私は宗教にまったく詳しくありませんが
ある宗派ではこうであるが、別の宗派では真逆のこうであるなど、「百花繚乱」あるいは別表現をするなら「でっち上げ満載の世界」ですから、派閥抗争に巻き込まれるのがいやだった、のでしょうね。
普通は「何らの都合でやむを得ず」でしょうから、ある意味では「恵まれていた」のかも知れません(笑)。
とはいえ私が、それぞれの宗教を尊重していることには、変りがありません。
↑そう言っておかないと問題が発生する?
多くの一神教では、偶像崇拝を厳しく禁止しています。
きっと、それなりの根拠も、納得できる一面も、あるのでしょうが、そんな宗教に限って「妙な戒律で信者をしばりつけ」、それが信者を守る、という不思議な構図です。守るためには、しばりつけなければなりません。
はたしてそれは、事実なのか、ペテンなのか・・・・
私の「診断」では
- 「偶像崇拝」の善悪以前に、「妙な戒律」の善悪問題がある、ようで
- 悪くすると、「戒律の異様さ」を、「偶像崇拝禁止」で隠蔽しているような気さえ、します。
たとえそんな、偶然・縁(えにし)があったとしても
宗教間の争いに明け暮れるのもまた、宗教。
宗教が存続する為には資金が必要です。
この大切な目的のため、信者獲得を目指して愚弄(ぐろう)する様々な「教え」「生き方」「真理」「ご指導ご鞭撻」が、生まれます。
提供するお布施・お賽銭・寄進と引き替えに得られる「美しいことば」は、必要とする人にとってこの上ない魅力でしょう。
ある人が、何らかの宗教に浸かっているかどうかを見分ける方法ですが・・・・
▲余人には理解できない独特の「定義」で周辺を煙に巻く。これには
反論が生まれにくいほど徹底するのがコツ?
▲不倶戴天(ふぐたいてん)の敵対宗派を徹底的に罵倒(ばとう)する。これには、
①誰も賛成しない勝手な根拠を展開する度胸
②ひたすら相手を「クズ」と侮辱するクセ
が必要です。
▲自分の宗教に内在する汚点を語らない
などが見られるはずですから、注意深く観察し「なるほど」と納得してください。
偶像がいいかどうかとは別ですが、「ご本尊」「ご神体」にもまた、様々な例がみられます。
- なんとか(馬頭・千手・菩薩)観音
- なんとか(坐・立・如来・地蔵菩薩)像
- 背景の山←奈良県の三輪山など各地の霊峰
広辞苑第六版では
本尊:寺院の中央に安置する仏・菩薩
神体:神霊を象徴する神聖な物体。礼拝の対象となるもので、古来、鏡・剣・玉・鉾(ほこ)・影像(えいぞう)などを用いた。
としております。
同じものを、宗教によって別定義とするのですね。
いや「同じものではないから別の定義」と頑張りますか(笑)。
多くの人が若い頃
親の「先祖崇拝」強制を疎ましく思うものですが、長じて自分の先が見え始めると、子に「先祖崇拝」という名を借りた「親崇拝」を強要するもの(笑)。
「若い時にはわからないもの」とすれば、この負の連鎖?が続き「歴史が繰り返す」ことになります。
この傾向は
日本では沖縄などでも強く見られますが、徹底しているのが朝鮮半島。
もうここでは「先祖崇拝」が行き過ぎ、病気ではないかと思われるほどの域に達していて、本人は気づいていませんが「差別」の温床となっています。
儒教にもいいところがあると思いたいものの、やはり弊害の大きさを指摘しなけれなりません。
先祖・先輩・後輩・子孫などの序列に縛られ過ぎる儒教社会では、「改善が悪」とみなされ、与えられた「身分」に甘んじるよう、現状維持を図るよう、「国家から指導」されるのみならず、あまつさえ、平気でこれを海外へ適用しようとします。
それほど自然に、何の疑いもなく、「自分たちの根底の思考を普遍的だとみなす」ところに、視野の狭さと「もののあはれ」を感じてしまいます(笑)。
わかりやすい例として、堂々と外国の内政に干渉して自分の非を顧みない地域、たとえば朝鮮半島などを想定してみるのも、よろしいかと思います。
支配者にとってこんな都合のいい制度はありませんね。
このような旧態依然とした体質では、何らかの改善が何らかの頽廃を招くとして、現状維持に走り勝ちです。
しかし、考えてみれば、スポーツも社会も
朝令暮改は論外ですが、時代と共に変化するはずのもの。何かを改善すると何かで頽廃するとはしても、常に改善しながら進むしかないのが、人の世のはずです。
現状維持が間違いなく頽廃を引き起こすと知っている人ならば、新しくおこる頽廃をできるだけ少なくしながらも常に向上・改善を試みなければならないのです。
もちろん儒教の元凶(げんきょう)は中国にあります。
元凶(げんきょう):悪党の中心人物。悪者のかしら。転じて、諸悪の根源。「汚職事件の―」
中国あるいはその周辺国で、一時期あるいは今でも
毛沢東が偶像視されましたが、これに反する主張は厳しく禁じられました。偶像に反することは許されなかったのです。
似ていませんか(笑)。
ここがたとえ同じ一神教ではあっても、偶像そのものを厳しく禁止するイスラム教と相容れないところです。中国西部のウイグル地区で中国共産党がイスラム教徒をシリア内戦以上に厳しく弾圧しているのは、いわば「自然」なことでした。
↑「自然」だからそれでいい、なんて言っておりませんので、誤解のないやうにおねげーしますだ(笑)。
韓国では
一神教である「反日」教が崇拝されていますが、これに反する主張は厳しく禁じられています。これまた、たとえ一神教ではあっても、偶像を厳しく禁止するイスラム教と相容れないのは、火を見るよりも明らかですね。
太極旗が韓国全土にはためき、日本国旗を燃やすことに国民が酔いしれている韓国を見ていると、私は中国の文化大革命〔1966-1967〕を思い出してしまうのです。
中国・韓国のみじめな状況は、見るに忍びず、聞いて呆れるばかりで、もう少し何とかならないものでしょうか。
その他の「偶像」について、調べてみました。
偶像崇拝を禁じるイスラム教では、預言者の顔を描くことは教えに反するとされ、欧米の新聞社や画家などが預言者の風刺画を描くたびに、イスラム社会から強い反発が起きています。
:NHKオンライン 2015年5月4日
これが現代社会でテロを誘発する有力な根拠となっています。
難民・移民が「イスラム社会」に生まれ、「非イスラム教社会」へ流出することに、そもそもの問題がないのでしょうか。なぜ難民が発生するのですか。
もちろんイスラム教徒ならば、そういった邪悪な心をもたらしたのは非イスラム教徒だ、と反論するでしょうが。
同じイスラム教国家の中にも微妙な温度差があることも、問題を複雑にしています。また、そういう見解の違いを埋め合わせようと話し合う素地がイスラム教にあるとは、残念ながら思えないのです。
偶像崇拝や、動物供儀、聖酒ハオマを禁じた予言者ザラトゥストラ(英語ゾロアスター)は、いつごろのどこの人か不明である。・・・・
この世を善神と悪神の闘争の場と見る2元論であり、非常にわかりやすい。:余部福三 イスラーム全史 勁草書房
偶像は、善神(ぜんしん)と悪神(あくじん)にも、大いに関連します。
子どもが親しむのに適している昔ばなし・おとぎ話・童話は、ほのぼのとしていて、いいものですが、子どもがある年齢以上になると、「障害になり勝ち」です。「自然に離れる」のではなく「危険である」という意見をきっとご理解頂けると思います。
というのは、童話などの勧善懲悪の世界では、「いい人」と「悪い人」が明確に別れていて、「善人」が「悪人」を諭す、あるいは「鎮圧する」ことが多いのです。
しかし現実の世界では誰が「善人」で誰が「悪人」かが明確ではないのですね。
だから長じても童話から抜けきれない人は
常に自分で考えるのではなく、誰かに善悪を決めてもらいたいらしく、その「教え」に従って、とんでもない結論を下してしまうのです。そんな人・国家が、近くにみられませんか。ヒントは、東アジアにありそう・・・・・・。そう、一党独裁・全体主義・言論統制国家群ですね。
またはそこまでいかなくても、他人の話に耳を貸さないまま自分勝手に善悪を決めてしまい、それに基づいて行動してしまうのです。
おとぎ話は
それなりの年代になるまでには必要だとしても、大きく成長してからでも勧善懲悪を必要とする人がいるなら、人間として必要な「考える」という訓練を欠いているでしょう。それも自分勝手に考えるのではなく、人にわかりやすく説明できることが大切でしょうか。
とはいえ
水戸黄門や赤穂討ち入りなどの物語を、現実社会での善悪判断の難しさから一時的に逃れ、娯楽として楽しむ、のはいいだろうと思われ、それなりの価値が十分にあると思います。
偶像崇拝(ぐうぞうすうはい)とは、偶像を崇拝する行為である。
偶像という語には「人形」「人間に似せた物」などいくつかの意味があるが、ここでは木材や土、金属など具体的な物質で形どられた像のうち宗教的対象をかたどったものをさす。
プロテスタントなどにおいては十字架への祈りも偶像崇拝とされ、首飾り、護符、ご神体などを信仰対象にすることも偶像崇拝である。
旧約聖書では、イスラエルの神は預言者モーセに神の指で書かれた石の板二枚、十戒を授け、偶像崇拝を禁じた(出エジプト記31:18)。ゆえに、アブラハムの宗教と呼ばれるユダヤ教、キリスト教、イスラームの諸宗教では偶像崇拝は禁忌とされており、神を可視化してはならない。
キリスト教においては旧約聖書の記述から偶像崇拝を禁じている。:Wikipedia
一神教ではなぜか
偶像崇拝を禁じることが多いらしいのですが、教えを書いた書物や十字架は偶像ではなく、宗教を意味する像などを偶像と見なすことには、いささかの違和感があります。
とにかくかなり古い時代に生まれた教えをそのまま現代でも受け継いでいることに、そもそもの無理があるのであり、もっと言えば科学の進展により、それら宗教が生まれたせいぜい2000年ほど前より、ずっとずっと前から世の中はあったのであり、そんな程度の宗教に今でもとらわれていることに、無理があると思っています。
特に今おこっている
深刻な難民問題、誰も指摘しませんが、「重大な宗教対立」に起因しているとみなければならないと思います。「重大な宗教対立」とみなすことで、初めて根本的な解決方法を模索できると思うのです。
もしも「重大な宗教対立」など存在しないと決めつけ、小手先の対症療法で済まそうと思っていると、解決までに相当長い期間を要するか、あるいは永遠に対立したまま、になりそうです。
キリスト教の仲好しクラブに陥っているのではないかと思われるEUが、移民対策で小手先の対症療法をとっているのではないと、信じておりますが。
さてさて、皆様はどう思われますか。