霜恋路日記

【しもこいじにっき】
ロマンチックな名前「恋路」という場所においての出来事です。これは正真正銘本当の地名です。

宝清山徳佐八幡宮記⑧

2005-02-27 10:57:47 | 郷土史
ー軍功をあげ毛利元就からの感状等ー

風土注進案 宝清山八幡宮記録に
 この度の矢地(夜(や)市(じ))若山要害加勢忠節の事に候、なかんずく佐波郡河内八幡宮御旗印に宝殊同権現御旗印日の丸の由(よし)その意得(こころうる)候、柚木惣領太三郎も加勢の由(よし)、 紋等の儀迄申し来られ候
両人共に相談、明日辰の刻下口戸(へ)田(た)川楯取の一所に出張防ぎもっともに候、軍夫の儀は太三郎より宿禰方へ申しつけ入り次第召供申すべく候、右の通り太三郎方へ申し遣い候、軍粮(ぐんりょう)の儀は先様に於いて勘渡申し付け候、恐々謹言。
       申  3月7日(弘冶3年・1557年)
                          義 任   花押
                          興 之   花押
                          元 訖(包) 花押
   宝清山社司
          久守右衛門太夫 殿
 これは、天文、弘冶、永録の年間陶氏の居城である富田若山城のお取り合いについて毛利家より下附された御書であるが3人の連署今だ誰かわからない。

 

この書簡において考えるに弘冶元年厳島の戦い。弘冶元年(1555)毛利元就厳島に(すえはるかた)陶晴賢を誅す。弘冶2年2月陶長房若山城を杉重輔に襲撃され、龍文寺に遁れ、力尽きて自殺している、のち長房等の遺臣が若山城に立てこもったけれども、弘冶3年3月(1557)須々万の沼城が陥落したので自ら潰れている。弘治3年3月8日元就父子若山城に移陣しており、そのときの軍夫、兵糧について久守右衛門太夫が元就父子のための奔走し警備したことと、若山要害取り合いのとき粉骨の働きをしたことへの感状であると思える。

また沼城襲撃において芸候三家誌の載する所に
 
都濃郡須々万の沼城は三方沼沢に囲まれた平地の城であるが城主山崎伊豆守父子は毛利軍の来功に先だって急を大内氏に告げ、江良弾正忠、宮川伊豆守、伊香賀左衛門太夫以下数千の援兵を得ていたのでその勢力は、侮りがたいものであった。

 弘冶2年11月19日(1556)毛利隆元、宍戸安芸守、熊谷兵庫助ならびに福原左近将監、桂能登守、志道上野守以下5千余騎にて、一時城を攻め落とさんとするに、城兵よく防戦し毛利勢引き退く危うくなりそうであった。

 21日熊谷兵庫助、永井右衛門太夫、渡邊左衛門太夫、の3人を(しんがり)殿として隆元、陣を引き払うことになる。敵大勢にて追走あらば、熊谷、永井、渡邊、数度引き返し、(ちょう)稠しく(濃く)相戦い、敵の大将伊香賀左衛門太夫を渡邊左衛門太夫が討ち取りければ、それより敵引き返すによって、隆元(つつがなく)恙無く(軽く)21日、岩国に打ち入りられる。
 
この渡邊左衛門太夫の功名は、宝清山八幡宮の社司渡邊左衛門太夫か明らかならざれども、周囲の事情より考える時かかるもあるものと考えるのである。
 即ち宝清山八幡宮所蔵に古馬具が持ち伝えられている。元就様から拝領つかまつり候と申し伝えあり。その節、御書をも頂戴したが紛失している。
 
 その文言を天保15年の宮司渡邊紀伊の覚えでは、その大意は、このたび修理、若山の要害云々、柚木村還場左衛門太夫が勢田長橋に出迎え要害を粉骨動きで数多くの首を云々、それによりお召し下し遣わし候事と御座候よし申し伝え候、年号月日等覚え申さず候。奥に元就様の御尊名御判等も御座候て、外に7人のお名前御判等も之あり、右は七雄の御名も居り居候由に彼の家に申し伝え候、7雄と申す事いかなるお方様にて御座候や、その申し伝えは御座なく候。

 (ここに柚木村鑑場左衛門太夫とは久守太三郎か久守右衛門太夫のことではないか軍功で名を賜り左衛門太夫に替え大宮司職を賜ったと思える。)
 

 当時、宝清山八幡宮は、周防佐波郡鯖河内八幡・権現両社の外に往古は熊毛郡小松原八幡宮・えとろ八幡宮(野土呂八幡宮のこと,徳地町船路村)・地福村八幡宮をも兼勤していたと山城守(右田毛利元倶(もととも))様の御書の中に相見えるのである。
 
これらから擦るところ、弘冶2年11月19日都濃郡須々万の沼城を攻撃し退去のとき、しんがりを勤め、敵陣の大将の首を討ち取った軍功と弘冶3年3月7日矢地(夜市)若山要害取り合いに久守右衛門太夫が柚木八幡に仕えていた惣領の太三郎を引き連れて加勢に参加し粉骨の働きをして、毛利元就の感状に預かり金蒔絵の馬具を拝領したものであろう。芸候三家誌に記せる沼城の渡邊左衛門太夫功名のことは久守右衛門太夫と同一人で、右と左の書き誤りといえると、徳佐村史の筆者渡邊斧一氏の見解もある。

 私見としては久守右衛門太夫の子息、柚木の惣領大三郎が、天保15年宮司渡邊紀伊が述べている「このたび修理、若山の要害云々、柚木村還場左衛門太夫が勢田長橋に出迎え要害側の数多くの首を取る等粉骨の働きをしたことで下附賜ったと申し伝えあり云々」と言い伝えありと申し述べているところから惣領大三郎が左衛門太夫であるとの見解を持つのである。
毛利元就から拝領の馬具
〔貼 紙〕
1、鞍黒塗前輪後輪共に桜折枝金蒔絵
1、切付肌付共に金地と相見へ申し候
1、鞍褥 同断
1、逆靼 同断
1、鐙象眼銀牡丹沓入朱塗
1、障泥青地革金立波
1、総裨萌黄組絲
右色相模様古び候て慥に相分不申候得共、凡前書之通に相見へ申し候、
此外之具は紛失仕候哉無御座候事

 徳佐と陶氏については以上大体結末を告げたが、最期に陶氏所領のことであるが陶氏領地は佐波郡徳地であり柚木村は陶領であったものである陶氏の居城は都濃郡富田若山城にあり夜市、福川も陶領であった。応永11年(1404)より陶氏は、若山城を居城としているがその昔は吉城郡陶村を領して右田氏より分かれて始めて陶氏と称したのである。
 
 なぜ久守氏は、陶氏の領地にありながら毛利氏に味方したのかは、陶氏が大内義隆を討った後であり、吉見氏、嘉年勝山城復活以後(弘冶2年3月・1556年)のことであると考えられるのである。
 
 かくして弘冶3年(1557)4月3日大内義長自殺により阿武郡の地および厚東・佐波2郡の地にて若干地を拝領す。と徳佐は再び吉見氏に復した。
  
 慶長5年(1600)9月関が原戦後毛利氏の領土減少して防長2国となるにおよび輝元は吉見広長に対して厚東・佐波2郡の内にて一万石にすると命じ慶長5年冬、津和野を去らせ萩の大井に移す。元和4年(1618)8月吉見氏、削封に不満を持ち、輝元に殺され、正統絶える。

引用・参考文献 「徳佐村史」「防長風土注進案」

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