大内政弘が大内から山口に館を移した時代、京に模した街づくりの一貫として京の泊瀬寺(はせでら)に倣ってこの地の建立したお寺であってその一部が残っている。往時は七堂伽藍も完備し塔頭も七坊あったとつたえられれている。時代は降って永禄12年(1569)大内輝弘の乱でこれらの伽藍は戦火に会い焼失してしまった。仁壁神社なども。本尊はかろうじて残っている。本尊十一面観音で琳聖太子将来仏といわれ、元国宝に指定されていたが今は重文指定である。神福寺抱えの堂のため神福寺が保管している。
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