洞雲寺の鐘楼門に掲げられている「洞仙園」扁額で、明治24年4月22日付の芸備日々新聞の記事によると筆者は頼山陽とあり、額の落款を見ると山陽の号である襄の字が認められるので筆者は頼山陽とみられる。古記録によると鐘楼門には「応龍山」の扁額が掲げられていたようである。かつて洞雲寺と山陽本線の間にあった小山は公園地とされていたようで、園名は「洞仙園」と呼称されておりこの扁額は当初公園地に掲げられていたもののようである。
洞雲寺の鐘楼門に掲げられている「洞仙園」扁額で、明治24年4月22日付の芸備日々新聞の記事によると筆者は頼山陽とあり、額の落款を見ると山陽の号である襄の字が認められるので筆者は頼山陽とみられる。古記録によると鐘楼門には「応龍山」の扁額が掲げられていたようである。かつて洞雲寺と山陽本線の間にあった小山は公園地とされていたようで、園名は「洞仙園」と呼称されておりこの扁額は当初公園地に掲げられていたもののようである。