明日は管弦祭なので地御前神社鳥居前の広電宮島線線路内に仮設の踏切り工事が行なわれていた。
線路の両側にある石積みは地御前海岸駅跡で、かつて地御前海岸は海水浴場で海水浴専用電車があったようである。後に管弦祭の日に開設されていた臨時駅の跡である。いつ頃か不明であるが7月7日から8月31日まで開設利用されていたようである。
明日は管弦祭なので地御前神社鳥居前の広電宮島線線路内に仮設の踏切り工事が行なわれていた。
線路の両側にある石積みは地御前海岸駅跡で、かつて地御前海岸は海水浴場で海水浴専用電車があったようである。後に管弦祭の日に開設されていた臨時駅の跡である。いつ頃か不明であるが7月7日から8月31日まで開設利用されていたようである。
五日市町並みにみられる町屋で軒下の犬走りに鉄骨製の現在の駒寄せが設けられていた。
連続的な家並みの正面意匠に装飾的な要素を与えるもので、軒下の空間を通りから区切るために木柵を設けているものであるが・・・
栗栖地区のはずれにある栗栖川発電所の導水管で小瀬川部分はトラス橋で掛け渡されている。
この発電所は中国電力の前身広島電気が昭和6年(1931)3月に着工して翌年(1932)10月に竣功しているので、このトラス橋はその当時のものとみられこの地域では古いトラス橋とみられる。
原地区の伊勢神社に奉納されている絵馬で「一谷嫩軍記・三段目・熊谷陣屋・熊谷桜の段」が描かれているようである。
源義経と「一枝を伐らば一指を切るべし」という制札を持った熊谷直実を描いた三段目・熊谷陣屋の名場面とみられる。
洞雲寺本堂西側にある池の中に祀られている厳島神社で、この神社は寺院の土地や境内、建物などの護り神として祀られているものである。
江戸期の紀行記によると鎮守厳島社に弘安4年(1281)開田庄中金屋が願主の鰐口が架けられていたようで、当時の社殿は鰐口が架けられるようなもっと大きなものであったようである。
宮内地区に米の自動販売機があり「つきたてのおいしいお米」と表示してある。籾若しくは玄米から精米するのであろうか興味あるが当ブログ主には自家米があるので購入したことはない。
当ブログ主は籾のまま缶に保管してそのつど籾摺り精米をしており、まさに「つきたてのおいしいお米」である。
祖生新宮神社拝殿の廻り縁にレトロな御神籤機が置かれていた。御神籤機には「このところに 五銭入るれば おみくじが いたゞかる也」とあり、五銭とあるので何時ごろのものであろうか。
当ブログ主は銭のお金を使用したことは覚えていないが、子供の頃1円で2個のキャラメルが買えていたのを思い出した。
祖生新宮神社で珍しい石造物があったので紹介する。本殿周囲にめぐらされている石造の玉垣の親柱先端部が通常は四角錘であるがここでは擬宝珠が刻されている。また、石造の貫が通してありこれら手の込んだ珍しい手法である。
拝殿前には大正5年(1916)に奉納された石造の用水桶が一対木造桶に擬して築造設置されている。
岩国市周東町祖生にある新宮神社で厳島神社を勧請し祀られたものである。ここ祖生の地は治承4年(1180)頃厳島社水精寺の寺領となっており、これらから厳島社との関わりが深い地であったことがわかるのである。
かつて本殿の屋根は古写真のように茅葺きで20年毎に葺き替えしていたようであるが、昭和60年(1985)に銅板葺きとされたようである。
梅雨の真っ只中、先日梅雨太郎を紹介したがこちらは岩国市六呂師大藤にある梅雨左衛門で、訪れた当日あいにく蛇を見ることはできなかった。
江戸期の地誌に「田畴ニ大岩高サ四間程也。岩中ニ一双小蛇有。形鳥蛇ノ如ク、頭白色帯。毎年入梅ノ日ヨリ、彼蛇岩ノ穴ヨリ頭ヲ出シ・・・」とある。梅雨時分には地域の人達が注連縄を張るようであるが、大岩周囲の草は刈ってあるだけで古い注連縄が垂れ下がっていた。
地御前の町屋にみられる2階部分の窓で、竪格子を壁土及び漆喰で塗り込めとしている虫籠窓である。
古い町屋の面影を留めるものであるが、以前は5軒の町屋にみられたが現在は3軒の町屋にみられるのみである。廿日市や地御前の町屋では木格子を嵌め込んだ格子窓が多くみられる。
天満神社に掲額されている『神舞荒比羅』の絵馬で昭和32年(1957)に奉納されたものである。
神楽の荒平舞いで鬼形相の荒平が描かれており、廿日市住民有志の77歳以上の長寿者が記念して奉納されたもののようである。
梅雨太郎さんのすぐ脇に湧き出している梅雨太郎水を夕方であったが4台の車で水を汲みに来た人がみられた。梅雨時分の湧き水は大丈夫なのであろうか。
子供の頃はここの付近まで田んぼが作られており、田の畦を通って清水まで行ったのを思い出した。ここの湧水は温泉分析書別表によると単純弱放射能冷鉱泉・低張性中性冷鉱泉ということであり、源泉名はつゆ太郎温泉ということである。
梅雨の中休みに梅雨太郎さんを見に行ったが姿をみることが出来なかった。この時期になると昔から大岩の割れ目から岩の主である大蛇(梅雨太郎さん)が頭を出しているという。
江戸期の地誌に「上平良村石か小屋にあり、石罅に雙蛇を栖しむ、梅雨の後、去て見えず、此石犯すものは祟ありといふ」とあり、昔からこの巨岩に祟り伝承があったようである。
津田地区から浅原方面に向かう途中河本バス停脇の小高い山上にある安養寺観音堂で地域の人達によって祀られているようである。
江戸期の地誌編纂(文政2年)頃には安養寺はすでに廃寺となっており、廃寺跡に観音堂が建立されて祀られていたようである。