宮島口の国道2号線更地別れ交差点からJR山陽本線の踏切を過ぎると線路沿いに任助法親王の墓所がある。任助法親王は伏見宮貞敦親王の第四子で京都御室の仁和寺門跡を継ぎ、晩年厳島大聖院に下り厳島御室と呼ばれていたようである。天正12年(1584)11月29日に厳島の西方院で薨去して赤崎御室山が御荼毘所とされたので、赤崎の地が御葬地と定められたようである。
昭和16年(1941)4月に赤崎御室を任助法親王の御陵墓とされ宮内庁治定陵墓となっている。
宮島口の国道2号線更地別れ交差点からJR山陽本線の踏切を過ぎると線路沿いに任助法親王の墓所がある。任助法親王は伏見宮貞敦親王の第四子で京都御室の仁和寺門跡を継ぎ、晩年厳島大聖院に下り厳島御室と呼ばれていたようである。天正12年(1584)11月29日に厳島の西方院で薨去して赤崎御室山が御荼毘所とされたので、赤崎の地が御葬地と定められたようである。
昭和16年(1941)4月に赤崎御室を任助法親王の御陵墓とされ宮内庁治定陵墓となっている。
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