人間が発明した「名誉」。これにはいかなる意義があるのでしょうか、さてお立ち会い!
まずはパスカルの登場。
404 人間のこの上もない卑小性は、人間が名誉を求めることにある、しかしほかでもないこのことは、人間の優秀さを示すこの上もなく大きなしるしである。なぜというのに人間は、地上にいかなるものを所有しようとも、いかなる健康をもとうとも、いかに重要な利便をもとうとも、もし、人から尊敬をうけないならば、満足しない。
:P.244 パスカル「パンセ(瞑想録)上巻 津田穣訳」新潮文庫
この人の定義が魅力的なのは
「名誉」が、人間の愚かさと優秀さを示している
とするところでした。通常なら、
- 人間の卑しさについて論じたり、
- 別の人なら人間の他の動物にはみられない立派な点について論じる
ことが多いと思います。しかしパスカルは、落ち着いて
人間を、短所と長所の両方から、見ています。
パスカルがあくまでもキリスト教的な信仰の下で生きていたとはいえ、こういう客観性がみられるため、400年前としてはやはり立派としか言えません。
現代人の「パスカル」のとらえ方ですが
▲キリスト教信者なら
パスカルは客観性をもったキリスト教信者だった
▲非キリスト教信者なら
パスカルにはキリスト教とは矛盾する客観性があった
とするところがおもしろい。私はもちろん後者ですが(笑)。
名誉六段(七段)
(田中角栄の目白御殿で)将棋を2、3番指し、・・・・将棋の腕前のほうは初段の上、二段の下といったところ。中飛車を得意とする攻め将棋だった。
「自分は六段の免状を与えられているが、実力は初段もないと思う。将棋連盟は、通例として、総理大臣には名誉六段の免状を贈るようだが、中には駒の動かし方も知らぬ者もいる。そんな者にも、というのは、ちとどうかと思う」・・・・
将棋連盟は六段、日本棋院(碁)は七段の免状を贈るというのは事実だが、こいつはたしかに、殿様の庇護のもとで細々と生きてきた人間にしみついた、お世辞根性の現れではあるな。:P.23 芹沢博文(1988年死去) 「依って件の如し」 ケント出版
芹沢の考えでは、
が日本将棋連盟や日本棋院が時の総理大臣へ与える名誉六段(七段)は、江戸時代以後、権力者の庇護のもとで細々と生きながらえた将棋・囲碁組織のヨイショ根性である
としています。正にその通りでしょうね。ただし共に公益社団法人である日本将棋連盟や日本棋院が総理大臣を利用しているかどうかのとらえ方で、常に贈呈されるかどうかは、分りません。
次は西暦200年ごろのローマ人アイリアノスの話であり、実際にそうだったかどうかも分りませんし、またこの手の話は、批判精神をもって聞く必要がありそうですが・・・・。
ペルシア戦争に勝利を収めた後、アテナイ人は毎年一回、国が主催して劇場で鶏を闘わせることを法で定めた。この起源・・・・テミストクレスは国軍を率いてペルシア戦争に向かおうとするとき、鶏が喧嘩をしているのを見た。・・・・
彼は全軍を立ち止まらせると、こう言った。「この鶏どもは祖国のためとか父祖伝来の神々のため、ましてや先祖の墓のために苦闘しているのでもなければ、名誉や自由や子孫のため戦っているのでもない。ただ銘々が負けたくない、相手に屈したくない、その一心からなのだ」こう言って、アテナイ人を激励した。:P.83 アイリアノス「ギリシア奇談集」岩波文庫
さて
- まず、「神々や先祖や名誉や子孫のために闘っているのではなく、ただ負けたくないから」、と「鶏ども」が考えているというのですが、なぜテミストクレスが鶏の考えを理解できたのか、という問題。
- 「鶏ども」が誰かのために闘うことなどあり得ないという前提でテミストクレスが「分った」と思っただけなのかも知れません。
- これは目前の敵もまた「鶏ども」と同レベルであるからして、負けたくないとだけ考えている敵には名誉をもって闘えと洗脳しているのか、それとも名誉のために闘っている敵などに負けてはならずおまえたちも「鶏ども」同様に負けないようにとだけ考えて闘え、と洗脳しているのか。
アイリアノスは別のところで、こうも記述しております。
アンティゴノス王(2世)は民衆思いの優しい人だったと言われている。・・・・
わが子が家来の者達を目に余るほど手荒く横柄に扱うのを見て、「われわれが王であることは、名誉ある奴隷(奉仕者)であるということがお前には分からないのか」と言った。・・・・まことに穏和でかつ人間愛に満ちている。
:P.75 アイリアノス「ギリシア奇談集」岩波文庫
「立派な王」と「できの悪い息子」という対比があるため、この手の話は語り継がれたのでしょう。
現代でもせめて
「権威をもった者は名誉ある奉仕者」だと理解できる為政者が、いてほしい。これが難しいからこそ、「世襲が常に悪いとは限らない」と嘆く世襲政治家が世間で軽んじられています。実はその歎きにこそ真実があるのですが。
この世は、あらゆる意味で「闘いの連続」でしょうから、目前の相手(敵)に対して
- 何のために闘うのかをよく考えて闘え〔自分に考えさせる効果ありか〕
- 何のためかではなく、とにかく目前の敵に負けないよう闘え〔精神論も重要か〕
- 相手を研究し尽して闘え〔事前研究へ依存しすぎる欠点ありか〕
- 相手と闘うのではなく、自分と闘え〔妙な損得計算をさせない効果ありか〕
などなど、どれが成功するかわかりませんが、それぞれに意義のある流派が誕生し存続します(笑)。
フランスとイギリスの違いもあります(笑)。
(ロベール・シュルクフ)
「あなた方フランス人は金のために闘うが、我々イギリス人は名誉のために闘うのだ」
「だれもみな自分に欠けているもののために闘うのだ」
: P.384 ジェローム・デュアメル(吉田城訳)「世界毒舌大辞典」大修館書店
この毒舌を理解するにはちょっとした知識が必要でしょうか。
大英帝国時代にはもう有り余るほどの金品を手にしましたが、代償として二枚舌・三枚舌を駆使したため、讃えられるべき名誉がどこにもありませんでした。
一方ユーラシア大陸の東西の端に位置するフランスと中国は、ともに尊大さで有名であり、名誉を重んじる余り産業で成功したとは言えません。
つまりフランス人には、名誉だけがあり金がない。イギリス人には金だけがあり名誉がない。
そこでフランス人であるシュルクフ(シュルクーフ)が言ったのは、みな自分に欠けているもののために闘う、つまりイギリスは名誉のために戦い、フランスは金のために闘う、となりました(笑)。
広がり続ける中国の排外主義
名誉を欠いた愛国主義を民族主義ともいう。こうした民族主義は長く中国に横たわってきた。ベオグラードの中国大使館誤爆事件などでは、米国も標的となった。あのようなデモの様子は、文化大革命(1966-76年)を思いだす。
:ジェームズ・リリー元駐中国の米国大使 2008年04月27日 4月27日16時15分配信 産経新聞
中国の愛国主義は、中国共産党のキャンペーン・洗脳によるもので、中国共産党の維持存続だけが臭いすぎ、すでにどこにも「中国の名誉」などなく、あきらかに歪んだ民族主義でしょう。
なぜ「歪んだ」としたか。それは、そもそも漢族のみならず多民族の生活領域を「美しい言葉」で偽り、武力弾圧で全体の統一を装っているだけであり、まともな民族主義とは言えないからです。
とにかく「中国共産党の威光に賛同しない」者に対しては、もうどんな捏造・でっちあげ手段をもってしてでも、しつこく攻撃しますが、こんなウソ八百の相手をしていると、人間がミジメになってきますね(笑)。
性善説と性悪説とは、どちらが正しいかではなく、いつも混在しているとみるべきなのでしょう。
一つの考えですが、広辞苑第六版にはこう記されています。
せいぜん‐せつ【性善説】
人間の本性は善であり仁・義を先天的に具有すると考え、それに基づく道徳による政治を主張した孟子の説。荀子(じゅんし)の性悪説に対立。
せいあく‐せつ【性悪説】
荀子じゅんしの性説。人間は欲望を持つためその本性は悪であるとして、礼法による秩序維持を重んじた。孟子の性善説に対立。
これら偉人「孟子・荀子」を生んだ中国では、今や、性善説に基づく道徳は消滅したし、性悪説に基づく秩序さえ存在しません。
日本には、古代中国の偉人の説が現代中国にも息づいていると信じている、まるで生きた化石のような「純朴な文献派」が見られますが、これらの人達は中国共産党に巧みに利用されている、などとは微塵も思っていない、ようです(笑)。
最後に、やや情けない「欲望」をどうぞ(笑)。
あたま
♬ 金も名誉も女もいらぬ あたしゃ頭の毛が欲しい ♬