栗栖河内神社の拝殿には三十六歌仙額が33面掲額されており3面失われている。これらのほか誰を描いているのか不明の2面も一緒に掲額されている。
これらは文久3年(1863)に画工荒木一篤、執毫尼子亀年により作成されたものであるが、退色、剥離が進んでいたために平成13年(2001)に彩色し直されている。
栗栖河内神社の拝殿には三十六歌仙額が33面掲額されており3面失われている。これらのほか誰を描いているのか不明の2面も一緒に掲額されている。
これらは文久3年(1863)に画工荒木一篤、執毫尼子亀年により作成されたものであるが、退色、剥離が進んでいたために平成13年(2001)に彩色し直されている。
栗栖地区にある河内神社で江戸期の地誌に天文3年(1534)京都祇園より勧請されたと申し伝えられているとある。
広島県神社誌によると元禄8年(1534)に寄進された随神像と文政9年(1826)に寄進された三宝があるようである。
原地区にある伊勢神社の二の鳥居で萬延元年(1860)に当村の氏子によって寄進建立されたようである。
伊勢神社は明治になって各ごとにあった6社が合祀された神社であり、江戸期に作られた2基の鳥居はそれぞれの社のものが移設されたものではなかろうか。
原地区にある伊勢神社の一の鳥居ですぐ手前に国道433号線改良工事の杭が打たれている。
この鳥居は嘉永2年(1849)に国実の氏子達によって建立されたようであり、鳥居の高さに対して幅が広いのが特長的である。
原地区にある伊勢神社本殿周囲に巡らされている高欄の突き当たりの隔て板には装飾彫刻が施されている。
何時ごろのものかは不明であるが鯉の滝登りと上部には松の木が彫り込まれて縁起の良い取り合わせの装飾彫刻である。
国道433号線の改良工事で原公民館前から半明原橋までの間のうち伊勢神社参道付近の山林が掘削されていた。
参道の一の鳥居のすぐ脇に工事用の杭が打たれていたので、道路の法面端が鳥居の近くまで築造されるものとみられる。
北山黄幡社本殿脇に小さな石造の祠がみられるが当初の黄幡社であったのだろうか。中には何も無く何が祀られていたのか不明である。
当地で産出する石質ではないので他所から移入されたもののようである。石造の祠はこの近辺ではほとんど見られないものであり珍しいものである。
明石大歳神社本殿の妻飾りで切妻面は意匠をこらした装飾がされている。
下部中央に蟇股があり両側に斗栱と手挟、その上に装飾彫刻のある虹梁が架けられており、その中央に装飾彫刻のある大瓶束が立てられて上部両側に笈形がみられる。また、壁面にはキツツキによるものとみられる5ケ所の穴がみられる。
宮内地区明石にある明石大歳神社で明治初期に八坂神社に合祀の協議がされたようであるが明石は遠方であり参詣が難しいので存続されたようである。
当神社には木造の神像と薬師如来像が祀られており、薬師如来像には応仁2年(1468)の墨書銘がみられ、当時の農村の神仏習合信仰が窺われるのである。
佐方八幡神社の拝殿に掲額されている絵馬で画題は加藤清正の虎退治のようである。文禄・慶長の役で朝鮮出兵中の加藤清正は十文字三日月槍で虎退治をしたというよく知られた伝説が描かれているようである。画面に墨書がみられるが劣化しているために判読が不能であり何時ごろの奉納かは不明である。
昨年秋に伐採したドングリの木(クヌギか?)にドリルで穴を開けて椎茸の種菌400個を打ち込んだ。
全く自己流のやりっぱなしであるが2年位すると椎茸が生え始める。5~6年でホダ木が腐食してだめになるので毎年少しずつ補充をしている。向こう側に立て掛けてある3年生ホダ木にはポツポツと椎茸が生え始めている。
宮内地区畑口の東光寺境内にある石造の地蔵菩薩立像で明和8年(1771)に造立されたようである。
表示によると「三界萬霊 願主自覚大徳」と刻されているようである。地蔵の周囲には宝篋印塔や五輪塔の残欠が並べられており、江戸期の地誌に「境内ニ古墓数々有之・・・」とある。
宮内地区畑口にある智海山東光寺で、江戸期の地誌によると地名東光寺に堂があり中世厳島社神主で桜尾城城主であった友田興藤の廟所であったと伝えられていたようである。
友田興藤の法名は東光寺殿玉叟長琳といい、興藤は東光寺領を洞雲寺に寄進しており何らかの関わりのあった寺であったのだろう。現在の真宗東光寺は堂のあった地に江戸後期開かれたようである。
畑の片隅に椿の木を数本植えており椿の並木になればと苗木も数本植えている。
現在、そのうち3種類の花が付いており、つぼみのものが2種類ある。以前に教えてもらったことがあるのだが今は何の品種か不明である。