霜恋路日記

【しもこいじにっき】
ロマンチックな名前「恋路」という場所においての出来事です。これは正真正銘本当の地名です。

ウサギ年にあたって

2011-01-01 09:07:01 | 随想
               ゆずり葉のごとくまた新しい年を迎えています。今年はウサギ年よく飛び跳ねてもらいたいと誰でも考えるのである。余り飛び跳ねて木の根っ子に頭をぶっつけても困るのである。「はやぶさ」の帰還やサッカーワールドカップでのジャパンの活躍、ノーベル化学賞2人の受賞など明るい話題もあるがどうも閉塞感から抜け出せないでいる、何か重石が乗っかっているようである。

 一つには国の財政問題である借銀900兆円と先進国ではダントツの額でありかつ税収は約40兆円、支出は91兆円と大幅な赤字構造である。企業で言えば融資不適確な先といえよう。これに対する果敢な対策が早急に迫られている。政治では与野党伴に考えて実現をしなければならない。昨年の国会のように政局がらみかどうかは分からないが批判の応酬ばかりでは大人気ないもっと実のある国会をしてもらいたい。

 二つ目は、国の安全保障の問題である。日本の国を今後どうしていくのか基本の戦略を、日本の背骨を確立していくことが迫られている。日本の国益をどう守るのかそのためにはどういった多面的な展開をして外交力・防衛力を高め強めていくか、その方策を国民に説明を何回もしていくことが必要であろう。

 三つ目は日本の経済である、円高により国内企業は投資が落ち込み雇用も落ち込み失業者は依然として減っていない。しかし同じアジアにあって韓国やシンガポールなど目覚しく成長している国もある。明治維新も開国で日本は成長できた、今更開国とはいえないがFTAやPTTなど各国との経済連携協定を広げるなどもっと自由貿易を進めていくことも一つの方法ではないか。日本経済が沈没する前に・・・。

 貿易自由化を進めていくと必ず農業問題が出てくる。食料自給率の問題、環境問題、資源確保の問題、また社会福祉制度をどうするか、税制をどうするか、いろいろ出てくる。いろいろ議論を深めることは良いことである。しかし何もやらない政治では国民は納得しないのではないか、「見る前に跳べ、失敗したら修正すればよい」という言葉もあるが外交とか安全保障では失敗は許されないが内政問題や国内問題では本当に「見る前に跳べ」ではないが勇断を持ってやってみることも必要ではなかろうか。ウサギ年であるから跳べといっているのはない。

 資源保有の少ない国にとっての資源といえば人材しかないのである、いかに世界で飛躍できる人材を育てていくか長い目で教育投資は欠かせないとおもわれる。そういった有能な人材が安全保障にも経済にも社会保障にもとあらゆる面にいきていくのではなかろうか。
              


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1 コメント

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political argument (noga)
2011-01-02 21:58:54
持論・結論がなければ、議論する資格もないはずだが、相手かまわず言いがかりをつけて議論をしたがる人がいる。
折角、相手を議論で打ち負かしても、それに代わる自説を提案できないのは非建設的である。
議論では「破壊は建設なり」とは行かない。不毛の議論にしかならない。時間はいくらあっても足りない。

自説を述べればそれで万事発表は終わる。
さらに、自説に似た他説があれば、自説の優位性を述べることも有益なことである。
これは、人類の進歩につながる建設的な態度である。

考える人にならなければ、自説はできない。このような人は、とらえどころのない人と呼ばれている。
しかるに、丸暗記と受け売りの学力を使って議論をしかけようとしている。
真正でない学問をもって世俗におもねり、人気に投ずる言説をなすことを曲学阿世というが、こうした行いが横行している。
こうした行為は、あながち個人の責任には帰しがたいが、由々しい事実であることには間違いない。
イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)

日本語には、時制というものがない。だから、未来時制もない。
自分達が努力して向かうべき理想の内容も語られることがない。いわゆる無哲学・能天気である。
未来社会の内容が明らかにならないので、われわれは未来社会の建設に着手出来ない。

日本人の世の中の把握の仕方は、現実の有様に関するものである。「世の中は、、、」の形式で表現される内容である。
現実の内容は、皆がほぼ一致する。一人から答を得たら、それで皆の答がわかる。
現実の内容は、変えられない。政治家には、政治哲学がない。
だから、日本人は閉塞感に襲われる。
英米人の世界観は、未来時制であり現実とは別次元の内容である。
これは人によって違うから、意見は一人一人聞かなくてはならない。
良い提案があれば、相互に協力して建設に励むことができる。

皆が同じ現実の内容を話すばかりでは議論はいらない。
「理屈などは、どうでもよい。現実は見ればわかる」ということになる。
議論をすれば、現実描写に関する個人的なケチの付け合いとなり喧嘩になる。
皆が仲良く生きてゆくには、問答無用で生活することである。
現実にばかり囚われては、別次元の世界が一向に見えてこない。向かうべき所に関する夢も希望もない。
それで、諦観も必要になる。

アングロ・サクソンの考え方が我々の現状の打開策となるであろう。
彼らのメンタリティを理解するために、我々には英語の勉強が必要である。
ある時、私はアフリカの学者から「日本では、何語を使って大学教育を行っているのか」と尋ねられたので、「日本の大学は、日本語を使う」としごく当然のように答えると、相手はびっくりしていた。
きっとその人は、日本語で学問ができるなどとはとても考えられなかったに違いない。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812


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