宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

『白村江の真実、新羅王・金春秋の策略』中村修也(1959-)吉川弘文館、2010年

2017-06-23 18:03:30 | Weblog
プロローグ 白村江への道
(1)7Cの東アジア:隋唐、高句麗、百済、新羅
A 新羅:金庾信(キンユシン)将軍と金春秋王子(後の武烈王(654即位))。
A-2 金庾信の妹・阿之(アシ)(後の文明(ムンミョン)王后)が金春秋の妻となり、長男・法敏(ポンミン)(後の文武王)を生む。
B 百済・義慈王、641年即位。
C 589年隋が中国統一、612隋の第1回高句麗遠征。
C-2 618唐建国。
C-3 660百済滅亡(唐の百済攻撃による)。
C-4 663白村江の戦い。
C-5 668高句麗滅亡(唐の第3次高句麗遠征による)。
C-6 その後、新羅による半島統一。(※676)

(2)倭と朝鮮半島
D 日本、600遣隋使。しかし冊封体制に入らず。
D-2 理由は、日本は、隋に保証してもらうべき朝鮮半島内の権益を、すでに失っていたため。
E 4C-5Cの倭の五王時代(倭王政権)は、朝鮮半島内に権益があった。
E-2 倭の五王は《西日本+加羅諸国》を領域とする。
E-3 朝鮮半島より南の勢力が、中国では倭と呼ばれた。
E-4 倭=大和朝廷ではない。(鬼頭清明説)
F 6世紀のヤマト王朝(大和朝廷)が、倭王権を併呑した。
F-2 そして、朝鮮半島の権益をひきつごうとして、「任那の調」をしつこく要求した。
G 推古朝になると、600遣隋使の「日出処の天子」と、半島内の権益と決別。冊封体制から離れ、独立国の宣言。

(3)朝鮮半島内に権益がないのに、日本が白村江の戦いへ参戦したのは、なぜか?
H 新羅の金春秋王子(後の武烈王)が、日本をこの無謀な戦いに参戦させた仕掛け人だった。このことが本書の主題!
H-2 7C、新羅は、高句麗および百済から攻撃を受け続けていた。
I 金春秋(武烈王):叔母が新羅の善徳女王(位632-647)。
I-2 金春秋:642高句麗へ行く(対百済戦への救援要請)。647日本に来朝(日本を反唐路線へ向かわせようと外交工作)。648唐に行き対百済戦出兵依頼。


第1部 金春秋の活動
第1章 大耶城の陥落と金春秋の高句麗出向(642)
A 642百済が、大耶城を陥落させる。金春秋の娘(城主の妻)が殺される。
A-2 金春秋が高句麗に出兵を依頼しに出向。
B 百済は、武王(位600-641)になって、新羅への侵攻、活発化。息子・義慈王(位641-660、百済最後の王)も方針を継ぐ。
B-2 北方(対高句麗)の膠着状態のうちに、百済が、南部(対新羅)に侵攻。
C 新羅はジリ貧状態。百済と高句麗は秘密同盟あり。
D  642金春秋による(高句麗訪問):高句麗は、新羅への援軍要請を拒否。
D-2 高句麗は、唐による侵攻を最も恐れていた。

第2章 金春秋と日本:対唐戦略
E 百済・義慈王:高句麗と唐の戦争が終わるまでに、百済が、新羅を併呑したい。
E-2 金春秋の見通し(642):唐は、高句麗制圧のあと、朝鮮半島全体を勢力下に置くはず。新羅による半島統一以外、生き延びる道はない。
F 唐の第1次高句麗遠征(644-645)に合わせ、百済が新羅攻撃。新羅の将軍金庾信(キンユシン)が防戦。
F-2 金春秋、647倭国へ向かう。倭国を反唐路線に向かわせたい。
G 643新羅が、唐に対百済戦の援軍を請うと、唐が「女王はやめ、男王を送ってやる」との案を示した。唐による新羅乗っ取り策。
G-2 新羅で、647善徳女王が死去し、妹の真徳女王が即位。
G-3 唐の意図は、半島全体の支配だと、明確化。

第3章 金春秋の日本訪問(647)
H 新羅・金春秋の戦略:百済・高句麗連合軍の攻撃から逃れ、引き入れた唐の大軍からも独立する。
I 金春秋、647来朝。金春秋は、日本・孝徳朝の親唐路線を、反唐路線に変えたい。
I-2 日本は、乙巳の変(645)で、皇極女帝を廃し、孝徳朝(男王、軽皇子)に変わる。
I-3 孝徳は親唐路線。金春秋にとっては、倭の親唐路線は、唐と日本による新羅挟撃の可能性を生み、阻止したい。蘇我入鹿は、百済中心だった。
(Cf . これに対し、蘇我氏は、唐への危機感から、唐との協調路線。乙巳の変(645)は、「百済重視」の中大兄ら保守派が、「開明派」蘇我氏を倒したとの説もある。)

第4章 金春秋(後の武烈王)の帰国(647)と仮想新羅会議:長男法敏(ポンミン)・将軍金庾信(キンユシン)・真徳女王
J 日本・孝徳朝(645)は、親唐路線で、また基本的に、朝鮮3国に対し、不可侵の姿勢。
J-2 高句麗の滅亡は、半島(百済・新羅)の滅亡に至ると、金春秋の見通し。
K 金春秋の新羅による半島統一戦略
①新羅が、百済に滅ぼされないため、唐から援軍を呼ぶ。
②日本・孝徳大王の親唐路線は、新羅に不都合。唐と戦う時、倭国からも攻められ、まずい。
②-2 かくて倭国を反唐勢力に転換させ、半島の戦乱に巻き込む。
③倭国に、唐への不信感を持たせる。唐は半島侵略のあと、倭国も侵略すると、思わせる。
③-2 倭国にいる百済の豊璋王子(義慈王の子)とともに、倭国を反唐戦争に参加させる。
④百済王室とは戦うが、百済の国民とは戦わない。後者は将来の新羅の国民である。
④-2 百済を滅亡させたのは、(対百済戦援軍の)唐だと思わせ、新羅軍は目立たないようにする。


第2部 新羅をめぐる唐と日本
第1章 金春秋の入唐(648)と百済の滅亡(660)
(1)金春秋の入唐(648)
A 金春秋は、新羅生き残り・半島統一の戦略を、法敏、仁問、さらに庶子の文王にも告げる。650年から3人を順に入唐させ、皇帝につかえさせた。
B 648金春秋が入唐。唐・太宗が歓迎。金春秋が、唐に対百済戦の援軍を頼む。
Bー2 唐に取り入るため、金春秋が、新羅の服制を、唐の制度に変える。
Bー3 太宗は対百済戦の唐の援軍派遣をOKするが、なかなか履行しない。
C 649太宗が死去し、高宗が即位。
Cー2 654金春秋が武烈王として即位。
D 日本では孝徳の親唐路線で、654高向玄理らが琥珀・瑪瑙を唐に献上。
E 655高句麗・百済・靺鞨(マッカツ)軍が新羅を攻撃。武烈王の要請で、658唐は高句麗攻撃。
E-2 しかし唐は、百済の新羅攻撃には冷淡。
E-3 武烈王は、焦る。唐による高句麗征討終了前に、唐軍の百済出兵を引き出さねばならない。

(2)百済滅亡(660)
F 660唐(高宗、蘇定方)が百済を滅亡させる。新羅軍と連携。
Fー2 百済・義慈王など百済王室全員が、唐に連行される。百済の残存勢力が担ぐべき王族がいなくなる。
Fー3 義慈王の城だけ降伏し、他の百済の諸城は無傷。
G 新羅・武烈王は来るべき唐との決戦を想定。
①百済の都だけを攻撃。百済全土を壊滅はしない。
②百済王室を倒したのは唐で、義慈王の城の包囲戦に、武烈王は参加せず。百済を倒したのは唐だとイメージづける。
③新羅に恭順すれば、百済貴族を優遇。
④「敵は唐だ」と百済人に知らしめる。

第2章 則天武后の登場(655皇后となる):百済遠征軍派遣の決定
H 百済の義慈王は、唐と新羅の連合を予想していなかった。
Hー2 百済は、唐による百済出兵を、高句麗討伐後と考えていた。
Hー3 高宗は、百済侵略情報を、慎重に隠した。
I 高宗は高句麗問題の画期的転換をねらった。
Iー2 655則天武后が皇后となる。太宗以来の忠臣を排除。病弱な高宗の背後で、武后が政務を指図(垂簾の政)。Cf.683高宗没後、武后が自ら政務を決済。
J 唐滞在の新羅の王子・金仁問の建言:対高句麗戦で新羅が先兵として協力する。百済が高句麗と結び、邪魔している。百済遠征軍を出してほしい。
J-2  新羅・武烈王の戦略:百済滅亡後、唐の対高句麗戦に参加。その後、半島から唐勢力を排除。

第3章 斉明朝(655)の外交:親唐路線の否定と白村江の戦い(663)
(1)斉明朝(655)の反唐路線
A 孝徳天皇(斉明の弟、軽王子、645乙巳の変クーデターで政権につく)が死に(655)、有間王子がまだ20歳くらいだったので、斉明(皇極)天皇(中大兄王子30歳の母)が重祚する。(655)
A-2 孝徳の親唐路線(都・難波)否定。斉明は反唐路線(都、大和にもどす)。
A-3 新羅は喜ぶ。唐と日本による挟み撃ちはない。武烈王の戦略通り。
B 斉明は遣高句麗使節も送り、孝徳の親唐路線は水泡に帰す。
C 中大兄は、単純に、叔父・孝徳の路線を否定しない。
Cー2 中大兄は近江令編纂中。豪族合議制から律令制への移行をめざす。
D 新羅・武烈王:日本が唐に参戦したら、唐は日本への抑止力として、新羅を存続させるだろう。

(2)百済滅亡(660)と斉明朝の百済復興軍派遣決定(660)(Cf. 663白村江の戦い)
E 660百済滅亡。唐が日本にまで触手を伸ばすかが問題。
E-2 唐の関心は高句麗征討にある。
E-3 百済の鬼室福信が、「豊璋王子を返還してほしい」と要請。また「百済へ救援軍を派遣してほしい」と述べる。
F 斉明は、百済救援、つまり百済復興軍への支援に応じる。
Fー2 本来、日本が百済を救援・復興すべき理由はない。
G 日本軍はせいぜい1万人。
Gー2 しかし、何もしなくても、唐に攻められる可能性がある。
Gー3 冊封体制に入っても百済のように滅ぼされる。
Gー4 かくて斉明・中大兄は、対唐・対新羅戦へ。

(3)斉明朝の百済復興軍への救援軍派兵(660派兵決定、Cf. 663白村江の戦い)は必要だったのか?
H 鬼頭清明説:①百済との友好関係、②百済にあった権益(「新羅の調」)維持のため、③大和朝廷の権力集中のために対外戦争が必要。
H-2 反論:しかし対唐戦勝利の可能性があったのだろうか?
I 森公章説:①百済の王子・豊璋が、「質」として倭国に滞在していたので、受動的に参戦。②東アジアの情勢に疎かった。つまり対新羅戦としてしか考えず、唐との戦いを考えていなかった。
I-2 反論:斉明天皇はともかく、中大兄が参画しており、外交はよくわかっていたはず。
J 遠山美都男説:斉明朝の小中華主義。国内の夷狄(イテキ)征圧(阿部氏の東北遠征)。さらに朝貢する百済の創出。
J-2 反論:しかし唐軍に勝利する可能性は低い。
K 著者・中村修也説:金春秋(武烈王)の新羅生き残り・半島統一戦略(唐の支配を排除し、統一新羅を形成する)のもとで、日本が対唐戦に巻き込まれた。

第4章 武烈王(金春秋)の死(661)とその後の新羅
(1)661(1-3月)唐の第2次高句麗侵攻
L 660百済滅亡。
L-2 661武烈王死去、文武王(王子法敏)即位。
L-2 斉明も661死去。中大兄が称制。(668即位し天智となる。)
M 661唐が新羅に、高句麗遠征への呼応を命じる。
M-2 661(1-3月)唐の第2次高句麗侵攻は、高句麗の淵蓋蘇文が撃退した。

(2)中大兄の軍事情勢判断(661中頃時点):百済復興軍に救援を送る
N 唐の最終目標が日本なら、百済復興軍(百済残党軍)を支援する。
N-2 唐・新羅連合軍と日本は戦えるか?①武烈王が死去した(661)、②唐軍は高句麗に敗退(661)、③百済残党軍は強力である。①②③より、百済復興軍に救援を送るのが、半島の勢力バランス上有利と、中大兄が判断。
N-3 実際には、①武烈王死後も新羅は動揺せず。②高句麗を支えていた淵蓋蘇文は、その後665死去、668高句麗滅亡。

(3)新羅・文武王(法敏)の新羅統一戦略(661中頃時点):武烈王(金春秋)の戦略(642)を踏襲
O 唐の高句麗遠征要請に応じ、新羅・文武王661年8月出発:金庾信(キンユシン)大将軍。
P 統一新羅のため、文武王は人材育成。
P-2 降伏した百済の敵将にも官位を与え優遇。百済官人を取り込む。
P-3 662年3月百済人に対し大赦。
P-4 百済王室は排除するが、百済貴族は残す。敵は、唐である。
Q 武烈王から文武王に引き継がれた戦略:日本を唐の味方にしてはならない。日本と唐が協力し、新羅を挟撃するのを防ぐ。
Q-2 日本が対唐参戦するまで、百済復興軍に、頑張ってほしい。新羅が、百済復興軍に勝ち過ぎてはいけない。
Q-3 だが実は、百済復興軍は強い。


第3部 白村江の戦い(663)の記録
第1章 唐・日本の軍事規模と戦いの様子
A 白村江の戦い(663)で、唐軍と戦った日本軍1万人が死ぬ。日本を唐と戦わせることを目指した、新羅武烈王(金春秋)の遠謀が達成された。

(1)『旧唐書』巻八三「列伝」第三四「劉仁軌伝」の記述
B 百済に戻った王子余豊璋が、百済残党の中心貴族・鬼室福信を殺す。百済復興軍はこの内紛で戦力が低下し、日本と高句麗に旧援軍を求める。
B-2 対百済復興軍戦のために、唐は孫仁師を援軍として送る。在百済の唐・劉仁軌軍と合流。唐・新羅軍が、陸・海両面から百済復興軍の周留城を攻める作戦。
B-3 唐の海軍・劉仁軌軍が、移動の途中、白村江で倭国軍と、偶然遭遇。4度の海戦に唐軍が4度とも勝利。倭国軍の船400艘を焼く。白村江は敵兵の血の色で真っ赤となった。(663)

(2)『日本書紀』の記述
C 663・3月、日本軍2万7000人で新羅討伐。(中村修也説:実際には陸戦はなく、水軍1万人のみと推定。)
C-2 8月、日本の水軍(規模は書かれていない)と大唐が白村江で戦う。日本は、大敗した。

(3)『百済本紀』の記述
D 百済復興軍は、王子・余豊璋を王に推戴。
D-2 これに対し唐軍は、将に同じく百済義慈王の王子扶余隆を据える。百済復興軍を、惑わすため。
D-3 百済復興軍敗退(663)後、百済に新羅支配が浸透する。王子扶余隆は、劉仁軌たちとともに長安にもどる。

(4)『新羅本紀』の記述
E 663、陸上戦では、唐(孫仁師)・新羅(文武王)連合軍が、百済復興軍を破り、王子・余豊璋が、逃亡。
E-2 663、海上戦では、唐軍(劉仁軌)が、白村江の戦いで、日本軍を破る。
E-3 日本軍は、唐軍とだけ戦い、新羅軍と戦っていない。

(5)『旧唐書』巻四「本紀」第四「高宗(上)」には白村江の記述は1字もない
F 唐は、そもそも日本が、この百済復興軍征圧戦に参加するとは思っていない。唐は、日本に、関心がない。
(※白村江の戦いは偶発戦で、かつ日本は大敗し唐は全く被害がない。だから『旧唐書』「本紀」では、白村江の戦いは、無視された。)
F-2 そもそも唐が百済を討ったのは(660百済滅亡)、百済が対新羅戦で高句麗と同盟関係になったため。
F-3 唐にとって半島問題の第一は、高句麗問題だった。

第2章 白村江の戦い(663)の余波
G 唐軍の捕虜となり、唐に移送され、その後、日本に帰国したものあり。(671、684、690年)

エピローグ 東アジア動乱の中の選択肢(7C)
A 唐による百済・高句麗の制圧といっても、それは間接支配なので、新羅が、百済・高句麗の旧王族を取り込めば、唐と対抗できる。かくて新羅による半島統一の成功。
B 日本の二つの選択肢。
①親唐路線こそ、賢明だったはずである。
②ところが、国力・軍事力の強大な唐と白村江で戦ってしまった(663)。反唐路線の決定は、斉明朝(660)。
B-2 斉明朝による反唐路線決定(660)の理由。
(a)新羅の情報戦略の成功。(金春秋の遠大な計画)
(b)百済復興軍の優勢。
(c)反孝徳路線(Cf . 孝徳は親唐)という斉明天皇の感情論(反唐路線)。
C 新羅が半島で第一等となるが、勝ち過ぎてはいけないという難題をこなしたのは、金庾信(キンユシン)将軍。
C-2 結局、642年の金春秋(後の武烈王)の構想が実現し、百済滅亡(660)、日本が唐と白村江で戦い(663)、高句麗滅亡(668)し、新羅による朝鮮半島統一が実現した。
(※唐が吐蕃と戦争している隙に、676新羅が唐の行政府・警備部隊を奇襲。旧百済領と旧高句麗領南半分を合わせ朝鮮半島統一。統一新羅時代開始。)

あとがき
D 著者中村修也氏は、かつて、山尾幸久『日本国家の形成』(岩波新書)、井上秀雄『任那日本府と倭』を読み、目から鱗の経験をした。

《感想》
(1)
かつて7C、日本は後進国だった。軍事力劣勢、国力劣勢。
ただし個人レベルでは、後進国日本の出身でも、先進国の個人と並ぶ、あるいはそれを凌駕する優秀な者もいた。
(2)
どこまでを、自分の仲間(対等な人間)と見れば、良いのか?
日本国内では、東夷は、仲間なのか敵なのか?
奴隷、非自由人は、(対等な)人間でない。
(3)
国家を単位に、まとまるのは、なぜか?
豪族・貴族・地元有力者たちが、自衛のため、連合政権として国家を作る。
(4)
国家とその軍事力は、当然にも、必要なら、略奪の装置として使われる。
(5)
すでに作られた帝国、あるいは強国が、弱体な国を征服、簒奪、破壊し、住民をすべて奴隷化する。
人類は、殺し合う。
権力者に顕著だが、傲慢、虚栄、高慢、名誉のため、人は生きる。
弱みを見せれば、征服され、支配され、奴隷化される。
かくて人類の歴史は、残酷、不条理、凄惨、野蛮である。
(6)
安全、衣食住の安楽は、人にとって必須である。
(7)
文明、平和、公正、公平は、どのようにして成立するのか?
それらは、人類の歴史における奇跡だ。

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