ー宮中覚書等(1240・1244年)後の徳佐郷近辺での主な動きと大内義長と同家老中からの感悦状ー
709年 6代大内正恒 高鹿垣に上宮(北辰妙見社(鷲頭寺)を建てた。)下松市に鷲頭山があり山頂に降松神社が祀られておりその箇所のことと思える
827年 11代大内茂村 北辰妙見社を清上山(山口市大内村氷上山)に移そうと試みたが受け入れなかった。琳聖太子の創建、興隆寺は大内氏の氏社とした。
仁平1年(1151) このころから大内氏は大内村を中心に勢力を伸ばし始めた
建永7年(1206) 山口市白石に大内満盛が瑞雲寺を建立した
建長6年(1254) 山口市円政寺の鰐口に初めて山口の文字がみえる
弘安4年(1281) 大内弘貞20代、弘安の役に出陣した
弘安5年(1282) 吉見頼行 石州木辺郷に移住す。
文保2年(1318) 大内重弘22代、が東大寺の国務と対立
元弘3年(1333) 吉見頼行 長門探題、北条時直を追い阿武郡を領す。
このころ石州津和野城主吉見式部四郎頼行が三原八幡宮の再建をしている。この神社はのちに吉見家・大内家のお取り合いの節大内家より焼失されている。
建武1年(1334) 建武の中興に大内弘幸23代は北条方に味方した
1352年 24代大内弘世鷲頭氏を攻略して周防国を制圧
正平12年(1357) 大内弘世を長門国、守護職に補す。
正平13年(1358) 大内弘世が厚東氏を降ろし防長両国を統一した
正平15年(1360) このころ弘世は大内村から山口の居館を移し、京都の模して市街を経営した
天授5年(1379) 25代大内義弘が初めて朝鮮に使者を遣わした。これから大内氏の対鮮貿易が始まった
天中9年(1392) 大内義弘の周旋で南北朝の和議が成立した
応永6年(1399) 大内義弘が幕軍と戦い、泉州堺で戦死した
永享2年(1431) 26代大内盛見が九州深江で豊後の少弐・大友氏と戦い、戦死した
嘉吉1年(1441) 27代大内持世が嘉吉の乱で遭難し重傷を負い、京都で死す
嘉吉2年(1442) 大内義弘の菩提を弔う為に香積寺五重塔が建立される
寛正2年(1461) 28代大内教弘に招かれて、画聖雪舟山口に来る。築山館を建てる
(1465) 大内教弘、伊予興居島で病死
(1467) 大内政弘、応仁の乱で西軍に味方し、11年間京都で戦った
文明2年(1470) 吉見信頼、大内道頓を庇い陶弘護と戦う。
文明3年(1471) 大内の武将、末武氏久、吉見信頼と地福に戦い敗死す。同年道頓も敗死。
文明7年(1475) 吉見信頼、徳佐元山城を攻める、陶弘護、徳佐に来陣しこれを奪い取る。信頼、戦って利あらず、吉賀(今の鹿足郡の東部、六日市、蔵木、朝倉、柿木の5村の総称)、長野(津和野の西部)の地次第に大内勢の攻略するところとなり和を乞うて許される。
※元山城・・・宝清山徳佐八幡宮記⑨参照
文明12年(1480) 連歌師宗祇が29代大内政弘に招かれて山口に来る
文明12~13年頃(1480~81) 久守志津摩 掾 諏訪社を勧請する。三原諏訪社と思える。
文明14年(1482)5月28日 吉見信頼、大内氏に降り、5月23日山口館にて大内政弘に掲す。28日政弘は山口築山館において宴を設け諸将を饗す、席上陶弘護が吉見信頼を刺すことになる、信頼屈せず弘護を捉えて相刺し散る。
天文23年(1554) 陶隆房(弘護の子)徳佐に出陣し、津和野三本松城を攻める、同年吉見氏の支城嘉年勝山城が陥る。
※嘉年勝山合戦記・・・宝清山徳佐八幡宮記⑫参照
文明・天文時代はいずれも大内氏の家臣である吉見氏と陶氏の取り合いで戦が多く、久守氏は大内氏に属し、陶氏は右田氏の支流であり、右田氏は大内氏の支流である。大内満盛宝清山八幡宮を丸山の地に勧請以来その以南の地は元より大内氏に属する所で大内氏防長の覇を握るにおよび大内氏の一族右田氏の所領としたのである。しかし次第に陶氏が力を付け吉見氏と争うことになったのである。
徳佐郷はその当時市場川と沖田川を境に東は市場、亀山、三原、下半久、等は吉見氏の支配地とし丸山、小南、宇津根、水戸以西は大内氏の支配地とに別れ対立していたものと思われる。
吉見・陶氏との合戦は、粗く云えば1470~1555年と約84年となるがその間和を持っており合戦の時は、短期であったと思われる。久守氏は当然大内家の陶氏のもとで加勢をしていたのである。その証が、天文24年(1555)3月3日大内義長様からと大内氏家老4名連署ものとあわせて2通が渡邊紀伊(天保15年)が(祖久守氏)が先祖といわれている永安式部少輔に宛たる感状が徳佐八幡宮に残っている。永安式部少輔の祖は渡辺氏(祖は久守氏)であり久守氏の一族でもある。
去月11日高木城固屋口(こやぐち)防戦の時、太刀にて討殊し狩倉新左衛門尉の頸一つ討取られの由、隆信注進を遂げ之披露す、神妙によし,お書きなられおわんぬ、いよいよ忠義の旨抽ぜられるべく、仰せより執達件の如し。
天文24年3月3日
備中守(花押)
右衛門太夫(花押)
越後守(花押)
石見守(花押)
永安式部少輔殿
去月11日於いて石州三隅の内高木要害動の時、狩倉新左衛門尉の頸討ち捕り由、粉骨の次第のところ感悦せしめの状件の如し。
天文24年3月3日
(大内義長)(花押)
永安式部少輔殿
大内義長と同家の老中からの書状である。永安式部少輔は後に家名を渡邊に替えている。
※固屋=小屋ではなく、しっかりした立派な建物
※討殊=とうしゅ。刀で打ち殺す
参考文献 「徳佐村史」「防長風土注進案」
709年 6代大内正恒 高鹿垣に上宮(北辰妙見社(鷲頭寺)を建てた。)下松市に鷲頭山があり山頂に降松神社が祀られておりその箇所のことと思える
827年 11代大内茂村 北辰妙見社を清上山(山口市大内村氷上山)に移そうと試みたが受け入れなかった。琳聖太子の創建、興隆寺は大内氏の氏社とした。
仁平1年(1151) このころから大内氏は大内村を中心に勢力を伸ばし始めた
建永7年(1206) 山口市白石に大内満盛が瑞雲寺を建立した
建長6年(1254) 山口市円政寺の鰐口に初めて山口の文字がみえる
弘安4年(1281) 大内弘貞20代、弘安の役に出陣した
弘安5年(1282) 吉見頼行 石州木辺郷に移住す。
文保2年(1318) 大内重弘22代、が東大寺の国務と対立
元弘3年(1333) 吉見頼行 長門探題、北条時直を追い阿武郡を領す。
このころ石州津和野城主吉見式部四郎頼行が三原八幡宮の再建をしている。この神社はのちに吉見家・大内家のお取り合いの節大内家より焼失されている。
建武1年(1334) 建武の中興に大内弘幸23代は北条方に味方した
1352年 24代大内弘世鷲頭氏を攻略して周防国を制圧
正平12年(1357) 大内弘世を長門国、守護職に補す。
正平13年(1358) 大内弘世が厚東氏を降ろし防長両国を統一した
正平15年(1360) このころ弘世は大内村から山口の居館を移し、京都の模して市街を経営した
天授5年(1379) 25代大内義弘が初めて朝鮮に使者を遣わした。これから大内氏の対鮮貿易が始まった
天中9年(1392) 大内義弘の周旋で南北朝の和議が成立した
応永6年(1399) 大内義弘が幕軍と戦い、泉州堺で戦死した
永享2年(1431) 26代大内盛見が九州深江で豊後の少弐・大友氏と戦い、戦死した
嘉吉1年(1441) 27代大内持世が嘉吉の乱で遭難し重傷を負い、京都で死す
嘉吉2年(1442) 大内義弘の菩提を弔う為に香積寺五重塔が建立される
寛正2年(1461) 28代大内教弘に招かれて、画聖雪舟山口に来る。築山館を建てる
(1465) 大内教弘、伊予興居島で病死
(1467) 大内政弘、応仁の乱で西軍に味方し、11年間京都で戦った
文明2年(1470) 吉見信頼、大内道頓を庇い陶弘護と戦う。
文明3年(1471) 大内の武将、末武氏久、吉見信頼と地福に戦い敗死す。同年道頓も敗死。
文明7年(1475) 吉見信頼、徳佐元山城を攻める、陶弘護、徳佐に来陣しこれを奪い取る。信頼、戦って利あらず、吉賀(今の鹿足郡の東部、六日市、蔵木、朝倉、柿木の5村の総称)、長野(津和野の西部)の地次第に大内勢の攻略するところとなり和を乞うて許される。
※元山城・・・宝清山徳佐八幡宮記⑨参照
文明12年(1480) 連歌師宗祇が29代大内政弘に招かれて山口に来る
文明12~13年頃(1480~81) 久守志津摩 掾 諏訪社を勧請する。三原諏訪社と思える。
文明14年(1482)5月28日 吉見信頼、大内氏に降り、5月23日山口館にて大内政弘に掲す。28日政弘は山口築山館において宴を設け諸将を饗す、席上陶弘護が吉見信頼を刺すことになる、信頼屈せず弘護を捉えて相刺し散る。
天文23年(1554) 陶隆房(弘護の子)徳佐に出陣し、津和野三本松城を攻める、同年吉見氏の支城嘉年勝山城が陥る。
※嘉年勝山合戦記・・・宝清山徳佐八幡宮記⑫参照
文明・天文時代はいずれも大内氏の家臣である吉見氏と陶氏の取り合いで戦が多く、久守氏は大内氏に属し、陶氏は右田氏の支流であり、右田氏は大内氏の支流である。大内満盛宝清山八幡宮を丸山の地に勧請以来その以南の地は元より大内氏に属する所で大内氏防長の覇を握るにおよび大内氏の一族右田氏の所領としたのである。しかし次第に陶氏が力を付け吉見氏と争うことになったのである。
徳佐郷はその当時市場川と沖田川を境に東は市場、亀山、三原、下半久、等は吉見氏の支配地とし丸山、小南、宇津根、水戸以西は大内氏の支配地とに別れ対立していたものと思われる。
吉見・陶氏との合戦は、粗く云えば1470~1555年と約84年となるがその間和を持っており合戦の時は、短期であったと思われる。久守氏は当然大内家の陶氏のもとで加勢をしていたのである。その証が、天文24年(1555)3月3日大内義長様からと大内氏家老4名連署ものとあわせて2通が渡邊紀伊(天保15年)が(祖久守氏)が先祖といわれている永安式部少輔に宛たる感状が徳佐八幡宮に残っている。永安式部少輔の祖は渡辺氏(祖は久守氏)であり久守氏の一族でもある。
去月11日高木城固屋口(こやぐち)防戦の時、太刀にて討殊し狩倉新左衛門尉の頸一つ討取られの由、隆信注進を遂げ之披露す、神妙によし,お書きなられおわんぬ、いよいよ忠義の旨抽ぜられるべく、仰せより執達件の如し。
天文24年3月3日
備中守(花押)
右衛門太夫(花押)
越後守(花押)
石見守(花押)
永安式部少輔殿
去月11日於いて石州三隅の内高木要害動の時、狩倉新左衛門尉の頸討ち捕り由、粉骨の次第のところ感悦せしめの状件の如し。
天文24年3月3日
(大内義長)(花押)
永安式部少輔殿
大内義長と同家の老中からの書状である。永安式部少輔は後に家名を渡邊に替えている。
※固屋=小屋ではなく、しっかりした立派な建物
※討殊=とうしゅ。刀で打ち殺す
参考文献 「徳佐村史」「防長風土注進案」
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