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霜恋路日記

【しもこいじにっき】
ロマンチックな名前「恋路」という場所においての出来事です。これは正真正銘本当の地名です。

願いの叶う鍵

2010-08-30 10:34:24 | 随想
 伊良子恋路が浜のど真ん中にこの「願いが叶う鍵」があります、石垣島から流した椰子の実が14年目にようやくたどり着き願いがかなったといわれていることからから作られているのです。
 恋人たちの願いを込めて鍵をかけたものが鈴なりになっています。でも14年もかかって願いが成就するのであれば恋人たちも「おばさん、おじさん」になってしまいます。私は鍵は掛けませんでした。
                 

朝食兼昼食

2010-08-29 10:04:36 | 随想
 朝早くから家を出て渥美半島めぐりをしているのです。自転車を漕いで伊良子岬を回るとさすがにおなかが減っていきました。何せ朝食抜きでしたので。恋路が浜で食事を始めることにしたのですがどこの店に入るか決めかねていたのですが、一番派手な店に決めて入りました。まだ食事処の開店はしていなかったのですが入って頼むと「いいですよ」と快くいわれ2階に上がりました。太平洋が一面に見える眺望のよさは最高です。おかみさんは気さくのいい明るい女将さんでした。何を話したやらいろんな芸人やタレント、テレビ局、中日ドランゴンズの監督O監督も良く使われているとの話であった。食事は恋路が浜名物大アサリ定食を頼みました。先に大アサリだけが出てきましたのでおなかがすいてつい手が出てしまい写真に撮ることができなかったのです。少しおなかにご飯が入ってようやく冷静さを取り戻しこの名物を写真に撮ったしだいです。浅はかな行動が恥ずかしい。
大アサリはもう食べた跡の貝殻のみとなっています。大アサリのフライもおいしく、もちろん味噌汁も、デザートはメロンとさすが渥美半島でした。

   
おいしい、大アサリ定食を完食し、少し太平洋を眺めながら一休みをしていると2組のアベックが入ってきましたので引き上げ階下の清算所に行きました。そこでも気さくな女将さんは渥美で取れた夏みかんだよ持って行きなさいと一人旅の私にくれました。なんと優しい女将さんでしょう。心の中で嬉しくて泣きました。人様に善意を表すのは難しいのですが女将さんはなんと易く善意を出してくれるのです。いやみなく、やはりその人の生き方の蓄積の賜物なのでしょう。感慨深い出会いでした。

恋路が浜

2010-08-28 09:32:24 | 随想
 憧れの恋路が浜にたどり着きました。この日は恋人は少なく、貸し切り状態でした。北西には神島、南東には日出の門とロケーッションは最高です。ここに来れば恋人でなくても恋人同士になってしまいそうです。砂浜の砂の粒子は素足の足には優しくふわふわと包まれた感じで歩きながら心地よい気分になりそうです。一日中ぼんやりと過ごしたい気分でした。
日出の門が遠くに見えます。ズームの最大接近で撮っていますので少しピントがボケています。

                                    
                          神島をズームをいっぱいに広げて撮りました。島の向こうは三重県の鳥羽の島と海岸です。

        

かみしま(神島)

2010-08-27 09:49:19 | 随想
 三島由紀夫の小説や映画で有名になっている神島です。裸眼では本当にすくそこのように近く見えるのですがカメラで撮ると遠くにいっていました。今は昔ほど若い人もいないのですがまだ若衆宿のような関係が続いているといわれています。地域風俗として面白い島でもあります。人情は厚いのですが隣近所の付き合いは濃く仲良くなれば住み心地満点の島なのでしょうね。これは旅人ではわからなく三島のように長く逗留しないとわからないことでしょう。

君今ここに甦る

2010-08-26 09:19:47 | 随想
 いや驚きました、こんな観光地に戦没者の慰霊碑があるなんて、しかし遺族の思いとしては遥か遠い南海の地や海原に散った若き人々に一番近いところに来たい思いは切なかったことでしょう。うなずける場所である。主に海軍のご遺族の人が発起したと書いてあるのですが碑文には第二次大戦で民間人を含めた300万人から280万人の全犠牲者の慰霊塔として作られていました。石碑の前には南海のラバウルやグアム、ミッドウエイなど戦跡の跡が地図で刻まれており戦線の拡大されたようすが目に入ります。よくもこんな遠くに行き戦ったものだとエネルギーのすごさと精神に感動しました。

ハマユウの自生

2010-08-25 09:12:24 | 随想
 伊良子岬の古山を南岸にたどり着くとこのハマユウに自生の場所に来ました。ハマユウは万年青の仲間でハマオモトともいわれています。白い花を咲かせ種子はコルク状のものとなり波に乗って拡がって行きます。暖地性植物ですので四国や九州で見ることが多いです。

万葉歌碑

2010-08-24 08:50:37 | 随想
 伊良子灯台に下りていく階段の途中にこの歌碑は建てられています。先に灯台を見てその後この歌碑に行きました。壬申の乱で遠流された人が詠んだ歌が刻印された石碑です。ずいぶん昔の歌です。壬申の乱は672年に起こっていますので1348年前になるのです。その頃の歌です。「うつせみの命惜しみ浪にぬれ 伊良子の島の玉藻刈り」地元に人が何で都人が海に入って藻刈りをしているのだろうおいたわしいことであると詠んだことに対し、詠み人の麻積王(おみの おおきみ)はこのはかない世でも命が惜しく海で食料を確保しているのですと正直に答えている。人間の生きていることの原点・根本を堂々と主張しているのがいい。

伊良子岬灯台遊歩道

2010-08-23 09:50:15 | 随想
 伊良子岬の高いところから岩場に降りてくるとさすがに海といった荒々しさが感じられます。五感が緊張し生命の源がよみがえってきます。自然のもたらす一つの魅力かもしれません。心地よい癒しを覚えながら伊良子岬の遊歩道を歩いていくと歌人の歌の刻まれた歌碑の多くであります。それらを読みながらこの伊良子の海を眺めるとまた格別の風情を感じて趣がいろいろと違って味わえました。いいですねーーー>>>>・・・・

伊良子岬と灯台

2010-08-22 09:31:51 | 随想
                    
ついに岬の先端に着きました。ここが伊良子岬です。伊良子水道です。見えるのは伊良子岬灯台です。何か感慨深いものが沸いてきました。年月の長さを感じたからでしょうか。長く風雪に耐えそれを守ってきた灯台守の方や保守メンテナンスをした工事業者など苦労がしのばれます。
 この灯台は昭和4年に築かれ今もこのように建ってはいますがすでに役割は終えていました。しかし白亜の灯台としての威容だけは残っていました。ここの灯台は岬の上というよりは海の岩の上に建てた灯台でありますので、燈台守はここに寝泊りなどは始から危険でしなかったものといえます。伊良子岬から石の階段を50か60段下りていくと海岸の岩場にこの灯台があるのです。いまはその岩場は遊歩道となっていました。

10元旦

2010-01-01 16:52:06 | 随想
元旦は一年の始まりです。
かといってめでたきことがあるのではないのですが。最近の思っていることといえば日本の国の今後の針路がどうなるのでしようか。1990年以降10年は緩やかなデフレといわれ経済が縮んでいった時代といえよう。

 特に財政面から見ると10年間で約400兆円の国の借金が増加したにもかかわらずGDPの成長は見られずむしろマイナスの経済成長なのです。大きな声ではいえませんが政策の失敗ではないかと思いたくなります。1985年のプラザ合意後1ドル240円が160円になるという大幅な円の上昇で海外旅行に殺到してエンジョイをしたり大量生産大量消費といったバブルにおぼれていたなかでも産業構造の変革をしなければと声を上げていた人たちがいたのですがその産業構造の変化は遅々として進まなかった。

 従前の設備の近代化・効率化と不況時の人員リストラ・人件費の引き下げで輸出を保持する経営は失敗であったといえよう。むしろ人件費は高くして高い品質でも個々の顧客に満足する高品質の新しい製品・新分野を開拓していける人材投資による産業構造の改革が遅れているといえよう。また新興国向け製品の開発も然りでありますが・・・。

 今、政権交代で教育、子供への直接支援を提示しているがそれとともに教育改革を行い個性を育て自由闊達な思考のできる多様性を持った人材の育成と、新分野・成長分野への人材投資を急がなければならない。
 

 プラザ合意後豊富な資金で知識経済に移行のチャンスであったが円の急上昇がバブルを生み、三つの過剰、在庫・設備・人員に悩み今だにそれらから抜け出せないでいる。グローバル経済の真っ只中では事前規制型制度でなく事後監視・法令順守型制度に変容すべきあろう、また政府も縦割りではなく一丸となってスピーディに企業をバックアップできる体制を作る必要があろう。
 

 いづれにしても最近は教育にしても企業活動にしてもこと細かく規則やマニュアルによる規制が多く非常に活動しにくいのである。昔はそういったマニュアルもなく自己の判断で責任を持って仕事をこなしていく自由さが満ち満ちていた。人材の多様さはそういった自由の中から湧き出てくる。知識社会には高い専門性を持つ人材の選択と評価も欠かせないでしょうが、一方これからのマーケットは先進国から新興国・発展途上国に移っていくそういった新しい顧客に満足してもらう価値の把握には辺境奥地も臆することなく出向いていく体力ある人材も必要であるそういった多様な人材を多くもつことがこれからの国づくり・企業づくりに大事な要素となっていくのではないかと思われます。