平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2016年5月8日 大バビロンが倒れた

2016-08-02 21:55:15 | 2016年
ヨハネの黙示録18章1〜8節
大バビロンが倒れた

 今日は、巷では母の日ですが、先ほども申しましたように、私たちの教会はこの日を「家族の日」としておぼえます。母親だけでなく、神様がお与えくださった血のつながりのある家族の一人一人に、また、教会に与えてくださった兄弟姉妹たちの家族一人一人に感謝を表すときとしておぼえます。そして、何よりも、その家族を神様が私たちに与えてくださったことを感謝するのです。
 家族には、いろいろな問題も起こりますが、それでも、愛によってその難題に立ち向かうことができますし、慰めや勇気も得られます。血のつながりはありませんが、神様の御心によって一つの群れとさせられている世にある教会も同じです。この平尾バプテスト教会につらなっているお一人お一人も、この教会の礼拝に集うように、神様によって導かれました。そして、家族と同じように、主の御業のために、力を合わせて、ご用に当たっていきたいと、教会生活を送っております。
 今年度になりまして、私たちはヨハネの黙示録をとおして、神様の御心に耳を傾けています。この黙示録には、初代教会の時代に、キリスト者たちがローマ帝国の迫害にあいまして、捕えられ、拷問にあう者や競技場などでライオンなどの餌食となり、処刑されたりした者もいたわけですが、そのような迫害と苦難のなかにあるキリスト者たちに、信仰を棄てず、何とか今のこの迫害の時代を耐え忍ぶようにとのメッセージが込められておりました。
 私たちは、今、この日本の社会のなかにありますが、世界を見渡してみるときに、どちらかというと平和に暮らしております。世界には、内乱のなかにある国もありますし、テロが日常的に行われている地域もあります。また、自由にものを言えない国もありますから、それらの国々に比べると、概ね個々人の平和な暮らしが守られています。ですから、それぞれの家族も、幸せに過ごしております。
 それでも、先日のような大きな地震によって、それまでの平和な生活が台無しになってしまったという方々もおられますので、戦争や内乱がないからといって、すべての人々が幸せかというと、そうでもないことがわかります。自然災害や何かの事故や事件に巻き込まれて、一瞬のうちに平和な日常を失った方々もおられます。それでも、戦争や内乱等がなければ、再建への道を踏み出すことはできますし、支援する側もお手伝いすることができます。
 しかし、一旦、戦争状態になったりしますと、人々の生活ぶりは一変します。個々の家族の生活はいろいろな制約を受けるようになって、過去の例から考えますと、息のつまるような不幸な暮らしが始まります。特に、緊急事態だからというので、市民のいろいろな権利や自由が奪われたりもします。国の命令で、行きたくもない所へ行かされ、したくもないことをさせられます。そして、自分の家族を失うことも起こってきますし、敵と見なす人々の命を奪うこともさせられるのです。
 家族でもいろいろな問題は起こりますし、一旦入った亀裂が、修復できないままになってしまうこともあります。それでも、家族である限り、何とか改善しようとしたり、双方が歩み寄ろうと努力をします。しかし、一方で、それらの家族のそうした関係回復の努力をも無惨に打ち砕くものがあります。
 それが、時の権力や国家がなす弾圧であったり、迫害です。また、それらのなす戦争であったり、内乱です。力なき民衆は、このような大きな力に巻き込まれて、それぞれにとって、決して小さくはない幸せを得られなくなったり、失ったりするのです。国や権力からすれば、それらはいと小さな幸せに過ぎないということになるのでしょうが、私たち一市民にとっては、そうではありません。
 また、私たち市民は、実にちっぽけな存在であり、国家や権力によって、浪間に揺れる木の葉のように、いとも簡単に命の危険にさらされたり、これまでの平穏な毎日が壊され、動揺させられたり、不安のなかに突き落とされる存在であることもわかります。
 初代教会は、ローマ帝国の迫害によって、イエス様を救い主として信じ、ローマ皇帝を神として拝むことを強要されたりしても、それを拒否するキリスト者たちもおりましたから、彼らは、捕えられ、拷問にあい、処刑されたりした者たちもいたのでした。イエス様を信じる者たちのなかには、家族すべてがキリスト者だった場合もあったでしょうし、その家族の一人だけが、そうであるということもありました。いずれにしても、キリスト者たちは大きな苦しみを背負うことになりました。
 ここに登場する大バビロンとは、かつて、イスラエルを滅ぼし、都エルサレムを壊滅状態にし、イスラエルの人々を捕囚として連れていったあのバビロンです。あのバビロンについて天使が叫ぶのです。「倒れた。大バビロンが倒れた」と。これは、ヨハネが見せられている幻です。あれほどに、栄華を誇り、強力だったバビロンが、倒れたのです。歴史的には、紀元前539年にペルシャのクロス王によって、バビロンは、滅ぼされたのでした。
 そして、この黙示録が書かれているのは、それから既に650年くらいはたっているのですから、どういうことなのかな、ということですが、それは、今の自分たちを迫害しているローマをあのバビロンにおきかえているのです。直接、ローマの滅びを口にすることは、さらなる迫害の危険が迫りますので、できませんから、それは、バビロンという言葉で、表現しております。
 そして、ヨハネは、幻のうちに大バビロンであるこのローマが、倒れたという天使の宣言を聞いたのでした。それは、ある意味では、解放の知らせでした。このローマの都を、聖書は、「悪霊どもの住み家、あらゆる汚れた霊の巣窟、あらゆる汚れた鳥の巣窟、あらゆる汚れた忌まわし獣の巣窟」といっています。そして、そこに住む、すべての国の民、地上の王、地上の商人たちの都における悪行と堕落した姿について触れています。
 そして、都全体にもたらされる裁きが、5節から以降、述べられています。都市は、女性名詞ですので、女性にたとえられますから、ローマの都は、罪にまみれた堕落した女性として描かれています。そして、この都に住み、一方では、貧しい者たちを収奪し、キリスト者たちを迫害するローマの権力者たち、そして、それにこびながら利益をむさぼってきた商人や船乗り、技術者、文化人たちの間に、大きな嘆きの声がわきあがっているのです。そして、一日のうちに、あっというまに、さまざまな災いが、このバビロン、つまり、都ローマに襲い掛かり、一瞬のうちに、滅び去ってしまうのでした。
 「ぜいたくに暮らした地上の王たちは、彼女が焼かれる煙を見て、そのために泣き悲しみ、彼女の苦しみを見て恐れ、遠くに立ってこう言う。『不幸だ、不幸だ、大いなる都、強大な都バビロン、お前は、ひとときの間に裁かれた』。」地上の商人たちも泣き悲しみます。
 それは、彼らの商品を買う者が誰もいなくなったからでした。そして、船長や沿岸を航海するすべての者、船乗りたち、海で働いている者たちも、これほどの大きな都が他にあったかと嘆き、海に船を持つ者が皆、この都で、高価な物を取引し、豊かになったのに、ひとときの間に荒れ果ててしまったと悲しむのでした。
 そして、こう天において語られます。「天よ、この都ゆえに喜べ。聖なる者たち、使徒たち、預言者たちよ、喜べ。神は、あなたがたのために、この都を裁かれたからである。」また、楽器を演奏したり歌を歌う者たちも、もう都のうちに自分たちの演奏を聞く者たちはいなくなったと悲しみます。それから、あらゆる技術者たちも、この都からいなくなり、粉を引く臼の音や、灯の光もなくなり、花婿や花嫁の楽しげな声も聞かれなくなってしまった、とあります。日常の幸せな風景が、都からなくなってしまいました。
 それらの理由として、なぜなら、一つには、都に住む商人たちが、地上の権力者となったからだと言います。経済力のある裕福な者たちが、権力をとるようになった、また、魔術(占い)などの横行で国の人々が惑わされてしまった、また、預言者たちと聖なる者たちの血がこの都で流された、つまり、迫害での拷問や処刑により殉教したキリスト者たちの存在がありました。また、地上で殺されたすべての者の血が、この都で流されたとも言っています。
 ローマは、他国との多くの戦争によって、多くの人々の血を流してきておりました。ヨハネは、このローマの都が、瞬く間に、滅び去っていく姿を見せられたのでした。そして、その都で、利をむさぼっていた者たちの嘆き悲しむさまを見たのでした。
 4節に次のような言葉がありました。「わたしの民よ、彼女から離れ去れ。その罪に加わったり、その災いに巻き込まれたりしないようにせよ」。彼女というのは、バビロンですが、キリスト者たちが、迫害に遭っていた頃は、ローマ帝国が繁栄していた時代でした。一方においては、ローマの豪勢な繁栄、貿易も盛んで、多くの技術者が集まり、音楽などの文化的なものも盛んになされていました。
 しかし、一方では、キリスト者たちに対する、厳しい迫害がなされていたのです。そのときに既に、ローマの滅亡を聖書は予見しておりました。ローマの滅亡は、あっという間にやってくることを告げておりました。神様の怒りにふれ、裁きがなされるのです。国が滅びるときは、このようなものだと聖書は述べています。「わたしの民よ」とは、神様に従う者たちのことを言っております。「彼女から離れ去れ」。
 ローマとかかわりを持たないように、その都から遠ざかりなさい。その都の繁栄にかかわらないように、都でなされていることにかかわりを持たないように、ということです。「その罪に加わったり、その災いに巻き込まれたりしないようにせよ」。
 5月3日は、憲法記念日でしたが、日本国憲法は、国家のなす戦争を禁じています。当然国家が武器を持つことすら許しておりません。一個人が、怒りのあまり、他者に暴力を奮うことは許されないのに、また、あるものが欲しいあまり、他者のものを奪うことも許されないのに、それらをいろいろな理屈をつけて可能にしていくのが国家です。戦争においては、このようなことも平然となされていきます。日本が行った前の戦争のときもそうでした。国のなす悪行に巻き込まれないようにしなさい、これが、聖書が私たちに教えていることです。
 戦争は、すべての悪の根源となります。戦争になればすべての自由が奪われます。それぞれの家族のささやかな幸せも奪われることになります。国家は、繁栄を願います。社会も経済的な繁栄を飽きることなく求め続けます。それは、当時のローマもそうでした。
 弱い者たちから多くを収奪していく構造がありました。大きな格差が生じておりました。世のことがらに対して、どっぷりそのなかにつからぬように、ある程度の距離をとることを教えられます。国家同士では、自分たちだけの利益を考えようとすれば、自ずと、利害の衝突が生まれ、戦争に突入していくことにもなりかねません。ですから、聖書は、私たちに、「わたしの民よ、彼女から離れ去れ。その罪に加わったり、その災いに巻き込まれたりしないようにせよ」と教えているのです。
 いくつかの国々は、核兵器を持てば、互いに牽制し合って、相手が簡単に武力を用いて自国を攻撃することができなくなると考えています。日本が平和を築いていくべき武器は、決して核兵器などはなく、それは憲法九条です。まさに、この憲法を守ることによって、私たちは、国家が犯す罪に加わることから遠ざけられ、災いに巻き込まれることから逃れうるのです。
 私たちは、いつまでも家族そろって平和な社会で生きていきたいと思います。教会の神の家族たちもそのことを願います。そして、それぞれの将来の希望や夢に向かって、歩みを続けていきたいと思います。それができるのは、戦争や内乱、紛争などのない社会です。それを可能ならしめるのは、日本の社会では憲法です。
 特に、戦争のない社会ということでいうと憲法9条です。憲法9条は、一方的な非戦、無軍備を世界に宣言しています。また、この憲法の前文は、かなり積極的な平和主義に貫かれています。「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」。
 私たち日本国民は、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼するという形で、自分たちの安全と生存を保持しようと決めたのです。それは、諸国民を信頼しますという宣言なのです。一方的にこの日本に危害を加えるようなことをする国があるはずがない、という、かなり高い理想を掲げての宣言なのです。これは、あのイエス様のお言葉、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」という教えに、相通ずるものがあるでしょう。相手がどうであろうと、自分たちはこの立ち位置で行きますから、あなたがたを愛し、たとえこちらに危害を加える者だろうと、愛しぬきますからという強い姿勢です。
 聖書は、たとえどのような迫害にさらされようと、その迫害する者たちのために祈り、自分たちは悪に加担することなく、平和主義を貫くことを教えています。そうすることで、神様の守りを得るように、家族のささやかな幸せも得られるように、勧めております。それがキリスト者たちのやり方であると、教えられています。家族の日、それぞれの家族一人一人の幸せを願います。教会員ひとり一人の幸せを願います。私たちは、主の教えに従うことで、それを得たいと思います。


平良 師

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