霜恋路日記

【しもこいじにっき】
ロマンチックな名前「恋路」という場所においての出来事です。これは正真正銘本当の地名です。

大内氏の力と組織

2005-08-31 18:07:01 | 歴史/古文書
 大内氏に関する公開講座があり、小郡町ふれあいセンターに行く。参加者が40人ぐらいいた。大体が中高年者である。講師は若い女性で市史編纂室の方であった。

中世の室町幕府というか中央政権は幕府と朝廷であるが、そこに在京雑掌という組織がある。これは幕府・朝廷と地方の国とを取り次ぐ人々であるいわゆる今の国家で言えば駐在官。外交官らである。

 大内氏の国許では評定衆(重役)がいて行政をやっている。その下に奉行人がいてこれらが雑掌からの政治情報や幕府の命令や文書など評定衆に奏上する。大内氏は奉行人を通じ申し入れ交渉を在京雑掌に伝えそれを幕府・朝廷に取り次ぐ。在京雑掌は幕府・朝廷の命令・情報を収集し国許へ取り次ぐ。こういった仕事をやっていた。

 在京雑掌には2種類あり、一つは在俗雑掌である。これは僧でなく大内氏の家臣がなっている。吉田、内藤、といった人がなっている。特に明確にフルネームで残っている人がいた安富掃部助定範(やすどみかもんのすけさだのり)という大内氏の家臣である。
 
 その当時はお寺が今の大学のようなもので知識をたくさん持っていたので外交交渉に使われていた。


 もう一つは雑掌僧 松雪軒・・・1464から1486年まで続いた・・・幕府の文書の伝達・・・相国寺とおそらく関係があったのではと思われる。
  主な僧は全杲(ぜんこう)

 競秀軒・・・相国寺大智院のなかの寮舎の一つが競秀軒であったと記録にある。・・・大内氏の代弁者  主な僧 興文(こうぶん)1475から1489年まで生きた人、京都に来るまでは周防で僧をしていた。その後に秀文という僧が続いた。

 京都にある相国寺は京都五山の一つであるが対外交易の情報が多く取れる寺で日明貿易をするに必要であって大変重要であった。大内持世の弟が相国寺の座主になったり、政弘の息子が文明19年9月29日、長享元年11月1日と相国寺にいたという記録が残っているなど大内氏と相国寺の関係は深い。

在京雑掌の役割
1幕府からの命令文書の伝達
2幕府への連絡、申し入れ交渉
3勘合獲得の為に行う幕府との交渉工作
4日明貿易の関する諸実務や諸役

 有力守護大名は日明貿易が膨大な儲けになるため競って勘合符を手に入れることに躍起になっていたのである。大内氏は日朝貿易は以前からやっていたが勘合符を手に入れるために中央政権に入っていった。大内の義弘は明徳の乱で山名氏の勢力を分散させることに成功。泉州堺と紀州を賜ったが義満の政権は次第に安定することになり義満が金閣寺を建築するにあたり諸国の大名に土木役を課せたが義弘は武士は弓矢で戦で働くのが本分で土木役はしないとけった。義満は大内氏が大きくなったので潰そうと高圧的態度を取り続けついには堺で応永の乱が始まり義弘は堺にて自刃した。

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