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「三四郎池」美禰子さんと三四郎!

2017-03-12 00:23:58 | 日記



Nさん、アップしていただいてある「三四郎池」の写真を、お借りします。
Nさんの数日前の記事、「Nです。退院を報告します」を読ませていただきました。
じつに分かりやすくて詳細な病状報告であり、闘病記とも言えるように思います。
Nさんの治療の現在と、事故後から今までの、ぼくが知ることのなかった過程を
教えていただくことができました。また文章表現が分かりやすくすばらしいので、
Nさんの現状の全体像についてぼくなりによく理解することができます。

とにかく、大変な症状をずっとかかえてこられたわけです。痛みというのは、本人
以外には理解不能なことだと思います。ほんとうにお気の毒です!ということば
いがいにはなにもありません。

ぼくが数年前にテニスで腰を痛めた時に、近所の整形外科ではもうテニスは無理
ですよと言われて、慌てて九段坂上にある整形外科に特化した様な病院で検査の
結果、痛みが取れたらその前でも、できるようだったらいつでもやっていいですよ、
と言われたことがありました。

その頃は、歩いて横断歩道を渡るときでもたいへんな苦痛があったのです。テニス
が再びできるなどとは100%考えられなかった。痛みの怖さが常にあったのを憶え
てはいます。でもその痛みは、今では想い出の中の痛みでしかないですね。その
頃の痛みの質、その激しさは、また痛くってみないと分からない!このことは確かな
ことだと思います。

先日のNさんの施術の結果が、そしてこれからの治療が、さらに良い方向に向かっ
いきますようにと、こころからお祈りをするしだいです。

ところで、Nさんのその文章の冒頭には、
「東京大学構内の『三四郎池』です。『迷える子羊ね』なんて言われたら……」、
と書かれています。ぼくはこの文章の意味が実は、よくわからなかったのです。
ここ以外の文章は、ぼくなりにほんとうに分かりやすく読みやすかったのですけど。

ぼくが分らなかったのは、「三四郎池」と「迷える子羊」の結びつきでした。その関係性が
理解できなくて、なにかの譬えなのか、それとも看護師さんとの話のなかでその関係性に
について聞いたことなのか、それとも、Nさんの自己意識(聖書に即した)としての「迷える
子羊」としてのことがらなのか、いったいどういうことなのか、意味が分りませんでした。

たとえば僕にとってのことを言ってみますと、「三四郎池」には何度もいったことがあるけど、
そこで「迷える子羊」を関連づけるようななにかに思い当たることはまったくなかったわけ
です。
ぼくにとってはいつでもそうなのですが、その「迷える子羊」という言葉を聖書とか何かの
文章の中で目にしたときにはかならず、それはぼく自身のことであるという方に意識が向
いてしまうのです。まあそういった自己意識は、ぼくの過去から現在にいたる現実存在の
過程がその通りでもあるので、そういう意識の流れはぼくにとってまったく自然なことです。
つまりぼくは、「迷える子羊」そのものなのですね。そしてこうした自己意識は、無くなるよ
うにしなければならない、残された時間がすくないのだから何とかしなければというじかく
もつよくありつづけているげんざいなのですが。 

(こうして書いていて、なにを書こうとしているのかわからなくなってきてしまいました)

でも、そうなのです。「迷える子羊」については、そうするしかなくて、そうすること以外に
は分かる手立てがないので、その意味を解くべく、グーグルに聞いてみることにしました。
(それにしてもグーグルは不気味すぎて末怖ろしく感じる点があります)

そして、グーグルのお陰ですぐにそれはたぶん解決したのでした。
しかしそれにしても、そういうことであったということを知っていたNさんは、素晴らしいです。
ほんとうに注意深く、丁寧に、ふかくその小説を読んでいるのですね。という思いをつよく
もちました。

といっても、このことについて知っている方にとっては、なにをもったいぶって書こうとしてい
るのかと胡散臭くおもわれていることと思います。でも、そういうことを初めて、こういう場所
で奇しくもNさんによって教えられたことが、ぼくにとってはほんとうに不思議なことなのです。
だって、ここでぼくがNさんの文章になんの疑問も感じなかったら、そうしたことを、事情を知
ることができなかったわけですから、この偶然の不思議な出会いに感謝したいのです。

そしてその事情なのですが、夏目漱石の小説『三四郎』の主人公の2人が初めて出会った
場所が「三四郎池」であったという筋書きなのだそうです。そしてその「迷える子羊」ですけど、
このことばは、この小説のキーワードになるような重要な言葉でもあるらしい、のだそうです。

そして、この小説の主人公である三四郎と美禰子の2人が、なんどもつぶやく言葉なのだそ
うです。そしてこの「迷える子羊」ということばは、この小説の中では、「 stray sheep ストレ
イシープ」「迷羊(ストレイ・シープ)」「迷える子(ストレイシープ)」などと表記さていて、この小説
の中では頻回にでてくることばなのだそうです。

ぼくも大昔、漱石の『三四郎』はよんだのです。でも面白かったという記憶以外には、なにも
記憶にのこっていません。三四郎という名前は忘れなくても、美禰子という名前は忘れてい
て、こんかい少しだけ読んでみてなんだかそういえばそんな名前がということなのです。しかも、
お恥ずかしい限りなのですが、この美禰子の読み方「みねこ」を「みやこ」としてインプットして
いました。これは、美禰子の禰は、禰宜とか権禰宜という神官の呼び名を思い出せばよかった
わけです。

でも、恥とやらのかきついでに、少し前にあの安倍さんが有名にした「云々」ですが、あの安倍
さんは、「てんでん」と読んだわけですが、ぼくは、「いいいい」と読み慣わしていましたのでした。
しかし、こうしたことをぼくは、恥であるとは露ほども、とはいかなくてもそんなには思ってはいま
せん。知らないことは知らないわけで、仕方ないことです。
もっとみっともないことは、ぼくもよくやってしまう知ったかぶりですね。しかしあの安倍さんですが、
あの時に、実は間違えてしまいましたね!などと率直に笑って言ったならば、あの安倍さんを、
今よりももう少しは信用できていたような気がするのです。いまでは99%です!

ここまで、なにを書いてきたのか……状態です。
中途退場とさせていただきます。
ただ最後に、ただNさんは、やはりあそこで1%でものうんちくを傾けていただいた方が、ぼくにと
っても助かったし時間の節約になりましたですね。また、そうしたことごとを知っている人以外の
ひとには、「三四郎池」についての印象が遠いままで終わってしまうのではないかと、すこし残念
な気がしなくもありません。しかし、でも僕にとっては正直なところ、その文章の中で教えていただ
かなくてかえって良かったと思うのです。今となっては、わざわざNさんが“謎々”として書いてくだ
さったおかげで、そこですこしウロウロさせていただいたお陰で、得ることがたくさんありました。

美禰子を“みやこ”と読み間違えたのもわかりました。またそこからの連想でほんとうに久しぶりに、
井上靖さんの短編小説『霧の道』の主人公の“三弥子”さんに、半世紀の時間を経て再会するこ
とができました。この小説を想いおこすことなど、美禰子をみやこと間違ってよんでいなかったら
ふたたび出会うこともなかったわけです。東大の構内もその昔、ときどきうろついたことがありま
した。東大の弥生門、竜岡門、文京区西片町、弥生町、本郷肴町、真砂町、白山御殿町など、
今では町名が消えてしまった所もあります。その辺の場所のほとんどは本郷…丁目、白山…丁目
という住所表記に変わってしまいました。郵便配達も大変だし、いろいろなお役所仕事としては
そうした方が管理しやすいということなのでしょうか。 

石川啄木にしても宮沢賢治や樋口一葉、その他数多くの小説の登場人物が生活した世界は、
、その大部分が旧町名となってしまったのだと思います。このグループでも、たしか東大正門から
菊坂下へ向かう途中にあるたしか森川町だったかの旅館「鳳明館」に、二度くらい合宿で泊まっ
たことがあったはずです。一度などは、東大構内を散策してから湯島を通って上野の山にいった
ことがありました。おぼろげな想い出をたどってみるとほんとうになつかしい、遠いとおい遥か昔
の、みんなが、ぼくも、生きていたはずの夢のなかのせかいのことごとになってしまいました…… 

Nさんへのコメントを書くだけのつもりが、「迷える子羊」のことから思わぬ文章になってしまいま
した。いつもながらのことですみません。でも、上記したことも中途半端になってしまいました。
この続きを書くとしたら、『三四郎』をぜんぶ読まないことには始まりませんね。

Nさん、またよろしくお願いいたします。それにしてもNさんは漱石の大ファンなのでしょうか。
その昔中学生の頃、漱石を読みふける友人がいたのをおもいだします。ぼくは漱石について
は少ししか読んでいません。ただこうしたことについては、 吉本さんも他の誰も教えてくれなか
ったです。
いや、教えてもらったのだけれども、いつもどおり忘れてしまったのだと思います。
その「三四郎池」ですが、いま調べたら、第90回五月祭は5月20日(土)、21日(日)だそうな
ので 、久しぶりに散歩してみたいとおもいます。忘れることがなかったらなのですが……

青空文庫『三四郎』。ご存知と思いますが、著作権切れで、下記で全文ただ読み可です。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/794_14946.html

新約聖書 マタイによる福音書 18章10節~14節

あなたがたは、これらの小さい者のひとりをも軽んじないように、気をつけなさい。あなたがたに
言うが、彼らの御使たちは天にあって、天にいますわたしの父のみ顔をいつも仰いでいるのであ
る。人の子は、滅びる者を救うためにきたのである。

あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九
匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。もしそれを見つけた
なら、よく聞きなさい、迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。
そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない。

(日本聖書協会 口語聖書 1954年改訳)