霜恋路日記

【しもこいじにっき】
ロマンチックな名前「恋路」という場所においての出来事です。これは正真正銘本当の地名です。

小谷戦国歴史資料館

2011-04-24 11:08:33 | Weblog
ようやく10時近くになりましたので長浜観光案内所近くにある。江・浅井三姉妹博覧会場行きのバス乗り場に行きました。もう50人ぐらい並んでいるのです。私はかろうじて座れましたが連れは立ったまま出発です。途中国友鉄砲の里に下車する人は一人もなく皆博覧会場に行く人々たちでした。30分乗車し小谷戦国歴史資料館前で約半数が下車しました。

 ここは入場料が300円必要ですが240円で入れました。歴史ボランテイアの人が会場で説明してくれました。大変詳しく全部聞くと他の会場に回れなくなるので途中で退きましたが京極氏の領地であった湖北を浅井亮正政初代が頭角を現し京極氏を傀儡的にしていってしまうのであった。二代久政は湖南の六角氏の傘下に入ることで内向きの内政を中心に司った人でした。

 三代長政は永禄4年(1561)織田信長の妹お市の方と結婚をして同盟関係になります。その間万福丸と三姉妹を生んだといわれていますが、市は23歳で結婚しておりそのときすでに万福丸は生まれていた。万福丸の生年からして側室の子ではないかといわれています。また万福丸の成敗が「はりつけ」にされるということはいくら戦勝した信長でも市の子であれば磔には処さないと思えると語っていました。また側室も同じように磔になっているそうです。それらの根拠から語り部の人は万福丸は市の子ではなかったと思われるとの説でした。
 
 市のだんなの長政はどんな人であったのか?長政の妹が出家してお寺に古文書が残っているがそれによると身長は170センチメートル位、体重は百貫といわれていたそうであるが百貫は大げさであるが、かなり太っていたそうである.それからすると長政も恰幅のよい骨太の人物であったろう。長政の自刃後2年目の法要のときに描かれた長政像の掛け軸を鑑賞したが太っていて恰幅にいい姿であった。長政は身長175センチメートル、体重100キログラムの大身であって当時は大男であったといわれている。ここは清水谷といって小谷城に囲まれた清水の出る谷間で、初代、2代の平時のとき長政の平時のときは城主や重臣の屋敷があったところである。

写真は小谷戦国歴史資料館である。