『はつかいち』 ぶらり

安芸の宮島の地・・・廿日市を見たまま紹介―独自の好奇心アンテナを張り巡らせて、ビビッと反応したものを紹介します。

天満宮-奉納絵馬

2020年02月14日 | 「廿日市地区」ぶらり



天満宮の拝殿には多くの絵馬が掲額されており、その中に神楽舞の「荒比羅」が描かれた絵馬がある。この絵馬は近代日本画壇の巨匠川合玉堂の門人で廿日市の画家吉村南良が昭和32年(1957)の77歳(喜寿)の時に描いて長寿記念として自ら奉納したもののようである。吉村南良は帝国絵画番付によると大正5年(1916)に地方の部優秀画家、大正9年(1920)、大正10年(1921)、大正12年(1923)には独立大家として記されている。

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天満宮-新春書道展

2020年02月13日 | 「廿日市地区」ぶらり

 

 

 



天満宮といえば梅であるが境内にみられる紅梅、白梅の花が満開であった。拝殿内では新春書道展が今月末まで開催されており、廿日市市内の小中学校20校から1775点が出展されたようで、それらの内の秀作が展示されている。ミミズの這ったような字を書く当ブログ主に似合わず孫は・・・

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厳島神社-高舞台擬宝珠

2020年02月12日 | 「宮島地区」ぶらり

 

 



厳島神社高舞台の勾欄親柱二ケ所の擬宝珠に「奉鋳木帽子八内旦那当社棚守左近将監房顕 干時天文拾五年丙午六月吉日敬白」と刻銘がみられる。鋳造者名は刻されていないが野坂文書に「・・・右、為厳島舞台きほうし代、棚守左近衛将監殿遣方・・・天文十五年五月七日 久枝二郎三郎綱家」とあるので、天文15年(1546)に廿日市鋳物師の久枝綱家が鋳造したことがわかるのである。高舞台に取り付けられている擬宝珠は複製品であり現物は先日紹介した宝物館に展示してある。
この他に久枝綱家の鋳造作品で生見の鉄燈籠が岩国市美和町の美和町歴史民俗資料館に保存展示されている。

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巨大大根が ‼

2020年02月11日 | 農業



今冬、暖冬の影響であろうか巨大な青首大根が出来た。葉が付いた画像の状態での重さが7.2kg、大根の長さが64cm、太い部分の周囲が44cmであった。時折り紹介している廿日市15代目桜島大根は約200m位離れた所にある別の畑で栽培しているので桜島大根との交配は考えられないのである。(ハッサク比較)

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旧陸軍被服支廠倉庫《保存・解体》

2020年02月10日 | 建造物

 

 

 

 

 

 


広島市南区出汐2丁目に旧陸軍被服支廠倉庫が4棟残されている。被爆建物でこれから保存・解体についての議論を深めていくとのことである。
明治27年(1894)の日清戦争で広島大本営が置かれて陸軍糧秣支廠、兵器支廠、被服支廠などが設置され、大正2年(1913)にこの被服支廠倉庫が竣工したようである。一見煉瓦造のようにみられるが躯体は鉄筋コンクリート造で外部に煉瓦積みとされたものである。内壁にブロック積みがみられるが、戦後に倉庫で使用されていた頃に積まれたものであろうか。内部画像は平成13年(2001)に当時所属していた団体の見学会で写したものである。

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宮島地域拠点施設整備工事の今

2020年02月09日 | 「宮島地区」ぶらり

 



市宮島支所(旧宮島町)庁舎の取壊しについて以前紹介したが、現在市民センター(公民館)、コンベンション、観光振興、避難施設などの機能をもった地域拠点施設の建築工事が行われている。後方の鉄骨構築物は既設庁舎の撤去搬出、施設整備工事の建材搬入などのための仮設構築物で、山側からでないと島内道路の使用が難しいためのようである。

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厳島神社-宝物館

2020年02月08日 | 「宮島地区」ぶらり

 

 

 



宝物館は厳島神社社殿、大願寺、多宝塔などの歴史的建造物群の中にあり、伝統的な木造の社殿建築を模した鉄骨鉄筋コンクリート造の建物で、昭和9年(1934)に竣工している。屋根軒裏の隅木・垂木や丸柱の上部には出三ツ斗・平三ツ斗や蟇股・舟肘木などの組み物などが木造社殿建築に模して造られている。

下画像は当宝物館の立面図青写真で、当ブログ主が若いころは設計図をこのように青写真複写していたのである。

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佐方サービスエリアの今

2020年02月07日 | 「廿日市地区」ぶらり

 

 

 

 



国道2号線西広島バイパスに設けられている佐方サービスエリアの現在で、上下線のサービスエリア内にあった食堂、売店、自販機やガソリンスタンドなどが老朽化により取り除かれて更地となっている。
現在トイレのみ残されているのであるが多くの車がみられ途中休憩をされているのであろう。

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厳島神社-神馬舎

2020年02月06日 | 「宮島地区」ぶらり

 




厳島神社の東廻廊入口前にある神馬舎で中にはレプリカの白神馬がみられる。当ブログ主が小学生の頃は白神馬が飼育されていたのを覚えている。江戸期にはこの地に湯立殿があり明治期に神馬舎が設けられたようである。それ以前の神厩は多宝塔の下付近にあったようで、この付近の町名は御馬屋町だったようである。 (神厩絵図-厳島図会より)

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池浦岩鼻のトンネル

2020年02月05日 | 「宮島地区」ぶらり



昨日紹介した宮島桟橋待合所前広場の前にある潜龍門を過ぎると池浦で、池浦と長浜との間の岩鼻にもトンネルがあるが現在は閉鎖されており、照明用であったのか電気配管がみられる。このトンネルも大正時代に長浜方面への道として築造されたものとみられるが詳しいことは不明である。現在トンネルの先である長浜側は侵食されたのか道路の痕跡も残っておらず断崖となっている。

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工事中の潜龍門

2020年02月04日 | 「宮島地区」ぶらり

 

 

JR宮島口駅前から突当り桟橋までの本土側県道43号線


宮島桟橋待合所前広場の道路向かいに潜龍門という小さなトンネルが見られ、現在修繕工事が行われていた。
潜龍門は長浜方面へ行くために大正期ごろ要害山の尾根先(行者山)に設けられたもので、看板表示によると新しく道路が築造された現在でも主要地方道厳島公園線(県道43号)のようである。厳島公園線(県道43号)の起点はJR宮島口駅前で宮島口桟橋から宮島桟橋までは海上区間である。

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速谷神社-湯立神事・節分祭

2020年02月03日 | 「廿日市地区」ぶらり

 

 

 

 



昨日、速谷神社において昨年再興された湯立神事が行われ、鬼遣(おにやらい)儀式など節分祭が行われた。速谷神社の湯立については厳島野坂文書の毛利隆元書状に「早田社江立願之事、御湯立七年可進之由得其心候、即従今月可遂其節候」とあり、毛利隆元が早田社(速谷神社)の湯立を七年に亘り今月より執り行うよう寄進をしている。斎館の神楽殿前では年男・年女の人々により豆撒き・餅撒きが行われて、参詣者に御久米が配られた。

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JR宮島口駅の跨線橋

2020年02月02日 | 「大野地区」ぶらり

 

 




JR山陽本線の宮島口駅の線路上に架けられている跨線橋で、古レールを使用しリベット接合されたレトロな跨線橋であるが、厚い塗装で古レールの刻銘は読み取ることが出来ない。

かつてのJR廿日市駅の跨線橋には昭和9年(1934)及び昭和10年(1935)に八幡製鉄所で製造された古レールが使用されていた。数年のうちに取り壊されるであろうJR己斐駅の跨線橋には明治30年(1897)に米国CANEGE社で製造の古レールが使用されている。

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厳島神社-火焼前

2020年02月01日 | 「宮島地区」ぶらり

 



厳島神社の平舞台から沖に伸び出した部分を火焼前(ひたさき)と呼ばれている。元禄15年(1702)の厳島道芝記には「沖の方に造り出し名付けて舌先といふなり」とあり、天保13年(1842)の厳島図会には「廊嘴(したさき)、・・・俗に是を舌先とよぶ」とある。明治期になってから絵図などに火焼前と記されており、どのような経緯で舌先が火焼前表記となったのであろうか。

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