのですよ、と言っているのではないでしょうか。そのようにされている者たち、そのように恵みを受けた者たち、そのようなあなたがたであるゆえに「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」と、また祝福も述べられていると思うのです。
そして、早速、10節から教会の諸問題に対する見解が述べられていきます。教会は、いろいろな問題を抱えつつも、本来あるべき姿は、この挨拶文にあるようなものなのです。この大枠は、神様が恵みとして与えられています。そして、この大枠を真実なものとさせたいと教会は願うのです。しかし、同時に、世にある教会は、このコリントの教会と多少問題の質や種類は違っても、あまり変わらない歩みや誤りを犯してしまうものなのかもしれないのです。否、そうでしょう。世にある教会は、コリントの教会なのです。
だから、聖書に載っている意味もあるのです。反面教師としてのコリントの教会でありながら、それでもなお、神の教会ですよ、あなたがたがは召されて聖なる者となった人々ですよ、と言っているところに世にある教会への警告と励ましと慰めをいただくことができるのです。パウロは、コリントの教会を断罪してはいません。愛情をもって、手助けをしたいと思っているのです。神の教会だからです。神の教会としての立ち方をパウロは、求めているのです。私たちもまた、神の教会として、2010年の歩みをしたいと願わないではおれません。そして、神の教会と呼ばれるに相応しい実りをいただきたいと願います。
平良師
神の教会
2010年は、1月から3月まで、コリントの信徒への手紙の一を扱っていくことになります。コリントの信徒への手紙を読むたびに、福音をより身近に感じさせられます。そして、教会で起こること、私たちの日常生活で起こることを、どのように信仰的に考え、解決を図っていけばいいのかを、この手紙は私たちに教えてくれるのです。そして、そのような身近な問題に触れながら、実は、根本的な事柄であるイエス様の十字架のこと、復活のことを私たちに教えてくれているのです。
それでもある方は、どうして、このような教会の至らぬお話を聖書の中に入れているのだろうか、と思うことでしょう。このコリントの信徒への手紙の一には、教会が分裂しているさまが描かれ、性的不道徳、法的な争い、主の晩餐の悪用、それから、死者の復活についての議論などが書かれております。そこからは、この教会に数々の問題があったことがわかります。聖書には、もっと喜びにあふれている理想的な教会の姿が描かれているべきではないか、そう思うのではないでしょうか。
否、確かに、当時のコリントの教会の至らなさ、足りなさを指摘することで理想の教会はこうあるべし、と教えることにはなっていますから、このようなことでいいのかもしれません。ところが、2千年たっても変わらぬ現在の自分たちの教会の姿を見て、あのコリントの教会の頃と少しも変わっていないじゃないかと、私たちの中には落胆する人もおられるでしょう。
教会もまた、この世の教会でありますから、この時代、この日本という社会の枠の中で存在している組織ですから、そこに呼び集められている一人ひとりも、普段は、会社に勤め、学校に行き、家庭で家事のあれこれをし、ご近所付き合い、地域の方々との交流、家族との生活、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌からの情報と、水曜日や日曜日以外は、キリスト教の信仰をもっていない他の人々と接していることの方が多いのでしょうから、つまり、そういった意味では、教会もまた、世俗の中にあるということです。
ですから、教会においても、聖書以外からのものの見方、考え方が多分に入り込んでくるのです。そうして間違いを間違いを犯すこともあるでしょう。私たちは、ここは教会ですから、聖書がその基になければならないと考えます。しかし、一つのことを考えるにしても、聖書自体の中に、多くのものの見方、考え方が含まれていますから、これまた、そう簡単ではありません。
パウロもまた、コリントの教会内で、発生している問題について、復活したイエス様に出会わされた使徒としての自覚に基づいて、一信仰者として発言をしています。そして、そのパウロの考えと違うキリスト者たちがいて、その人々のことを頭におきながら、手紙を書いているということなのです。現代のほとんど、否すべてといっていいかと思いますが、教会が一つのことを行っていくに際し、同じ信仰者同士でありながら、いくつかの考えが出てくるようなことであります。
それはかつても今も変わらないのです。しかも、私たちの教派は、バプテスト派であり、民主的な教会運営を致しますから、それは、誰もが自由に発言していいのですから、意見が幾つも出るようなことは当然のこととして、起こりうるのです。
ただし、彼パウロの発言が、聖書に収められているという点において、私たちは、権威あるものとしてこの手紙をとらえつつ、彼の語る聖書の御言葉に耳を傾けていかねばならないのです。そして、このコリントの教会は、この手紙を送る4,5年前にパウロが開拓した教会でしたから、パウロ自身、今のコリントの教会はなっていないとは思いつつも、彼らに対する愛情もまた人一倍であったことは間違いありません。この手紙もまた、パウロの愛情の中にあって、書かれたものなのです。
コリントという都市は、当時は、貿易の中枢を担うような経済的にも発展した、だからこそ、道徳的にも廃頽的な町でありました。まさに、世俗のど真ん中に位置しているようなところでした。初代教会というのは、このような都市部に最初にできていきました。教会というのは、世俗とは関係のない、聖なる隔離されたところだとは教えられてはおりません。私たちは、世俗の中にあってこそ、輝くものでなければならないのです。暗闇でこそ、光は輝きます。あなたたちは、世の塩である、世の光である、とイエス様が言われた意味は、世俗の中にあってこそ、役割が果たされるということが前提になっています。
そういった意味では、コリントの教会は世俗の真っ只中にあり、パウロから福音がいかなるものかは教えられたものの、パウロが去ったのち、またもやかつての世俗のものの見方や考え方、当時流行していたグノーシスという思想の影響を受け、徐々に変質していったのでした。そして、いろいろな問題も起こり、それをどのような考え方に基づいて解決していっていいのかもわからない、そのような状態になっていたのです。そこで、コリントの教会のある人々が、パウロにコリント教会の実情を知らせ、それで、パウロがほんとうでしたら、すぐにでも出向いていって教会の人々と話をしたかったでしょうが、とりあえず手紙という形で、助言や自分の考えを述べているのです。
さて、今日の箇所は、その手紙の冒頭部分です。ここでパウロは、「神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロ」と自分のことを言ってます。使徒というのは、イエス様に遣わされた弟子というような意味をもっています。ただし、この使徒という言い方は、復活のイエス様に出会った者に限られていたようです。パウロもまた、生前のイエス様との出会いはありませんでしたが、復活のイエス様には出会わされましたので、自分のことを使徒と考えておりました。彼らの中にパウロは使徒ではないといって軽んじる者もおりましたので、パウロは自分は使徒であるということを冒頭できっちりと言う必要がありました。
この手紙の最初の方には、パウロと兄弟ソステネからとなっていますが、このソステネという名前が出てくるのは、使徒言行録の18章の17節です。「群衆は会堂長のソステネを捕まえて、法廷の前で殴りつけた」という記事があります。ソステネは、パウロがコリントで最初に伝道をしたときに会堂長をしており、パウロの協力者であったようです。もしこのときの同一人物であるのなら、それ以降、パウロと共に宣教活動にあたっていたのでしょうか。
とにかく、この二人から挨拶を送るという壮丁です。そして、その次からの挨拶文が、本心からパウロはそう思っているのだろうか、とちょっと疑いたくなるような、文言が書き連ねられています。「コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ」と、教会とその教会の一人ひとりのことをこのように述べております。
「神の教会」、「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々」、この修飾語が表しているように、ほんとうにパウロは、コリントの教会のことをそのように考え、教会の信徒の一人ひとりのことをそのように思っていたのか、ということなのです。それとも、単なる挨拶文に過ぎないのかということなのです。
私たちは、世にある教会は、神の教会であり、バプテスマに与った者たちは、聖なる者とされた人々である、と信じておりますし、むしろ、こうしたパウロのこの手紙の挨拶文から、その確信を得てきたのではないでしょうか。
つまり、教会というのは、救いに与った一人ひとりから成り立っております。それも、自分の罪を認めざるをえなかった欠けだらけの人間です。また、救われたからといって、完全になったのではなく、パウロも「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」(フィリピ3:14)と言いましたように、ただ、神様の賞を得ようと努めている者に過ぎません。ですから、そうした者の集まりですから、完全というのではないのです。しかし、それでもなお教会は、イエス・キリストを頭とする神の教会だというのが、聖書の主張です。エフェソの信徒への手紙の1章28節にも「教会は、キリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場所です」と述べています。
私たちの教会もまた、福岡市南区平和一丁目にある神の教会です。同じ教会に与えられた挨拶として、これらのパウロの言葉を受け入れたいと思います。
パウロは、4節で「あなたがたが、キリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています」と伝えています。神の恵みを受けたというのは、バプテスマに与ったということを意味しているでしょう。それは、イエス・キリストにあって、そのようなことが起こりえたということです。イエス・キリストの十字架があり、イエス・キリストの復活があった、そうした出来事を受け入れ、自分もまた、バプテスマにおいて死に、新しい命を受けた、そのような神様の恵みです。
そして、今、あなたがたは、そのイエス・キリストと結ばれることで、あらゆる言葉、あらゆる知識において、豊かにされている、と述べています。私たちは、イエス様と結ばれることによって、そのお方から栄養をいただき、この体を養っていただいています。魂の養いをしていただいているのです。
そして、9節で、「神は真実な方です。この神によって、あなたがたは、神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです」と言っています。私たちは、今、真実なる神様のお恵みによって、神の子となり、イエス様との交わりをいただいています。その交わりをいただいている生活というのは、「あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます」という、終末の希望、完成された者になるという希望を抱きつつ、送っている日々の生活でもあります。
ですから、世にある教会は、大きな枠としては、以上のように、その群れの一人ひとりはバプテスマへと導かれた者であり、イエス様とつなげられた者であり、終末に生きる希望を与えられた者である、という理解のもとにありますから、いろいろな問題が発生としていたとしても、そうした群れは神の教会と呼ぶにふさわしく、その中にある人々は、召されて聖なる者とされた者たちなのです。
だからこそ、そのような交わりをいただいている者だからこそ、教会が一致していない、ばらばらだ、性的道徳の乱れすらある、それではいけない、そういうことになるわけです。挨拶文では、まさに、あるべき私たちの姿が、パウロによって語られているのではないでしょうか。あなたたちは、そのような者たちなのですよ、と言っているのではないでしょうか。そのようにされている者たち、そのように恵みを受けた者たち、そのようなあなたがたであるゆえに「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」と、また祝福も述べられていると思うのです。
そして、早速、10節から教会の諸問題に対する見解が述べられていきます。教会は、いろいろな問題を抱えつつも、本来あるべき姿は、この挨拶文にあるようなものなのです。この大枠は、神様が恵みとして与えられています。そして、この大枠を真実なものとさせたいと教会は願うのです。しかし、同時に、世にある教会は、このコリントの教会と多少問題の質や種類は違っても、あまり変わらない歩みや誤りを犯してしまうものなのかもしれないのです。否、そうでしょう。世にある教会は、コリントの教会なのです。
だから、聖書に載っている意味もあるのです。反面教師としてのコリントの教会でありながら、それでもなお、神の教会ですよ、あなたがたがは召されて聖なる者となった人々ですよ、と言っているところに世にある教会への警告と励ましと慰めをいただくことができるのです。パウロは、コリントの教会を断罪してはいません。愛情をもって、手助けをしたいと思っているのです。神の教会だからです。神の教会としての立ち方をパウロは、求めているのです。私たちもまた、神の教会として、2010年の歩みをしたいと願わないではおれません。そして、神の教会と呼ばれるに相応しい実りをいただきたいと願います。
平良師