goo blog サービス終了のお知らせ 

霜恋路日記

【しもこいじにっき】
ロマンチックな名前「恋路」という場所においての出来事です。これは正真正銘本当の地名です。

大広間跡と井戸

2011-05-07 09:08:09 | 交流/講演


大広間跡の北側にこの井戸があります。幅2.7メートル、長さ3.9メートル、深さは0.9メートルの井戸跡で、市や三姉妹がこの井戸を使って生活していたとのことです。

この井戸の奥にはお市の方や三姉妹が起居していた屋敷があったとのガイドさんの説明です。日常の生活は山城ですから狭い部屋で寝起きしていたことでしょう。

桜馬場跡

2011-05-05 08:49:38 | 交流/講演
大河ドラマのロケの中心地でこの桜馬場からの眺めは城内随一とガイドさんの話である。地元の有志で建てられた浅井氏家臣の供養塔や小谷城祉の碑が置かれていた。

この写真は桜馬場からの眺めである遠方に竹生島が見られる。


浅井家臣の供養塔と奥に小谷城祉の碑がみられる。大広間跡の前にある郭で細長く左右に2段からなっている。建物の礎石跡も発掘されていたがイノシシがミミズを食べるために礎石が掘り返され移動しているとのガイドさんの話であった。やはりイノシシはミミズが好物なのが良くわかりました。


黒金門跡

2011-05-04 08:42:14 | 交流/講演


 大河ドラマで浅井長政とお市および三姉妹が合戦の中別れを惜しんだ場所である今は破城されたため石組みも一部しか残っていない門跡をしのぶほどの崩れとなっていた。この門は鉄板で覆われた門であったため黒金門(くろがねもん)といわれたそうである。


姉川の合戦

2011-05-03 08:27:41 | 交流/講演
首据石の場所から南を向くと、このような景色が見えます。ガイドさんの話では前方の緑の横線が2本見えますが遠くのほうが姉川で、元亀2年(1570)4月織田信長が突如盟友の朝倉義景を攻め込んだため朝倉・浅井軍は一緒になり姉川を挟んで織田・徳川軍と合戦をした。朝倉浅井軍1万5千、織田徳川軍2万5千での軍で、朝のうちは朝倉浅井軍は優勢であったが徳川軍の加勢で形成は逆になり小谷城に退いた。同年9月には朝倉浅井軍は大津に進撃し19日には織田軍と大津の坂本で戦い、これを破り11月26日には堅田で勝つなど優勢であったが12月13日に和睦した。と説明があった。

小谷城首据石

2011-05-02 19:26:41 | 交流/講演
見てもわかるように本当に首が置かれてもいいような、上部が平になっている石でした。黒金門(くらがねもん)の手前にあります。天文2年(1533)六角氏との合戦のとき京極氏の重臣であった今井秀信が敵方に内通したことで神照寺で打ち首にし、その首をこの石の上に置き見せしめにしたといわれている。

小谷城馬洗い池

2011-05-01 19:19:46 | 交流/講演
 お馬や跡のすぐ背後に南北9メートル東西6.6メートルの池がある。中央にしきりの石組みも見え、上の段の池では食料品を洗い下の段の池では洗濯や場合によっては馬も洗ったのかもしれないと話があった。主に雨水をためて池にしたのではないかとの解説であった。
 




小谷城お馬屋敷跡

2011-04-30 18:02:02 | 交流/講演
すぐに登ると平坦なところがあります。驚くことに比較的大きな池があるのです。水がかすかに湧いていました。雨水がたまったものでしょう。

琵琶湖を眺める方面は土塁に囲まれて中央には井戸跡も発見されたということです。厩があったので馬屋跡といわれています。しかし証拠になるものは見つかっていないという話です。

小谷城御茶屋跡

2011-04-29 17:54:02 | 交流/講演
 本丸に続く郭の舌状に突き出した先端にあるようなところにこの郭はあります。郭の中間に低い土塁跡が残っていてその中に建物があった跡が残っていたそうである。そこが茶屋跡で庭らしきものがあったとのことであるが本当に茶屋であったかどうかまではわかっていないとのことでした。


虎御前山

2011-04-28 16:49:29 | 交流/講演
番所跡の郭をすぐ登ると景色の良い場所に出くわしました。ここからは虎御前山がよく見えます。この虎御前山には小谷城攻防戦のときに織田信長の本陣があったことで有名です。
永禄3年(1560)浅井軍、愛知郡野良田で六角氏と戦い勝利する
永禄4年(1561)浅井賢政、長政と改名する
永禄11年(1568)織田信長の妹お市を妻として迎える
          浅井・織田同盟の成立、ただし年号については諸説がある
永禄12年(1569)長政とお市の間に長女茶々生まれる
元亀元年(1570)次女初が生まれる
    長政、織田信長が越前の麻暮らしを責めることになり浅井朝倉同盟を破ることは    出来ず。長い間の同盟であり朝倉氏側に寝返ってしまう。
    6月28日姉川の合戦。朝倉浅井軍18千人、織田徳川軍28千人が姉川に会す    るが織田徳川軍に攻められて小谷城に退却したが和睦する
元亀2年(1571)織田信長、小谷城を攻め、木の本・余呉を焼く
元亀3年(1572)8月9日織田信長、虎御前山に本陣を置く
天正元年(1573)三女江生まれる
    朝倉義景(41歳)、一乗谷から大野に逃れ8月13日自刃(朝倉氏滅亡)織田信長、小谷城に総攻撃をかける久政(49歳)8月27日にに続き、9月1日長政(29歳)が小谷城内で自刃した(浅井氏滅亡)

正面に見えるのが虎御前山である
山の北尾根には当時の遺構が残っており、滝川一益、堀秀政、丹羽長秀の陣跡、秀吉、柴田勝家の陣跡もあるといわれている標高224メートルの低山である。



ここから竹生島も見えました。


竹生島の北東には山本山城跡が見えている。

江のふるさと小谷城址

2011-04-27 13:29:44 | 交流/講演
 浅井三姉妹の生まれた小谷城です。茶々と初は清水谷のお屋敷で生まれたが江は合戦のさなかに生まれたので小谷城内の桜馬場の屋敷で生まれている。
ここは番所跡です。追手道を登ってくると金吾丸と出くわすところにこの番所跡があります。ここで城郭に入る前の検問をしていた場所であったから名がついたとの説明です。スパイなどをここで見極めていたのであろう。