霜恋路日記

【しもこいじにっき】
ロマンチックな名前「恋路」という場所においての出来事です。これは正真正銘本当の地名です。

徳佐八幡宮記22(中世編)

2006-08-25 21:21:06 | 郷土史
 毛利輝元から直書がくる大宮司職としてかなり格の高いのものであったといえよう。このころは神道祈祷と軍事面とがつながっていたと思われる。

 また軍事面では郎党40~50人位の郎党を抱えていたのではないかと見られる。徳佐八幡宮の社領もこの頃が一番多く一番繁栄していた時期ではないかと思われる。徳佐郷三原にある宝亀山八幡宮は慶安5年(1651)の坪付帳では田畑合計1町2段7畝10歩の3石2斗5升である。

 大宮司職である徳佐八幡宮はそれより多く寛永11年(1634)の社再建時公儀への差出状では(徳佐八幡宮古文書)大宮司として往昔からの免田分3石7斗7升8合、開作拝領分10石7斗9升4合、合計14石余の知行地を持っていた。それからすればモット多く持っていたのではないかと思える。


 毛利元就が元亀2年(1571)吉田郡山城にて死亡、当郷の領主であった吉見正頼も天正16年(1588)萩指月城にて死亡し、毛利輝元のすき放題の出来る時期に当たる。

★徳佐八幡宮古文書より(毛利輝元時代で関が原の戦い以前のもの)

●1 佐世元嘉書状(モト折り紙)
「(墨引き)端裏切封ウワ書 徳佐「神」「主」
                 渡辺兵部殿
殿様、御祈念、御入湯立ち、入り目の銀子、即渡し候、次にご帰朝の儀、去る8日に釜山浦ご乗船の由、一昨日到来候、名護屋お着きあるべからずほど存じ候、弥美左右仰せ越しられ候は申し入れるべく候、太閤様ご上洛の儀も、この20日、指し延ばされ候、夜前左右候、なおこれより、申し述べるべく候、   恐々謹言

文禄2年(1593)8月10日
           佐与三佐
              元嘉(花押) 

●2 上包みに毛利輝元直書写(折り紙)芸州より父兵部へ遣われ候分

このたび渡海の為祈念、神前に於いて丹誠に抽し、お久米ならび巻数到来、即頂戴の候、誠にようよう差し越さられ候段、祝着の至りに候、弥懇祈憑入り候、

   (文禄2年)7月19日
                     輝元(御在判)
   徳佐八幡
        大宮司殿 

●3 能美内蔵書状(折り紙)
  また30疋存寄らずの儀ともに候そうろう 
八幡ご祭礼相調えられ候由、もっとも珍重候、お久米ようよう送り給い候、確かに頂戴つかまつり候、道前まかり下されの由、尤もしかるべく候、隙あけ候て山口お出であるべく候、佐石様いまにもご下向なく候、恐々謹言
   8月24日
                   能蔵(花押)
   渡辺兵部太夫殿
         御報

●4 佐世元嘉書状
「 (墨引き)端裏切封ウワ書
      渡辺兵部殿
地の御前においてお社籠もり、ご懇祈の由抽され、お久米ようよう送りくだされ候、頂戴せしむ候、この地御用につきて、ふとまかりあがり候、ちと気分悪く候て散々の体(てい)に候、種々加療治、快験の分に候、いま少しここもとにつかまりおくよう申し付けようようまかリ下るべき候間、御意得るべく候、遠方から入られ御念お久米頂拝満足候、なお後喜を期す候、恐々謹言。
  9月20日
                 佐石
                   元嘉(花押)
※左右・・・指図する
※抽し・・・引き出す、押し出す
※久米・・・平安時代神前にささげる舞い
※巻数・・・祈念の回数を書いた巻物
※ようよう(遥々)・・・はるばる
※隙(ひま)明・・・隙をつくって
※道前・・・山口町道場門前か
※地の御前・・・安芸の国の地名
※疋・・・布ニ反の称、銭20文の称
※能美内蔵・・・安芸国佐東郡能美庄の興り、毛利元就に仕えた人
※佐石様・・・佐世元嘉のこと、出雲国大原郡佐世郷の土豪、元嘉は毛利氏が芸州から萩に移るまで20数年当職を務め朝鮮の役、関が原の役の時は広島で留守居役として務めた。佐世氏は萩藩寄り組にて3997石を給領している。
元和5年7月9日死去 75歳

参考文献 山口県史 中世資料編


最新の画像もっと見る

コメントを投稿