ここに右田ケ岳城跡登山道の入り口があります。右田岳の頂上が東、中、西と3つの峯に分かれていて西峯が本丸跡その東下が二の丸跡がある。岩山で険阻な形状で非常に攻めにくい山城である。鎌倉時代末からの山城として使われていたものです。この写真からは見えませんが岩の塊のある奥の峰が城跡です。
鎌倉時代末から大内氏の一族として右田氏はこの山城を守ってきていました。毛利元就が大内氏を攻めてきた弘治3年(1557)すでに富田の若山城を落として右田ヶ岳城攻防が始まろうとしていたとき右田ヶ岳城を守っていた大内方の右田隆量(たかかず)父子と野田長房を説得したところ両人等説得に応じ毛利方について、先峰となって大内方の氷上の城を取った。
これによって大内側の勝敗は目に見えてしまい、大内氏滅亡の岐路となってしまった。
大内義長はそれらを見て山口・高の嶺城を投げうち長府へ逃れたのですが命運は明らかになった。
またその後、永禄12年(1569)大内輝弘の乱のときは毛利元就の家臣、この城の城番、南方就正がこの山城から打って出て攻撃している。
鎌倉時代末から大内氏の一族として右田氏はこの山城を守ってきていました。毛利元就が大内氏を攻めてきた弘治3年(1557)すでに富田の若山城を落として右田ヶ岳城攻防が始まろうとしていたとき右田ヶ岳城を守っていた大内方の右田隆量(たかかず)父子と野田長房を説得したところ両人等説得に応じ毛利方について、先峰となって大内方の氷上の城を取った。
これによって大内側の勝敗は目に見えてしまい、大内氏滅亡の岐路となってしまった。
大内義長はそれらを見て山口・高の嶺城を投げうち長府へ逃れたのですが命運は明らかになった。
またその後、永禄12年(1569)大内輝弘の乱のときは毛利元就の家臣、この城の城番、南方就正がこの山城から打って出て攻撃している。