平成太平記

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【コラム】大韓帝国はなぜ滅びたのか

2015年12月20日 15時08分09秒 | Weblog

【コラム】大韓帝国はなぜ滅びたのか

今年、旧韓末時代について学んだ
あまりにも多くの人材がむなしく死んでいった
外国勢力より恐ろしいのは国力全体をダメにする無能政治だった

鮮于鉦(ソンウ・ジョン)論説委員
解放(日本による植民地支配からの解放=日本の終戦)70周年を前に、
昨年の今ごろある決心をした。
 
解放前の歴史、特に旧韓末(大韓帝国1897-1910年)の歴史を学び、
 
「当時の我が国はなぜ滅びたのか」について整理してみようと思ったのだ。
 
学べば学ぶほど頭の中が混乱したが、それでも一つの流れはつかんだ。
 
我々にも国権を守る機会と情熱、才能があったのだ。
 
「1年勉強してやっとその程度しか分からないのか」とおっしゃられるかもしれないが、
私にとっては意味がある。
 
「外国勢力の侵略・略奪のせい」
 
「先祖が無能なせい」という両極端な主張に振り回されない自信が生まれたからだ。

先日、先輩論説委員から国権喪失後の朝鮮陽明学者の悲惨な死を記録した貴重な論文をいただいた。

ミン・ヨンギュ教授(故人)が1987年に書いた「江華学最後の光景」という論文だ。

この論文を読みたいと思っていたのは、日本史を学ぶ際に得たこま切れの知識のためだ。

命懸けで国を列強の仲間入りさせた明治維新の主役たちは陽明学の大きな影響を受けていた。

陽明学は知行合一(知ることと行うことは表裏一体で切り離せないという考え方)を重視するので、実践家に合う思想だ。

我が国にもそうした陽明学派がいたということが興味深かった。

論文は、陽明学者の黄ヒョン(ファン・ヒョン、ヒョン=おうへんに玄)兄弟が

国権喪失後34年の時差を置いて自決するところから始まる。

どうしても命を絶てない同志たちは「氷雪に閉ざされた三千里の山野を転げるようにして」満州に向かい、「困窮の極みで葬儀はおろか棺おけを買う金もなく」次々と死んでいった。

自ら安楽を捨て、死地を選びそこへ向かう最期の光景は小説より悲壮だ。

著者は「動機の純粋さのため」と書いた。

「最善を尽くしたからこの世に未練はない」という意味だろうか。

「日本の帝国主義下に生きて何になるのか」という意味だろうか。

黄ヒョンは自決の理由を遺書に

「皇恩枯骨に及ぶからでなく、誰かにさせられたからでもなく、ただ悔しくて」と書いた。

陽明学の門外漢なので深い意味を計り知ることはできない。ただ虚無だった。

命をささげた日本の陽明学派も「動機の純粋さ」を重視したのだろう。

しかし、彼らは動機と同じくらい重要な目指すべき所を持ち、死を通じて成し遂げた。

我が国の陽明学派は何のために死んだのだろうか。

彼ら以前にもこの国には喜んで命をささげた数多くの実践家がいた。

ところが、両国の命の価値はなぜこれほど違うのか。

勇気と情熱は同じなのに、我が国はなぜ滅んだのだろうか。

識見不足のため一つを知ると十の疑問がわいてくる

 歴史書を読めば読むほど、とにかく外国勢力のせいにする主張に興味をなくした。

江華島条約から国権喪失まで我々には30年近い時間があった。

歴史にも三振法が適用される。

甲申政変・甲午改革・光武改革は貴重なチャンスだった。

歴史書を読むほどに興味をなくす主張がもう一つある。

朝鮮は国力が枯渇し、すでに滅びた国だったという宿命論だ。

我が国を長年見てきた当時の西洋人たちは、

一様に優れた才能、熱い教育熱、豊富な資源を高く評価していた。

まだ強くはなかったが、強くなることができる国だった。

その国で黄ヒョンはなぜ「人間世界の識者役は難しい」という絶命詩を残して死んだのか。

 本当に識者役が難しかった時代だったようだ。

開花を夢見て政変を主導した当代の天才・金玉均(キム・オッキュン)は殺害された後、

四肢を切られ全国でさらされた。

改革を主導した朝鮮最後の領議政(議政府の最高官職)・金弘集(キム・ホンジプ)は失脚後、

群衆の前に投げ出されて他殺された。

外国勢力の暴挙だったとしたら、もっと虚無的でなかっただろう。

胸が痛むのは、数多くの人材が改革を試みながら、

仕えていた王により最期を迎えたことだった。

王は改革により王権を制限された時、改革全体を放り出した。

民族の情熱や才能も、

天が与えた貴重な機会も絶対王権の前に30年間もがいたあげく、

終わりを迎えて消え去った。無能な政治はこのように恐ろしいものだ。

情熱と希望が枯渇した国には皇帝だけが残った。

国権をよこせと要求する日本に対し、皇帝は「大臣と国民の意向を問う」と後に下がった。

伊藤博文は「不可解なことこの上ない」と皇帝を嘲笑(ちょうしょう)した。

「貴国は憲法政治でもなく、万機すべてを陛下が決定する、

いわゆる専制君主制ではないのですか?」。

この幻のような権力を守るために忠臣や改革を捨てたのか。

旧韓末のことを語ると、「今は国力が違う」と人々は言う。それも事実だ。

だが当時の我が国は国力が足りなくて滅びたのだろうか、

それとも国力を育てる改革ができなくて滅びたのだろうか。

考え方はそれぞれだが、

民族の才能と情熱、改革の機会をまとめて国を引っ張っていくことができなかった政治のせいで滅びたのは明らかだろう。

100年後の子孫たちが書き記す歴史に、今の私たちはどのような姿で書かれるのだろうか。

歴史は我々の胸を痛くした分だけ教訓を与えてくれる。今年それを悟った。

 


韓国、朴大統領「経済危機警告」国会空転の裏に「民族悲劇」

2015年12月20日 14時37分28秒 | Weblog

韓国、朴大統領「経済危機警告」国会空転の裏に「民族悲劇」

 勝又壽良の経済時評

 週刊東洋経済元編集長の勝又壽良

 2015-12-20

エコノミック・ショート・ショート

 韓国経済は、確実に下り坂局面に入っている。

 政府は緊急対策を国会に提案中だが、空転したままである。

 嵐が来ようとしているのに、その備えを怠っている様は、端から見ていても心配になるほどだ。

 普段から「反日」三昧の韓国のことだから別段、心配するには及ばないとしても、政治として余りにも「無能」に映る。

 経済の沈滞は、国民生活に大きな影響を及ぼす。

 本来なら可能な限り、その回避策を取るものだ。

 韓国国会はそうした危機感を共有せず、勝手な理屈を付けて、政府と対決する姿勢である

来年の総選挙を控えて、野党は「妥協しない政治」をアッピールしている。

 この「決められない政治」状況に対して、

1910年の日韓併合当時の政治状況を重ねる意見まで出ている。

 この問題は、後で取り上げたい。


『中央日報』(12月15日付)は、「朴大統領の経済危機警告、与党は非常立法の声」と題して、次のように報じた。

 ①「朴槿恵(パク・クネ)大統領は12月14日、

『国会が経済活性化法案と国民生命・安全に直結する法案には関心を向けず、

国民の生活とかけ離れた内部問題にばかり没頭するのは、

国民と民生を無視するのと変わらない』と述べた。

朴大統領は青瓦台(チョンワデ、大統領府)で開かれた首席秘書官会議で、

『12月9日に第19代国会の最後の通常国会が終了したが、

残念なことに国会の国民のための政治は消えた』とし、立法議論に参加しない野党を批判した」。

韓国国会が、国民生活に直結する重要法案を審議もせずに放り出している。

どう見てもおかしなことだ。賛成か反対か。ないしは一部修正か。

いずれかの決定を下さないままで国会が終わったとは、同情すべき話である。

そうは言っても、3年前までは、日本でも「決められない政治」を続けていた。

政治が混乱していると、経済は動きが取れないのだ。

小沢一郎氏は、その決まらない政治を裏で演出し続けていた。

今は、小沢氏が少数派に転落して、日本経済は本当に危ないところを助かった。

 
②「朴大統領はこの日、労働改革法案などの処理遅延が『大量失業』など経済危機を招くと強く警告した。

『供給過剰で全般的に沈滞に陥った業種を事前に構造改革しなければ全体的に大きな危機に陥ることになり、大量失業につながるしかない』と述べながらだ。

また『来年も経済をめぐる環境は厳しい』とし、

『来年序盤に一時的に内需が停滞する可能性があり、総選挙日程で企業投資決定が遅れることも考えられる』とも述べた。

朴大統領が経済に関して『危機』という表現を使ったのは下半期に入って初めてだ」。

韓国の基幹産業である鉄鋼・造船・化学などいずれも不振を極めている。

これら産業の構造改革を政府主導で行おうというものである。

造船業の再建では政府資金を入れる動きがあり、日本政府が問題視している。

というのは、

韓国政府系の韓国産業銀行や韓国輸出入銀行で構成される債権団が、

世界造船首位の大宇造船に対し約4300億円を支援すると発表したからだ。

世界貿易機関(WTO)の規定では、

企業間の公正な貿易取引が阻害される事態を防ぐため、特定の企業に対する政府の補助金を制限している。

特に、他国企業と競う新規受注向けに、政府が有利な条件で融資することは輸出補助金とみなされて認められないのだ。

韓国政府が、WTOでの「禁じ手」を使うとすれば、

いかに大宇造船の危機が深刻であるかを物語る。

この種の緊急を要する法案が宙に舞っている。

 ③「これに合わせて与党内では、

『非常立法』主張があふれた。

青瓦台とセヌリ党内では国会議長が責任を持って民生経済法案を職権上程するべきだという主張が出ている。

青瓦台の関係者は、『野党が法案審議に出席しななければ職権上程でもしなければいけないのでは』と話した。

別の関係者は、

『朴大統領が危機だと述べたのは、法案職権上程要件の一つである『国家非常事態』に該当するという点に言及したとみればよい、とし職権上程に圧力を加えるという意味もあると説明した』。

韓国では、「緊急財政・経済命令」という法律がある。

「大統領は重大な財政・経済危機のために緊急な措置が必要であり、

国会の集会を待つ余裕がない場合、法律の効力を持つ命令を発することができる。

その後、国会の事後承認を得なければいけない」と規定している。

この 伝家の宝刀を前に野党が軟化気配である。

新政治民主連合は、14日午後遅く与野党院内代表間の会談に応じた。

この席で両党院内代表は該当常任委を開いて争点法案の議論を再開することに同意した、という。

朴大統領が、経済危機説を口にするほど差し迫っている。

韓国政治は、今から105年前も混乱していたのだ。

 『朝鮮日報』(12月16日付)は、コラム「大韓帝国はなぜ滅びたのか」を掲載した。

筆者は、同紙の鮮于鉦(ソンウ・ジョン)論説委員である。

鮮于鉦氏は、「知日派」である。

鮮氏の記事は、このブログで取り上げる機会が多い。

私も啓発される面が多々ある。

ここでは、日韓が揃って中国の「陽明学」を学びながら、

その影響が全く異なっていたことを論じている。

陽明学とは、明の王陽明が唱えた儒学である。

同じ儒学の朱子学の形骸化を批判して、「知行合一」説を唱えた。

「知って行わないのは、未だ知らないことと同じである」と主張し、実践重視の教えを唱えた。

朱子学とは、万物の理を極めてから実践に向かうとする「知先行後」である。

陽明学は、これを批判したのだ。

④「(韓国人)ミン・ヨンギュ教授(故人)が1987年に書いた『江華学最後の光景』という論文を読んだ。

(日本を)命懸けで列強の仲間入りさせた明治維新の主役たちは、陽明学の大きな影響を受けていた。

陽明学は『知行合一』(知ることと行うことは表裏一体で切り離せないという考え方)を重視するので、実践家に合う思想だ。

我が国(韓国)にもそうした陽明学派がいたということが興味深かった」。

明治維新の主役は、長州藩(山口県)の吉田松陰が率いた松下村塾の塾生である。

現在、NHKの大河ドラマ「花燃ゆ」で演じられている。

吉田松陰は、陽明学を学び塾生にもそれを説いていた。

塾生は、多くが武士であり行動力を備えていた。

武士は、文武両道を学んでいたのだ。

韓国ではヤンバン(両班)が支配階級であったが、文官が武官の上に立っていた。

ヤンバンと言っても、事実上は文官である。

文官ゆえに、陽明学を学んでもそれを実行する武芸を持たず、行動力がなかった。

この点が、日韓の陽明学において決定的な相違点である。

日本では武士が陽明学を学び、自らの武芸を理想の実現に向けて使った。

韓国のヤンバンは、文官であり武芸と離れていた。

自らの知識を実行できなかった。

それだけに、まさに「悲憤慷慨」の心境に追いやられて、自決の道を選んだのであろう。

⑤「論文は、陽明学者の黄ヒョン(ファン・ヒョン、ヒョン)兄弟が国権喪失(注:日韓併合)後34年の時差を置いて自決するところから始まる。

著者は、『(自決は)動機の純粋さのため』と書いた。

『最善を尽くしたからこの世に未練はない』という意味だろうか。

『日本の帝国主義下に生きて何になるのか』という意味だろうか。

黄ヒョンは自決の理由を遺書に

『皇恩枯骨に及ぶからでなく、誰かにさせられたからでもなく、ただ悔しくて』と書いた。

陽明学者の黄ヒョン(ファン・ヒョン、ヒョン)兄弟の自決した理由は、

「誰かに(強制)させられたからでもなく、ただ悔しくて」としている。

陽明学の「知行合一」という実践の理論を学びながら、無念にもそれを実践できなかった。

自らを裁かざるを得なかったといえよう。

私は、この心境が痛いほど理解できる。

大河ドラマ「花燃ゆ」で松下村塾の塾生たちが、

「武士として行動すべき時に立たなかった」と悔いる場面がある。

黄ヒョン兄弟が抱いた絶望的な心境と重なり合うのだ。

陽明学の神髄がここに現れていると思う

⑥「命をささげた日本の陽明学派も、『動機の純粋さ』を重視したのだろう。

しかし、彼らは動機と同じくらい重要な目指すべき所を持ち、死を通じて成し遂げた。

我が国(韓国)の陽明学派は何のために死んだのだろうか。

彼ら以前にもこの国(韓国)には喜んで命をささげた数多くの実践家がいた。

ところが、両国の命の価値はなぜこれほど違うのか。

勇気と情熱は同じなのに、我が国はなぜ滅んだのだろうか」。

日本の陽明学は、武士という実践行動を担う「下級官僚群」によって実践された。

韓国の陽明学は、文官という「上級官僚群」に知識としてのみ受け継がれた。

武官は、支配権を持っていなかった。

ヤンバン階級における「文・武」の分断が、

陽明学を実効あらしめるものにしなかったのであろう。

韓国は、知識への評価が偏重している社会である。

官僚試験「科挙」が重視されたのは、この知識偏重という背景が存在した。

韓国は今でも、日本よりも無条件に「道徳国家である」と信じている。

何の根拠もないが、そう思いこんでいるのだ。

このアンバランスな思考回路には、「理性」が欠如している。

ただ、「感情」でそう判断しているに過ぎない。

黄ヒョン兄弟が、日韓併合(1910年)後、

34年経って(1944年)から自決したのは、

自ら政治行動を起こさずにいた責めの方法として選んだのであろう。

これについての批判は慎みたい。

韓国知識人が現在、

「反日」の大波に呑み込まれて、

一切の公正な発言を控えている事実と、一脈通じた側面があると思う。

知識人は世俗社会と離れて、高見から混沌とした社会を眺めている。

そういった、韓国知識人社会の悪しき慣習が生きているのでなかろうか。

現代こそ、「知行合一」が求められている。

 (2015年12月20日)